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夫のいない日々
朝焼けの光が、淡く寝室を照らす。
カタリーナは、早くに目を覚ましていた。けれど、隣に夫の姿はなかった。
いつものことだった。
レオナルドの部屋は、屋敷の西棟にある。
結婚して数年が過ぎた頃から、自然と寝室は別になった。
最初は、彼の仕事が忙しく帰宅が遅れる日が増えていたこと、
そして――赤子だった次男の夜泣きが、ほぼ毎晩のように続いていたことが背景にあった。
家にはもちろん、乳母や侍女もいた。
けれどカタリーナは、「子どもの世話は、できる限り自分の手でしたい」と望んだ。
小さなぬくもりを腕に抱くたび、母親としての喜びが胸に満ちた。
どれだけ眠れなくても、その小さな命が彼女にとっては何よりの希望だった。
──なのに。
ある晩、夜中に泣き出した次男をあやしていたときのことだった。
レオナルドが寝室の扉を開け、苛立ちを抑えた低い声で言った。
「眠れないだろ……次の日も仕事があるんだ」
その言葉が、冷たい刃のように胸に突き刺さった。
彼は怒鳴ったわけではなかった。
けれどカタリーナには、まるで「母親としての行い」を否定されたように感じられた。
──わがままだったのかもしれない。
──自分が子育てをしたいなんて、ただの思い上がりだったのかも。
彼の言葉を聞いた夜、カタリーナは初めて、自分の選択を責めた。
それから彼のために、と自分に言い聞かせて、寝室を分けるようになった。
“思いやり”のつもりだった。
けれどそれが、ふたりの間にできた最初の決定的な距離だったとは、まだ知らなかった。
朝食の時間。カタリーナは、子どもたちと三人でテーブルに着いた。
「母上、今日の携え籠にぶどうは入っていますか?」
「もちろん。昨日、御用商人から届いたばかりの、熟したものを入れておいたわ」
「ふふ、ありがとうございます。あれ、好きなんです」
次男の笑顔に、カタリーナは自然と頬をゆるめた。
この笑顔を守るためなら、何だってできる――
そう思えるのは、母になったからかもしれない。
けれどその一方で、息子たちの心にも、少しずつ“穴”ができ始めていることに、カタリーナは気づいていた。
「ねぇ、父上は今日は来てくれるの?」
ふいに、長男が聞いた。
一瞬だけ、食卓の空気が止まる。
「お仕事なのよ。大事な会議があるって」
「……そっか。アルトくんのお父さん、こないだ城の庭で馬車を見せてくれたんだって。
ルカくんのお父さんは、一緒に剣の練習してくれるんだってさ。
いいなあ……そういうの、楽しそうだったな」
その言葉には、わざとらしさのない、本当に自然な羨望がにじんでいた。
「……そうね、いいわね」
笑って返したその声は、自分でも驚くほどに静かだった。
レオナルドは、彼らの父でありながら、家族の記憶の中に共にいる父親として存在していない。
記念日も、子どもたちの学びの式典も、熱を出してうなされた夜も──彼はそのすべてに姿を見せなかった。
けれど、最初からそうだったわけではない。
結婚して間もない頃、ふとした会話の中で、レオナルドはこんなことを口にしていた。
「もし子どもができたら……剣の手ほどきくらいは、俺がしてやりたいな」
そのときの彼の表情は、珍しく柔らかかった。
静かで不器用な男ではあったけれど、家族を持つことに、ほんの少し期待を抱いていたのかもしれない。
それだけに、いまこの沈黙が、胸に痛かった。
金銭面では、彼は完璧だった。
子どもたちの学費も、衣食住にかかる費用も、すべて過不足なく揃っていた。
ただ、それは愛とは違うものだった。
誰もそのことを、口には出さない。
けれど、寂しさは確かに屋敷の空気に染みついていた。
「本日も、旦那様は……ご不在ですか?」
侍女のミレーナが小さく尋ねると、カタリーナはいつものように微笑んだ。
「ええ。“急な政務”ですって。忙しい方だから」
まるで誰かに言い聞かせるように、静かにそう答える。
レオナルドが家にいないことに、誰も驚かない。
それが、この家の日常なのだから。
カタリーナは、早くに目を覚ましていた。けれど、隣に夫の姿はなかった。
いつものことだった。
レオナルドの部屋は、屋敷の西棟にある。
結婚して数年が過ぎた頃から、自然と寝室は別になった。
最初は、彼の仕事が忙しく帰宅が遅れる日が増えていたこと、
そして――赤子だった次男の夜泣きが、ほぼ毎晩のように続いていたことが背景にあった。
家にはもちろん、乳母や侍女もいた。
けれどカタリーナは、「子どもの世話は、できる限り自分の手でしたい」と望んだ。
小さなぬくもりを腕に抱くたび、母親としての喜びが胸に満ちた。
どれだけ眠れなくても、その小さな命が彼女にとっては何よりの希望だった。
──なのに。
ある晩、夜中に泣き出した次男をあやしていたときのことだった。
レオナルドが寝室の扉を開け、苛立ちを抑えた低い声で言った。
「眠れないだろ……次の日も仕事があるんだ」
その言葉が、冷たい刃のように胸に突き刺さった。
彼は怒鳴ったわけではなかった。
けれどカタリーナには、まるで「母親としての行い」を否定されたように感じられた。
──わがままだったのかもしれない。
──自分が子育てをしたいなんて、ただの思い上がりだったのかも。
彼の言葉を聞いた夜、カタリーナは初めて、自分の選択を責めた。
それから彼のために、と自分に言い聞かせて、寝室を分けるようになった。
“思いやり”のつもりだった。
けれどそれが、ふたりの間にできた最初の決定的な距離だったとは、まだ知らなかった。
朝食の時間。カタリーナは、子どもたちと三人でテーブルに着いた。
「母上、今日の携え籠にぶどうは入っていますか?」
「もちろん。昨日、御用商人から届いたばかりの、熟したものを入れておいたわ」
「ふふ、ありがとうございます。あれ、好きなんです」
次男の笑顔に、カタリーナは自然と頬をゆるめた。
この笑顔を守るためなら、何だってできる――
そう思えるのは、母になったからかもしれない。
けれどその一方で、息子たちの心にも、少しずつ“穴”ができ始めていることに、カタリーナは気づいていた。
「ねぇ、父上は今日は来てくれるの?」
ふいに、長男が聞いた。
一瞬だけ、食卓の空気が止まる。
「お仕事なのよ。大事な会議があるって」
「……そっか。アルトくんのお父さん、こないだ城の庭で馬車を見せてくれたんだって。
ルカくんのお父さんは、一緒に剣の練習してくれるんだってさ。
いいなあ……そういうの、楽しそうだったな」
その言葉には、わざとらしさのない、本当に自然な羨望がにじんでいた。
「……そうね、いいわね」
笑って返したその声は、自分でも驚くほどに静かだった。
レオナルドは、彼らの父でありながら、家族の記憶の中に共にいる父親として存在していない。
記念日も、子どもたちの学びの式典も、熱を出してうなされた夜も──彼はそのすべてに姿を見せなかった。
けれど、最初からそうだったわけではない。
結婚して間もない頃、ふとした会話の中で、レオナルドはこんなことを口にしていた。
「もし子どもができたら……剣の手ほどきくらいは、俺がしてやりたいな」
そのときの彼の表情は、珍しく柔らかかった。
静かで不器用な男ではあったけれど、家族を持つことに、ほんの少し期待を抱いていたのかもしれない。
それだけに、いまこの沈黙が、胸に痛かった。
金銭面では、彼は完璧だった。
子どもたちの学費も、衣食住にかかる費用も、すべて過不足なく揃っていた。
ただ、それは愛とは違うものだった。
誰もそのことを、口には出さない。
けれど、寂しさは確かに屋敷の空気に染みついていた。
「本日も、旦那様は……ご不在ですか?」
侍女のミレーナが小さく尋ねると、カタリーナはいつものように微笑んだ。
「ええ。“急な政務”ですって。忙しい方だから」
まるで誰かに言い聞かせるように、静かにそう答える。
レオナルドが家にいないことに、誰も驚かない。
それが、この家の日常なのだから。
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