鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

文字の大きさ
2 / 91

夫のいない日々

朝焼けの光が、淡く寝室を照らす。
 カタリーナは、早くに目を覚ましていた。けれど、隣に夫の姿はなかった。

 いつものことだった。

 レオナルドの部屋は、屋敷の西棟にある。
 結婚して数年が過ぎた頃から、自然と寝室は別になった。

 最初は、彼の仕事が忙しく帰宅が遅れる日が増えていたこと、
 そして――赤子だった次男の夜泣きが、ほぼ毎晩のように続いていたことが背景にあった。

 家にはもちろん、乳母や侍女もいた。
 けれどカタリーナは、「子どもの世話は、できる限り自分の手でしたい」と望んだ。
 小さなぬくもりを腕に抱くたび、母親としての喜びが胸に満ちた。
 どれだけ眠れなくても、その小さな命が彼女にとっては何よりの希望だった。

 ──なのに。

 ある晩、夜中に泣き出した次男をあやしていたときのことだった。
 レオナルドが寝室の扉を開け、苛立ちを抑えた低い声で言った。

 「眠れないだろ……次の日も仕事があるんだ」

 その言葉が、冷たい刃のように胸に突き刺さった。

 彼は怒鳴ったわけではなかった。
 けれどカタリーナには、まるで「母親としての行い」を否定されたように感じられた。

 ──わがままだったのかもしれない。
 ──自分が子育てをしたいなんて、ただの思い上がりだったのかも。

 彼の言葉を聞いた夜、カタリーナは初めて、自分の選択を責めた。
 それから彼のために、と自分に言い聞かせて、寝室を分けるようになった。
 “思いやり”のつもりだった。
 けれどそれが、ふたりの間にできた最初の決定的な距離だったとは、まだ知らなかった。

 

 朝食の時間。カタリーナは、子どもたちと三人でテーブルに着いた。

「母上、今日の携え籠にぶどうは入っていますか?」

「もちろん。昨日、御用商人から届いたばかりの、熟したものを入れておいたわ」

「ふふ、ありがとうございます。あれ、好きなんです」

 次男の笑顔に、カタリーナは自然と頬をゆるめた。

 この笑顔を守るためなら、何だってできる――
 そう思えるのは、母になったからかもしれない。
 けれどその一方で、息子たちの心にも、少しずつ“穴”ができ始めていることに、カタリーナは気づいていた。

「ねぇ、父上は今日は来てくれるの?」

 ふいに、長男が聞いた。

 一瞬だけ、食卓の空気が止まる。

「お仕事なのよ。大事な会議があるって」

「……そっか。アルトくんのお父さん、こないだ城の庭で馬車を見せてくれたんだって。
 ルカくんのお父さんは、一緒に剣の練習してくれるんだってさ。
 いいなあ……そういうの、楽しそうだったな」

 その言葉には、わざとらしさのない、本当に自然な羨望がにじんでいた。

「……そうね、いいわね」

 笑って返したその声は、自分でも驚くほどに静かだった。

 

 レオナルドは、彼らの父でありながら、家族の記憶の中に共にいる父親として存在していない。

 記念日も、子どもたちの学びの式典も、熱を出してうなされた夜も──彼はそのすべてに姿を見せなかった。


 けれど、最初からそうだったわけではない。

 結婚して間もない頃、ふとした会話の中で、レオナルドはこんなことを口にしていた。

 「もし子どもができたら……剣の手ほどきくらいは、俺がしてやりたいな」

 そのときの彼の表情は、珍しく柔らかかった。
 静かで不器用な男ではあったけれど、家族を持つことに、ほんの少し期待を抱いていたのかもしれない。

 それだけに、いまこの沈黙が、胸に痛かった。

 

 金銭面では、彼は完璧だった。
 子どもたちの学費も、衣食住にかかる費用も、すべて過不足なく揃っていた。
 ただ、それは愛とは違うものだった。

 誰もそのことを、口には出さない。
 けれど、寂しさは確かに屋敷の空気に染みついていた。

「本日も、旦那様は……ご不在ですか?」

 侍女のミレーナが小さく尋ねると、カタリーナはいつものように微笑んだ。

「ええ。“急な政務”ですって。忙しい方だから」

 まるで誰かに言い聞かせるように、静かにそう答える。

 レオナルドが家にいないことに、誰も驚かない。
 それが、この家の日常なのだから。
感想 86

あなたにおすすめの小説

離婚した彼女は死ぬことにした

はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。 もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。 今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、 「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」 返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。 それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。 神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。 大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

初恋にケリをつけたい

志熊みゅう
恋愛
「初恋にケリをつけたかっただけなんだ」  そう言って、夫・クライブは、初恋だという未亡人と不倫した。そして彼女はクライブの子を身ごもったという。私グレースとクライブの結婚は確かに政略結婚だった。そこに燃えるような恋や愛はなくとも、20年の信頼と情はあると信じていた。だがそれは一瞬で崩れ去った。 「分かりました。私たち離婚しましょう、クライブ」  初恋とケリをつけたい男女の話。 ☆小説家になろうの日間異世界(恋愛)ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの日間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの週間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/22)

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます

おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。 if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります) ※こちらの作品カクヨムにも掲載します

ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。

夏目
恋愛
愛している王子が愛人を連れてきた。私も愛人をつくっていいと言われた。私は、あなたが好きなのに。 (小説家になろう様にも投稿しています)

旦那様から彼女が身籠る間の妻でいて欲しいと言われたのでそうします。

クロユキ
恋愛
「君には悪いけど、彼女が身籠る間の妻でいて欲しい」 平民育ちのセリーヌは母親と二人で住んでいた。 セリーヌは、毎日花売りをしていた…そんなセリーヌの前に毎日花を買う一人の貴族の男性がセリーヌに求婚した。 結婚後の初夜には夫は部屋には来なかった…屋敷内に夫はいるがセリーヌは会えないまま数日が経っていた。 夫から呼び出されたセリーヌは式を上げて久しぶりに夫の顔を見たが隣には知らない女性が一緒にいた。 セリーヌは、この時初めて夫から聞かされた。 夫には愛人がいた。 愛人が身籠ればセリーヌは離婚を言い渡される… 誤字脱字があります。更新が不定期ですが読んで貰えましたら嬉しいです。 よろしくお願いします。

婚姻契約には愛情は含まれていません。 旦那様には愛人がいるのですから十分でしょう?

すもも
恋愛
伯爵令嬢エーファの最も嫌いなものは善人……そう思っていた。 人を救う事に生き甲斐を感じていた両親が、陥った罠によって借金まみれとなった我が家。 これでは領民が冬を越せない!! 善良で善人で、人に尽くすのが好きな両親は何の迷いもなくこう言った。 『エーファ、君の結婚が決まったんだよ!! 君が嫁ぐなら、お金をくれるそうだ!! 領民のために尽くすのは領主として当然の事。 多くの命が救えるなんて最高の幸福だろう。 それに公爵家に嫁げばお前も幸福になるに違いない。 これは全員が幸福になれる機会なんだ、当然嫁いでくれるよな?』 と……。 そして、夫となる男の屋敷にいたのは……三人の愛人だった。

嘘つきな貴方を捨てさせていただきます

梨丸
恋愛
断頭台に上がった公爵令嬢フレイアが最期に聞いた言葉は最愛の婚約者の残忍な言葉だった。 「さっさと死んでくれ」 フレイアを断頭台へと導いたのは最愛の婚約者だった。 愛していると言ってくれたのは嘘だったのね。 嘘つきな貴方なんて、要らない。 ※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。) 11/27HOTランキング5位ありがとうございます。 ※短編と長編の狭間のような長さになりそうなので、短編にするかもしれません。 1/2累計ポイント100万突破、ありがとうございます。 完結小説ランキング恋愛部門8位ありがとうございます。