鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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届かない声

その夜、客人たちが屋敷を後にしたあと。
カタリーナは、ひとり寝室に戻っていた。

昼間の喧騒が嘘のように、部屋には静寂が満ちていた。
ランプの光が揺れるなか、窓の外には淡い月が浮かんでいる。

(……疲れた)
ティモシオはすでに眠っていて、寝台の横のゆりかごからは、かすかな寝息が聞こえる。
カタリーナはローブを羽織ったまま、椅子に腰かけ、手元のティーカップに視線を落としていた。

紅茶はもうすっかり冷めている。

ほんの少しだけ、腰を下ろした寝台に身を沈めると、
今日一日の出来事が、まるで潮のように静かに押し寄せてきた。
「奥様は華やかな方ですこと。……セレスタの屋敷に来られてから、少しお静かになられた?」

思い出しただけで、胸が少し苦しくなる。
あれは、確かに探るような声だった。
――あの言葉。
表面は笑顔でも、刃のような言葉。貴族社会の中では当たり前とされるそれに、今日もまた晒された。

けれど、一番心に残ったのは──あの時、レオナルドが何も言わなかったことだった。

彼は、あの時――すぐ近くにいたのに、何も言わなかった。

自分の妻がどう思われようと、あの人にとっては“問題を起こさない”ことのほうが大切なのかもしれない。
──そう、思ってしまった。

ほんの一言でもよかった。
「そんなことはない」と、否定してくれれば。
あるいは、視線を合わせてくれるだけでもよかった。

でも彼は、兄弟と笑っていた。
“妻を守る”という言葉とは、少し違う場所にいた。

(私が期待してしまったのが、間違いだったのかな)

怒りではない。
ただ、じんわりと胸の奥に滲む、寂しさと、空しさ。

そんな思いが込み上げて、けれど声にはできなかった。

守られることを期待していた自分が、なんだか情けなくて。

──私は、今日、何度微笑んだだろう。

誰にも傷ついていないふりをして。
誰よりもうまく立ち回っているふりをして。

「貴族の妻として」振る舞うために、どれだけの言葉を呑み込んだだろうか。

ゆりかごの中のティモシオが、小さく寝返りをうつ。
その寝顔を見つめながら、カタリーナはほんの少しだけ肩の力を抜いた。

この子のために私は強くなろう。
誰がどう言おうと、母として、妻として、わたしらしく。

そう静かに誓いながら、カタリーナはそっと目を閉じた。

その胸の奥で、傷ついた心がじんわりと痛みながら、
同時に小さな命のために強くなろうとする、母としての意思が、ひっそりと芽吹いていた。

そして、いつか。
あの人にも、私の本当の声が届く日がくるのだろうか。

揺れる灯の下、カタリーナは静かに目を閉じた。
心に残った傷と、優しく重なるぬくもりとを抱きながら。

夜も更けた頃、ようやく重い扉が静かに開いた。
レオナルドが帰ってきたのは、親戚たちが引き上げたずっとあとのことだった。

カタリーナはすでに寝室に戻っていたが、まだ眠ってはいなかった。
ゆりかごのそばに座り、眠るティモシオの小さな寝顔を見つめていた。


「……遅くなって、すまない」
後ろからかけられた声に、カタリーナはゆっくりと振り返った。

ローブ姿のレオナルドは、どこか疲れた表情をしていた。
けれどその瞳には、ほんの少しの緊張と、何かを言いかけてためらうような色があった。

 
「大変だったの?」

「……少し、ね。来客が多いと、どうしても」

それ以上、互いに言葉を続けることはなかった。

彼があの場で“何も言わなかった”ことについても、
カタリーナは何も問いかけなかった。

きっと、問いかけたところで──
あの人は「そんなつもりじゃなかった」と、また静かに微笑むだけなのだろう。

「ティモシオ、今日いっぱいお利口にしてたのよ。……あなたが抱いてくれるの、きっと楽しみにしてるわ」

そう言って笑ったカタリーナの声は、どこか空に響くような軽さを帯びていた。

レオナルドはそっとティモシオの寝顔に手を伸ばし、指先で髪をなでた。
それだけで、何も言わず、寝室の隣の自室へと戻っていった。

背中越しに見たその姿が、なぜだかとても遠く思えた。

お疲れさま、と。たった一言でも、そう言ってくれたら。  
何もかもを求めていたわけじゃない。 
ただ、ほんのひとときだけでも、 わたしのことを妻として、母になったわたしとして、気遣ってほしかっただけ。 
   
でもその一言さえ、彼の口からは落ちてこなかった。    
その沈黙は、優しさの欠如ではなく、たぶん彼にとっては普通のことなのだと。  
彼は感情を言葉にすることが苦手で、言わなくても伝わるだろう、と信じているのかもしれない。  
  
けれど、産後のからだはまだ重たくて、心は柔らかくそして不安定だった。  
  
私は、ちゃんと見えているの?  
ただの子の母じゃなく、妻としてのわたしを。 
   
その問いを口にすることもなく、カタリーナは、ゆりかごにそっと布をかけた。  
眠るティモシオの小さな寝息が、規則正しく響いていた。
まるで、この部屋の空気をやさしく整えてくれているようだった。    
こんなにも小さな存在が、自分を“母”という名に変えてくれたのだ。  

誰にも褒められなくても。  
誰にも気づかれなくても。
  
それでも、守りたい命がここにある。    
「……大丈夫。お母さまは、ちゃんとそばにいるわ」  
かすれるような声でそっと囁いた。  
答えが返ってくるはずもないことは、わかっている。  

でも、言葉にしなければ、自分の心が崩れてしまいそうだった。    
ふと、レオナルドの姿が浮かぶ。 
 
優しかったあの夜、胎動に手を添えて微笑んだ横顔。    
あの時の彼は、今どこにいるのだろう── 
 
今の彼は、何を思っているのだろう。  
あの笑みは、ほんの気まぐれだったのか。  
それとも、あの瞬間だけは、たしかに家族になれたのか。    
問いかけてみたかった。  

でも、それを口にすることが、どうしようもなく怖かった。  

もし、返ってきた答えが冷たかったら  
もし、「あれは気のせいだった」と言われたら。  
わたしは、もう立っていられなくなってしまう気がした。    

だから今は、問いかけない。  
信じたい記憶だけを、心の奥でそっと抱いている。    

眠るティモシオの胸が、ふわりと上下する。  

その確かな命の動きが、カタリーナの鼓動を静かに整えてくれる。    

明日がどうなるかはわからない。  
でも、今この瞬間だけは、わたしは母でいられる。  
それが、ほんの少しでも、自分を支える光になると信じて。    

灯を落とした部屋に、ただ静かに、夜が降りていった。

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