鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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初めての旅行

朝靄のかかる屋敷の庭に、しっとりとした空気が漂っていた。
風に揺れる木々の合間から、柔らかな陽が差し込み、旅立ちの日を優しく彩っている。
中庭に用意された馬車の前で、ティモシオはお出かけが嬉しくて、ぴょこぴょこと跳ねるように走り回っていた。

「ティモ、転ぶわよ。危ないから気を付けて」

カタリーナが声をかけると、息子は振り返り、小さな手をぶんぶんと振って返事をした。

「うん! だって、はやくお山いきたいんだもん!」

その様子を、レオナルドは少し離れた位置から見つめていた。
いつもなら、こうした家族のやり取りに自分は加わらないままだった。
けれど、今は違う。彼は静かに歩み寄り、ティモシオの手を取った。

「お前が走っていると、お母さまが心配する。今日は特に」

「……はーい……」
注意されたティモシオは少し口をとがらせた。

レオナルドはそっとティモシオの前に膝を落とし、手を差し出した。
少し迷った様子のティモシオが、おずおずと手を伸ばす。
小さな指がレオナルドの手に重なった瞬間、ふと胸が締めつけられた。

(……いつ以来だろう。いや──もしかすると、初めて、か)

こんなふうに自分から、この子に触れた記憶が、ほとんどなかった。
小さなぬくもりが、まるで問いかけのように掌に広がっていく。
その様子に、カタリーナの胸がほんの少しだけあたたかくなる。

昔なら、見ているだけで済ませていたのに……)

本当に、彼が手を差し出すなんて――。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

過去の冷たい背中を、思い出してしまう自分がいた。
あの頃の彼なら、ティモシオの存在を遠くから眺めるだけだった。
自分が差し出した手さえも、彼に握られることはなかったのに。

(……それでも今、この人は、少しだけ変わろうとしているのかもしれない)

それは確かなものではなかったけれど、
信じたいという気持ちだけが、胸の奥で静かに灯っていた。

ほんの少しでも、こうして寄り添おうとする姿があることに、彼女は微かに安堵を覚えていた。

「それでは、そろそろお出発を」

執事の声に促され、三人は馬車へと向かった。

「ティモ、先にどうぞ」とカタリーナが言うと、
ティモシオは嬉しそうに「うん!」と答え、ステップに足をかけようとした。
その瞬間、小さな体がよろめいた。

「危ない──」

レオナルドがさっと手を伸ばし、ティモシオの背を支えた。
ティモシオは彼を見上げて、にこっと笑った。

「ありがとう、お父さま!」

レオナルドは一瞬、言葉を返せずにいたが、
やがて小さく頷いて、その背を軽く押してやる。

「しっかり持って上がれ」

そのやり取りを見ていたカタリーナは、
(昔のあなたなら、きっと口も手も出さなかった)と心の中で思う。

けれど今は、静かに背中を支えるその仕草に、
確かな変化の兆しがあるように思えてならなかった。

ふたりのあとに続き、カタリーナも馬車に足をかけた。
一瞬だけ、レオナルドの方を見たが──彼はただ視線を逸らしたままだった。

(……やっぱり、そこまではまだ、無理なのね)

寂しさが胸をかすめたけれど、それでも彼が背を向けなかったことが、ほんの少しの救いだった。

馬車の扉が閉まる頃には、どこか不思議な静けさと期待が、三人の間に流れていた。

馬車が門を抜けるころ、カタリーナはふと隣に座るレオナルドの手元に視線を落とした。
彼はいつものように手袋をしていたが、今日はなぜかその指先が少し、落ち着かなく見えた。

──緊張しているのだ。
この旅が、今の彼にとっても未知の一歩なのだと、カタリーナは気づく。

ゆっくりと馬車が街を抜け、山間の道へと差しかかる。
野の花が咲きはじめた丘の斜面、森を抜ける風の匂い。
カタリーナは窓の外を眺めながら、小さな声で呟いた。

「……春の匂い、懐かしいわ。いつぶりかしら、こうして外を旅するのは」

「……お前が出かけることを、好ましく思っていなかったからな」

レオナルドがぽつりと答える。
その言葉に、カタリーナの肩がわずかに揺れた。

彼がそれを認めるとは、思っていなかった。
レオナルドがどれほど偏った価値観で、カタリーナを傷つけてきたかを、自分の言葉で認めたことに驚いた。
(そう思っていたのね……)
知っていた。気づいていた。
けれど彼の口から、それを認める言葉が出るとは思わなかった。

自分の価値観を疑うことのなかった人が、
今、初めて、自分の誤りを言葉にしてくれた

「俺は、家を守るのは妻の務めだと思っていた。出歩く必要はない、家にいてくれればそれでいいと……。
でも、それがお前の世界を奪っていたのだと、今なら分かる」

ティモシオが膝の上で小さな声を立てて寝息を漏らし始めていた。
その寝顔を見つめながら、カタリーナは小さく囁く。
「……わたしも、あの頃は何も言えなかった。言っても届かないと思っていたし、あなたが怒るかもしれないって、どこかで怯えていた」

沈黙が落ちる。

けれどその静けさは、痛みを責めるものではなく、
ようやくお互いの言葉が“交差した”証のように思えた。

「……ありがとう、カタリーナ。……こうして出てきてくれて、本当に、ありがとう」

その声は低く、けれど確かに夫としての誠実さが込められていた。

カタリーナは答えなかった。
答えたい気持ちはあった。けれど、それを言葉にすれば、今までの痛みや戸惑いまでも一気に溢れてしまいそうで
唇は、ただ静かに閉じられたままだった。

旅はまだ始まったばかりだった。
けれどそれでも、三人の心の距離は、ほんの少しだけ近づいていた。
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