鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

文字の大きさ
上 下
49 / 88

レオナルドとの対話2

しおりを挟む
そんな彼を見て、カタリーナはわずかに声を強めた。

「黙っていては、何もわからないわ」

しばし沈黙が続いたあと、彼女の胸に、ひとつの想いがにじみ出る。

「……一時は、心を開いてくれたと思っていたのに」

それは、責めでも怒りでもなく、静かに滲む悲しみだった。

レオナルドは、しばらくのあいだ俯いたまま沈黙していたが、やがて重い口を開いた。

「……俺は、どうすればいいのか分からないんだ」

その声はかすれていて、普段の彼には似つかわしくない弱さがあった。

「三年という時間のなかで、家族にどう声をかけていいのか分からなくなっていた。戻ったときには、もう俺の居場所はどこにもない気がして……言葉をかけるのが怖くなっていた。

不貞を繰り返していたからかしら。
カタリーナの胸に、ひとつの思いが浮かんだ。
彼が沈黙し続け、家を遠ざけ、別の女性のもとで救いを得ようとしていた三年間。

それはまるで、家族の方が軽んじられていたかのような現実だった。
自分の何が足りなかったのかと何度も自問し、耐え、待ち続けた。

自業自得なのかもしれない。
そう呟きかけて、カタリーナは息を詰まらせた。

愛されたくて、努力して、笑って、母であろうとして……それでも選ばれなかったのだとしたら、何をどうすればよかったのか。

その想いが、静かに、けれど確かに胸を締めつけていた。


レオナルドは、母の期待や言葉が、ずっと頭から離れなかった。
家を守るなら、余計な感情は持つな。そう刷り込まれてきた気がしていた。

いつだったか、まだ少年だった頃、母にこう言われたことがある。
「あなたはセレスタ家の嫡男。感情で揺らいではいけません。理想の家を築く者は、私情よりも義務を優先するのです」

その言葉は、称賛でも励ましでもなかった。
ただ静かに、まるで当然のように告げられたその価値観は、彼の内側にじわじわと染みついていった。

誰かを愛することよりも、家名を守ること。
感情を表に出すことよりも、沈黙を選ぶこと。

そして大人になった今、気づけば自分の選択が、すべて誰かの期待をなぞるようなものになっていた。
それが、どれほど自分を縛ってきたのか……今になってようやく痛みと共に実感していた。

あの時もそうだった。初めて父に叱責され、涙を見せた少年の自分に、母は静かに言ったのだ。
「「泣かないの。貴族の男は弱さを見せてはいけないのよ」
大人になってからも、何かに迷うたび、母はそっと言葉を添えた。
「妻は静かに従うものよ。あなたは家の柱なのだから、私情などに振り回されてはだめ」
その言葉が積み重なり、いつの間にか感情を押し殺すことが正しいと信じてしまっていた。
だから……家には帰らなかった。向き合う勇気がなかった」

その言葉に、カタリーナはほんの一瞬だけ、心が揺れた。

けれど、その胸の奥には消えない問いがあった。

「それでも、あなたは父親でしょう?」
静かに、しかし逃れられない問いを重ねる。

その瞬間、カタリーナの胸には冷たい痛みが差した。
心のどこかで思ってしまった。

この人は、自分のことばかり。
怖い、苦しい、許されない。

そんな言葉ばかりを繰り返して、自分の中だけで閉じていた。
どれだけ子どもたちが、どれだけ私が、あなたの声を待っていたか。

愛しているなんて、もう期待していない。
それでも、せめて……ほんの少し、家族のことを、私たちのことを想ってほしかった。



その言葉は、レオナルドの胸に深く突き刺さった。
父親。
ただの役目ではなく、あの小さな手を初めて握った日のこと、病の夜に額に手を当てた記憶、背中にしがみつかれたあたたかさ。

彼の中に埋もれていた無数の父としての記憶が、静かに、しかし確かに蘇ってきた。

けれど同時に、それらを直視することの怖さも襲いかかってくる。
どれだけ月日が過ぎても、彼はまだ許されていいのかが分からなかった。

父親である資格。
それを奪ったのは、自分自身ではないか。

言葉にはできずとも、彼のまなざしは、静かに揺れていた。

「たとえ夫としての役目を果たせなかったとしても……あの子たちの父親であることは、変わらないはずでしょう?」

レオナルドは、しばらくの間その言葉を受け止めるように黙っていた。
やがて、視線をわずかにカタリーナへ向けた。

「……父親として、何かをしてやれる資格が、まだあると思っていなかった」

低い声だった。

「でも……お前の言葉を聞いて、今、ようやく……怖いけど、向き合わなきゃいけないと思った」

カタリーナの胸に、淡く揺れる灯がともったような気がした。

「あなたがいない間、子どもたちは……あなたの話をたくさんしていたのよ」

彼の瞳が、わずかに揺れた。

「あなたが剣の手ほどきをしたいって、昔言ってくれたこと。まだ、あの子は覚えてるわ」

それは、静かな、けれど確かな“希望”だった。

けれど、カタリーナの胸には、どうしても晴れない想いが残っていた。

「……どうしてそんなに、怖いの?」

それは、静かな声だった。

「私や子どもたちが、あなたを拒んだことなんて、一度でもあった?」

レオナルドは、はっとしたようにカタリーナを見た。
その問いは、予想外だったのかもしれない。

「あなたの言葉には、いつも『怖い』『戻れない』って……でも、それはあなた自身が決めたことでしょう?」

彼女の声は、涙ではなく、ただ冷静な真実を突きつけるものだった。

「……あなたのお母様の影響もあったのでしょう。
でもそれを理由にして、私たちに何も言わず、背を向けていたのは……あなたよ」

言葉は重く、しかしどこまでも静かだった。

「私は、あなたと夫婦として向き合いたかった。
子どもたちのことだけじゃない。私自身のことも、あなたのことも。
あなたは父親になった。もう子どもじゃないのよ。
いつまでお母様の言いなりになっているの?」

沈黙が落ちた。

それでも、カタリーナの目は逸らさなかった。
「……今からでも、私たち、夫婦として何かを取り戻すことはできるのかしら?」

レオナルドは、目を閉じて深く息を吸った。
その姿はまるで、胸の奥に沈んだ何かをすくい上げようとしているようだった。

「……分からない」

返ってきたのは、予想よりもずっと小さく、脆い声だった。

「俺は……きっと、母の言葉に縛られていた。完璧であれ、威厳を保て、感情を見せるな……そう言われ続けて育ってきた」

視線をゆっくりとカタリーナに向けながら、彼は続けた。

「お前と過ごした日々のなかで、心が緩むこともあった。
でも、それを弱さだと思ってしまった。
愛することが、許されない気がして……」

カタリーナは黙ってその言葉を聞いていた。

「今さら夫として何ができるのか、分からない。
でも……父親としてなら……いや、違う。
夫であり父である自分として……何かを取り戻せる可能性があるなら、俺は……」

そこで、彼の言葉は途切れた。
沈黙が訪れる。
だがそれは、かつてのような逃げの沈黙ではなかった。

「……俺は、お前と、もう一度向き合ってみたい」

しおりを挟む
感想 73

あなたにおすすめの小説

年に一度の旦那様

五十嵐
恋愛
愛人が二人もいるノアへ嫁いだレイチェルは、領地の外れにある小さな邸に追いやられるも幸せな毎日を過ごしていた。ところが、それがそろそろ夫であるノアの思惑で潰えようとして… しかし、ぞんざいな扱いをしてきたノアと夫婦になることを避けたいレイチェルは執事であるロイの力を借りてそれを回避しようと…

【完結】私、四女なんですけど…?〜四女ってもう少しお気楽だと思ったのに〜

まりぃべる
恋愛
ルジェナ=カフリークは、上に三人の姉と、弟がいる十六歳の女の子。 ルジェナが小さな頃は、三人の姉に囲まれて好きな事を好きな時に好きなだけ学んでいた。 父ヘルベルト伯爵も母アレンカ伯爵夫人も、そんな好奇心旺盛なルジェナに甘く好きな事を好きなようにさせ、良く言えば自主性を尊重させていた。 それが、成長し、上の姉達が思わぬ結婚などで家から出て行くと、ルジェナはだんだんとこの家の行く末が心配となってくる。 両親は、貴族ではあるが貴族らしくなく領地で育てているブドウの事しか考えていないように見える為、ルジェナはこのカフリーク家の未来をどうにかしなければ、と思い立ち年頃の男女の交流会に出席する事を決める。 そして、そこで皆のルジェナを想う気持ちも相まって、無事に幸せを見つける。 そんなお話。 ☆まりぃべるの世界観です。現実とは似ていても違う世界です。 ☆現実世界と似たような名前、土地などありますが現実世界とは関係ありません。 ☆現実世界でも使うような単語や言葉を使っていますが、現実世界とは違う場合もあります。 楽しんでいただけると幸いです。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

番(つがい)はいりません

にいるず
恋愛
 私の世界には、番(つがい)という厄介なものがあります。私は番というものが大嫌いです。なぜなら私フェロメナ・パーソンズは、番が理由で婚約解消されたからです。私の母も私が幼い頃、番に父をとられ私たちは捨てられました。でもものすごく番を嫌っている私には、特殊な番の体質があったようです。もうかんべんしてください。静かに生きていきたいのですから。そう思っていたのに外見はキラキラの王子様、でも中身は口を開けば毒舌を吐くどうしようもない正真正銘の王太子様が私の周りをうろつき始めました。 本編、王太子視点、元婚約者視点と続きます。約3万字程度です。よろしくお願いします。  

【完結】私の望み通り婚約を解消しようと言うけど、そもそも半年間も嫌だと言い続けたのは貴方でしょう?〜初恋は終わりました。

るんた
恋愛
「君の望み通り、君との婚約解消を受け入れるよ」  色とりどりの春の花が咲き誇る我が伯爵家の庭園で、沈痛な面持ちで目の前に座る男の言葉を、私は内心冷ややかに受け止める。  ……ほんとに屑だわ。 結果はうまくいかないけど、初恋と学園生活をそれなりに真面目にがんばる主人公のお話です。 彼はイケメンだけど、あれ?何か残念だな……。という感じを目指してます。そう思っていただけたら嬉しいです。 彼女視点(side A)と彼視点(side J)を交互にあげていきます。

「君の作った料理は愛情がこもってない」と言われたのでもう何も作りません

今川幸乃
恋愛
貧乏貴族の娘、エレンは幼いころから自分で家事をして育ったため、料理が得意だった。 そのため婚約者のウィルにも手づから料理を作るのだが、彼は「おいしいけど心が籠ってない」と言い、挙句妹のシエラが作った料理を「おいしい」と好んで食べている。 それでも我慢してウィルの好みの料理を作ろうとするエレンだったがある日「料理どころか君からも愛情を感じない」と言われてしまい、もう彼の気を惹こうとするのをやめることを決意する。 ウィルはそれでもシエラがいるからと気にしなかったが、やがてシエラの料理作りをもエレンが手伝っていたからこそうまくいっていたということが分かってしまう。

【完結】婚約者が私以外の人と勝手に結婚したので黙って逃げてやりました〜某国の王子と珍獣ミミルキーを愛でます〜

平川
恋愛
侯爵家の莫大な借金を黒字に塗り替え事業を成功させ続ける才女コリーン。 だが愛する婚約者の為にと寝る間を惜しむほど侯爵家を支えてきたのにも関わらず知らぬ間に裏切られた彼女は一人、誰にも何も告げずに屋敷を飛び出した。 流れ流れて辿り着いたのは獣人が治めるバムダ王国。珍獣ミミルキーが生息するマサラヤマン島でこの国の第一王子ウィンダムに偶然出会い、強引に王宮に連れ去られミミルキーの生態調査に参加する事に!? 魔法使いのウィンロードである王子に溺愛され珍獣に癒されたコリーンは少しずつ自分を取り戻していく。 そして追い掛けて来た元婚約者に対して少女であった彼女が最後に出した答えとは…? 完結済全6話

寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。

にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。 父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。 恋に浮かれて、剣を捨た。 コールと結婚をして初夜を迎えた。 リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。 ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。 結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。 混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。 もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと…… お読みいただき、ありがとうございます。 エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。 それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。

処理中です...