鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

文字の大きさ
67 / 91
新たなる出発

心音は静かに重なる

静かな夜風が、街の灯をかすかに揺らしていた。

カフェの扉を出て、並んで歩くふたりの影が、石畳の道に寄り添うように延びている。

「……昔は、もっと夢中で喋っていた気がするわ」
カタリーナが、ふと口にした。

「そうだな。言葉がなくても、目が合うだけで何か通じたような……そんな気がしてた」

ダリオの声は穏やかで、けれどどこか懐かしさをたたえていた。

「今は……どうかしら」
「今も、きっと変わらないよ。変わってないことに、今日気づいた」

一歩ごとに、胸の奥のなにかが、静かに鳴っていた。
心音。懐かしくて、けれど確かに“今”の鼓動。

やがて、分かれ道に差しかかる。
カタリーナが立ち止まり、少しだけ名残惜しそうにダリオを見上げた。

「……ありがとう。今日は、会えてよかった」
「こっちの方が、ありがとうって言いたい」

少しの沈黙。
その間に風が吹き、木々が揺れた。

「……じゃあ、また」
「また」

たったそれだけの言葉で、心が満たされる夜だった。

***

その夜、カタリーナは自室の窓辺で、紅茶を片手に月を見上げていた。
心のどこかが、ふんわりとほどけていた。

(こんなふうに、誰かと過ごす夜が……また来るなんて。
それがまさか、ダリオだなんて。
かつて想いを交わした人と、子どももいる今の私が、こんな出会い方をしてしまうなんて──)

そう思いながらも、カタリーナの胸の奥には、ほんの少しの躊躇いと戸惑いが残っていた。

一方その頃、ダリオもまた、宿舎の窓から同じ月を眺めていた。

「……これで終わりにする気はないからな」
それが彼なりの、遠回りな誓いだった。

誰にともなく呟いたその言葉が、夜の静けさに吸い込まれていった。

……今の彼女が、もう誰のものでもないと知ったとき、
胸の奥で何かが静かに灯った気がした。

今この時に、再び出会うことに意味があるのかもしれない。
やっと彼女に辿り着けた。
そう思った瞬間、もうこの再会を手放したくないという思いが、はっきりと心に芽生えていた。

翌朝、職場の文官事務所には、いつもと変わらぬ静けさが流れていた。
だがカタリーナの胸には、昨夜のぬくもりがまだ微かに残っていた。

ダリオの姿を見つけたとき、自然と目が合い、ふたりは微笑を交わした。
ほんのわずかなやりとり。
それだけで、確かに昨日の続きを生きていることが実感できた。

「おはようございます、カタリーナさん」
「おはようございます、ダリオさん」

名を呼ぶ声が、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。

その日の午前、ふたりは別々の業務にあたっていたが、同じ部屋にいるというだけで、不思議と気持ちは落ち着いていた。

午後、報告書の確認で一緒に文書室へ向かうことになった。

「この文言、少し回りくどいですね。言い換えたほうが伝わりやすいかもしれません」

カタリーナが文書に目を通しながら指摘すると、文官を警護する位置に控えていたダリオが、ほんの少し距離を詰めて苦笑した。

「君のそういうところ、昔から変わらないな」

「どこが?」

「言葉に誠実で、妥協しない。……そういうところが、いいと思う」

カタリーナは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を逸らした。
けれど、頬がふっと緩んでいくのを止められなかった。

「ありがとう……そう言ってもらえると、ちょっと救われる」


***

昼下がりの事務所は、ひとときの静けさに包まれていた。
窓から差し込むやわらかな光が、書類の束を穏やかに照らす。

カタリーナは机に向かいながら、時折そっと視線を上げた。
部屋の端、立ち姿のまま控えている護衛騎士ダリオ。

(こうして、何事もなかったかのように並んで過ごす日が来るなんて)

昨夜の余韻が、心のどこかでまだ揺れていた。

「……カタリーナさん」

ふと呼ばれ、顔を上げる。
ダリオが、一枚の報告書を手に近づいていた。

「先ほど、庶務室から預かってきました。内容の確認をお願いしたいのですが……」

「内容の確認をお願いしたいのですが、資料室でよろしいですか?」

「ええ、もちろん」

ふたりは周囲の目を気にしながらも、自然を装って立ち上がり、あくまで職務の延長という体で、資料室へと向かった。

***

資料室の中は、人の気配もなく落ち着いた空気が流れていた。
書棚の影に立ち並ぶふたり。
自然と声も控えめになる。

「昨日のこと……」

ダリオが、報告書を手にしたままぽつりと口にした。

「……まだ、信じられない気がする」

「私も。まさか、昨日のカフェで、あんなふうに時間が過ぎていたなんて」

「……君がこうして、変わらずにいてくれたことが、どれだけ……」

そこまで言いかけて、ダリオはわずかに口をつぐむ。

カタリーナもまた、言葉を飲み込んだ。
この距離、この時間、この沈黙さえも、心に染みるほどに愛おしかった。

ほんの少しだけ、手を伸ばせば触れられそうな距離。
けれど、まだ触れてはいけないと、互いにわかっていた。

(……私は、母親で。今さら、こんな気持ちになるなんて)

揺れる気持ちを胸に、そっと報告書に目を戻す。
だがその手は、ほんのわずかに震えていた。

(そう願ってもいいのだろうか。彼は子どもたちを受け入れてくれるのだろうか)
そんな不安を抱えながら、恐々と声にした。

(……いつか、子どもたちにも会ってくれる?)

ふとした拍子に、カタリーナはそんな言葉をこぼしていた。

ダリオは、驚いたようにわずかに目を見開き、それでも、穏やかにうなずいた。

「……ああ。君がいいと思えるときに。きっと」

その言葉だけで、カタリーナの胸の奥に、そっと温かな灯がともった気がした。

それは、静かな約束だった。

そしてこの日、ふたりの心はほんの少しだけ確かに、また近づいた。

ダリオの視線はまっすぐで、そこに迷いはなかった。

その日の午後、ふたりはそれぞれの席へ戻り、何事もなかったように業務をこなした。

けれど、カタリーナの心には、ひとつの光が静かに灯り続けていた。

これが始まりでありますように。
そう願いながら、午後の陽だまりにそっと目を細めた。





感想 86

あなたにおすすめの小説

離婚した彼女は死ぬことにした

はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。 もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。 今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、 「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」 返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。 それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。 神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。 大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

初恋にケリをつけたい

志熊みゅう
恋愛
「初恋にケリをつけたかっただけなんだ」  そう言って、夫・クライブは、初恋だという未亡人と不倫した。そして彼女はクライブの子を身ごもったという。私グレースとクライブの結婚は確かに政略結婚だった。そこに燃えるような恋や愛はなくとも、20年の信頼と情はあると信じていた。だがそれは一瞬で崩れ去った。 「分かりました。私たち離婚しましょう、クライブ」  初恋とケリをつけたい男女の話。 ☆小説家になろうの日間異世界(恋愛)ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの日間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの週間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/22)

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます

おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。 if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります) ※こちらの作品カクヨムにも掲載します

ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。

夏目
恋愛
愛している王子が愛人を連れてきた。私も愛人をつくっていいと言われた。私は、あなたが好きなのに。 (小説家になろう様にも投稿しています)

旦那様から彼女が身籠る間の妻でいて欲しいと言われたのでそうします。

クロユキ
恋愛
「君には悪いけど、彼女が身籠る間の妻でいて欲しい」 平民育ちのセリーヌは母親と二人で住んでいた。 セリーヌは、毎日花売りをしていた…そんなセリーヌの前に毎日花を買う一人の貴族の男性がセリーヌに求婚した。 結婚後の初夜には夫は部屋には来なかった…屋敷内に夫はいるがセリーヌは会えないまま数日が経っていた。 夫から呼び出されたセリーヌは式を上げて久しぶりに夫の顔を見たが隣には知らない女性が一緒にいた。 セリーヌは、この時初めて夫から聞かされた。 夫には愛人がいた。 愛人が身籠ればセリーヌは離婚を言い渡される… 誤字脱字があります。更新が不定期ですが読んで貰えましたら嬉しいです。 よろしくお願いします。

婚姻契約には愛情は含まれていません。 旦那様には愛人がいるのですから十分でしょう?

すもも
恋愛
伯爵令嬢エーファの最も嫌いなものは善人……そう思っていた。 人を救う事に生き甲斐を感じていた両親が、陥った罠によって借金まみれとなった我が家。 これでは領民が冬を越せない!! 善良で善人で、人に尽くすのが好きな両親は何の迷いもなくこう言った。 『エーファ、君の結婚が決まったんだよ!! 君が嫁ぐなら、お金をくれるそうだ!! 領民のために尽くすのは領主として当然の事。 多くの命が救えるなんて最高の幸福だろう。 それに公爵家に嫁げばお前も幸福になるに違いない。 これは全員が幸福になれる機会なんだ、当然嫁いでくれるよな?』 と……。 そして、夫となる男の屋敷にいたのは……三人の愛人だった。

嘘つきな貴方を捨てさせていただきます

梨丸
恋愛
断頭台に上がった公爵令嬢フレイアが最期に聞いた言葉は最愛の婚約者の残忍な言葉だった。 「さっさと死んでくれ」 フレイアを断頭台へと導いたのは最愛の婚約者だった。 愛していると言ってくれたのは嘘だったのね。 嘘つきな貴方なんて、要らない。 ※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。) 11/27HOTランキング5位ありがとうございます。 ※短編と長編の狭間のような長さになりそうなので、短編にするかもしれません。 1/2累計ポイント100万突破、ありがとうございます。 完結小説ランキング恋愛部門8位ありがとうございます。