鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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新たなる出発

心音は静かに重なる

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静かな夜風が、街の灯をかすかに揺らしていた。

カフェの扉を出て、並んで歩くふたりの影が、石畳の道に寄り添うように延びている。

「……昔は、もっと夢中で喋っていた気がするわ」
カタリーナが、ふと口にした。

「そうだな。言葉がなくても、目が合うだけで何か通じたような……そんな気がしてた」

ダリオの声は穏やかで、けれどどこか懐かしさをたたえていた。

「今は……どうかしら」
「今も、きっと変わらないよ。変わってないことに、今日気づいた」

一歩ごとに、胸の奥のなにかが、静かに鳴っていた。
心音。懐かしくて、けれど確かに“今”の鼓動。

やがて、分かれ道に差しかかる。
カタリーナが立ち止まり、少しだけ名残惜しそうにダリオを見上げた。

「……ありがとう。今日は、会えてよかった」
「こっちの方が、ありがとうって言いたい」

少しの沈黙。
その間に風が吹き、木々が揺れた。

「……じゃあ、また」
「また」

たったそれだけの言葉で、心が満たされる夜だった。

***

その夜、カタリーナは自室の窓辺で、紅茶を片手に月を見上げていた。
心のどこかが、ふんわりとほどけていた。

(こんなふうに、誰かと過ごす夜が……また来るなんて。
それがまさか、ダリオだなんて。
かつて想いを交わした人と、子どももいる今の私が、こんな出会い方をしてしまうなんて──)

そう思いながらも、カタリーナの胸の奥には、ほんの少しの躊躇いと戸惑いが残っていた。

一方その頃、ダリオもまた、宿舎の窓から同じ月を眺めていた。

「……これで終わりにする気はないからな」
それが彼なりの、遠回りな誓いだった。

誰にともなく呟いたその言葉が、夜の静けさに吸い込まれていった。

……今の彼女が、もう誰のものでもないと知ったとき、
胸の奥で何かが静かに灯った気がした。

今この時に、再び出会うことに意味があるのかもしれない。
やっと彼女に辿り着けた。
そう思った瞬間、もうこの再会を手放したくないという思いが、はっきりと心に芽生えていた。

翌朝、職場の文官事務所には、いつもと変わらぬ静けさが流れていた。
だがカタリーナの胸には、昨夜のぬくもりがまだ微かに残っていた。

ダリオの姿を見つけたとき、自然と目が合い、ふたりは微笑を交わした。
ほんのわずかなやりとり。
それだけで、確かに昨日の続きを生きていることが実感できた。

「おはようございます、カタリーナさん」
「おはようございます、ダリオさん」

名を呼ぶ声が、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。

その日の午前、ふたりは別々の業務にあたっていたが、同じ部屋にいるというだけで、不思議と気持ちは落ち着いていた。

午後、報告書の確認で一緒に文書室へ向かうことになった。

「この文言、少し回りくどいですね。言い換えたほうが伝わりやすいかもしれません」

カタリーナが文書に目を通しながら指摘すると、文官を警護する位置に控えていたダリオが、ほんの少し距離を詰めて苦笑した。

「君のそういうところ、昔から変わらないな」

「どこが?」

「言葉に誠実で、妥協しない。……そういうところが、いいと思う」

カタリーナは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を逸らした。
けれど、頬がふっと緩んでいくのを止められなかった。

「ありがとう……そう言ってもらえると、ちょっと救われる」


***

昼下がりの事務所は、ひとときの静けさに包まれていた。
窓から差し込むやわらかな光が、書類の束を穏やかに照らす。

カタリーナは机に向かいながら、時折そっと視線を上げた。
部屋の端、立ち姿のまま控えている護衛騎士ダリオ。

(こうして、何事もなかったかのように並んで過ごす日が来るなんて)

昨夜の余韻が、心のどこかでまだ揺れていた。

「……カタリーナさん」

ふと呼ばれ、顔を上げる。
ダリオが、一枚の報告書を手に近づいていた。

「先ほど、庶務室から預かってきました。内容の確認をお願いしたいのですが……」

「内容の確認をお願いしたいのですが、資料室でよろしいですか?」

「ええ、もちろん」

ふたりは周囲の目を気にしながらも、自然を装って立ち上がり、あくまで職務の延長という体で、資料室へと向かった。

***

資料室の中は、人の気配もなく落ち着いた空気が流れていた。
書棚の影に立ち並ぶふたり。
自然と声も控えめになる。

「昨日のこと……」

ダリオが、報告書を手にしたままぽつりと口にした。

「……まだ、信じられない気がする」

「私も。まさか、昨日のカフェで、あんなふうに時間が過ぎていたなんて」

「……君がこうして、変わらずにいてくれたことが、どれだけ……」

そこまで言いかけて、ダリオはわずかに口をつぐむ。

カタリーナもまた、言葉を飲み込んだ。
この距離、この時間、この沈黙さえも、心に染みるほどに愛おしかった。

ほんの少しだけ、手を伸ばせば触れられそうな距離。
けれど、まだ触れてはいけないと、互いにわかっていた。

(……私は、母親で。今さら、こんな気持ちになるなんて)

揺れる気持ちを胸に、そっと報告書に目を戻す。
だがその手は、ほんのわずかに震えていた。

(そう願ってもいいのだろうか。彼は子どもたちを受け入れてくれるのだろうか)
そんな不安を抱えながら、恐々と声にした。

(……いつか、子どもたちにも会ってくれる?)

ふとした拍子に、カタリーナはそんな言葉をこぼしていた。

ダリオは、驚いたようにわずかに目を見開き、それでも、穏やかにうなずいた。

「……ああ。君がいいと思えるときに。きっと」

その言葉だけで、カタリーナの胸の奥に、そっと温かな灯がともった気がした。

それは、静かな約束だった。

そしてこの日、ふたりの心はほんの少しだけ確かに、また近づいた。

ダリオの視線はまっすぐで、そこに迷いはなかった。

その日の午後、ふたりはそれぞれの席へ戻り、何事もなかったように業務をこなした。

けれど、カタリーナの心には、ひとつの光が静かに灯り続けていた。

これが始まりでありますように。
そう願いながら、午後の陽だまりにそっと目を細めた。





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