鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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新たなる出発

揺れる未来

庁舎の廊下は、日中の喧騒を過ぎて静けさを取り戻していた。
夜の帳が下りた石造りの建物のなか、蝋燭の灯りが壁の装飾をほのかに照らしている。

メリセラ・カヴァリエは、机の書類を整えて帰ろうとしていたところだった。
背後からかけられた低く真剣な声に、振り返ると、そこには黒衣の騎士、ダリオが立っていた。

「……メリセラ嬢」

その表情には、いつもの騎士然とした硬さのなかに、どこか言い淀んだ迷いがあった。

「はい。ダリオ様。どうなさったのですか?」

彼女は微笑みを絶やさず応じたが、その眼差しの奥に、こちらの意図を探るような静かな観察があった。

彼女は静かにこちらを見つめていた。
その眼差しに、一瞬だけ言葉を飲み込む。

(……やはり、簡単には切り出せそうにない)

ダリオはそっと視線を逸らし、壁にかかった灯りの揺らめきを見つめた。
けれど、時間を稼いでも意味がないことは分かっている。

「お話が……少し、あります。お時間、いただけますか?」

「もちろん。こんな時間まで残っていらしたのですね。騎士殿がわざわざ庁舎に足を運ばれるとは、珍しいことです」

二人は人の少ない階段の踊り場の一角に並んで腰を下ろした。
夜風がわずかに入り込み、蝋燭の火が揺れた。

「……実は今日、あなたのご父君カヴァリエ殿から話を聞きました」
「あなたが……俺との婚約を望んでいる、と」

彼女のまなざしがわずかに揺れる。けれど逃げることはなく、静かに頷いた。


「……はい。私が父にお願いしました」

メリセラは真っ直ぐにダリオを見た。瞳の奥に、迷いも嘘もなかった。

「ずっと……あなたのことを見てきました。任務に向かう姿も、誰かを守るときの在り方も、静かに部下を思う目も全て‥‥」

彼女の声は震えてはいなかった。穏やかで、けれど熱を秘めていた。

「尊敬していたんです。でも、それだけじゃなくて……私は、あなたが、好きです」

彼女は少し息を整えるように言葉を区切った。

「私がまだ見習いの文官だった頃……十代の終わりだったと思います。
父のもとで働くあなたを、初めて見た日から、ずっと」

その声は決して感情に溺れることなく、けれど芯のある熱を帯びていた。

「真面目で、誰にでも丁寧で……でもどこか孤独そうで。強くて、優しくて、近づきがたいのに、目が離せなかった」

ダリオは目を見開いた。
そんなにも長く、自分を見ていた者がいたことに。
そしてそれが、目の前の女性だったことに驚きを隠せなかった。

「……俺は、ただ日々の仕事をこなしていただけだ。。」


「私は、あなたと結ばれることを願って、父に頼んだこともありました。
けれど……あなたの心が、誰にも向いていないことを知っていたから、自分からは言えなかったんです」

メリセラは柔らかく笑った。年齢の差を、立場の壁を、すべて承知の上で。

「でももう、後悔はしたくなかった。あなたが誰を想っていても……私は、私の気持ちを伝えたかった」

ダリオは言葉を失った。
想像よりも、ずっとまっすぐな告白だった。
立場や家の思惑を超えて、彼女は自分の気持ちでここにいる。

「……メリセラ嬢」

彼は静かに口を開いた。
けれどすぐには言葉が続かない。胸の内に渦巻くものを、どう形にすればよいか分からなかった。

「正直に言います。俺は、あなたに申し訳ないと思っている」

「申し訳ない……?」

「あなたの気持ちを踏みにじるようなことになるかもしれないと、分かっていてここに来ました」
「騎士として、俺は自分の立場を守る選択をすることもできた。でも、それではきっと、後悔する。だから……正直に話したい」

メリセラは静かに頷いた。

「……カタリーナ様のことですね」

ダリオは息を呑んだ。

「私は文官です。宮廷内の噂も、耳に入ります。あなたがどなたを見ていたのかも。」

彼女は微笑んだ。少しだけ、さみしそうに。

「それでも、想いを伝えたのは……それが私の覚悟だからです」

「……覚悟?」

「好きな人に、好きだと伝えることができた。それだけでも、私は自分を誇りに思いたい。だから、答えがどうであっても構いません」

「あなたの誠実な言葉を聞けた今、この想いに、悔いはありません」

ダリオは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
まっすぐに気持ちを伝え、結果に縋らないその在り方が、ただただ眩しく感じられた。

(……こんなにも誠実な想いに、俺は応えられない)

心がすでに、別の誰かを選んでいるから。
それが、どれほど愚かに見えたとしても。

「……ありがとうございます。あなたの言葉に、救われた気がします」

それがせめてもの、ダリオなりの誠意だった。

夜風がふたりの間を通り抜けていく。
言葉の後には、静かな余韻だけが残った。

執務室は重々しい沈黙に包まれていた。

カヴァリエは机越しにじっとダリオを見つめていた。
その視線には、父親としての複雑な感情が滲んでいる。

執務室は重々しい沈黙に包まれていた。

カヴァリエは机越しにじっとダリオを見つめていた。
その視線には、父親としての複雑な感情と、上司としての冷静さが同居していた。

「……それで、返答は?」

ダリオは一礼し、まっすぐに相手の目を見て答えた。

「ご縁談の件、誠に恐縮ですが。お受けすることはできません」

一瞬、空気が張り詰めた。
カヴァリエは深く息を吐き、静かに言葉を継いだ。

「リベルタ家の娘、カタリーナ嬢か。あの家の立場も、君と彼女の距離も、私が知らぬとでも思ったか?」

その声音には、怒りよりも、静かな嘆きが滲んでいた。

「それでも私は、娘の想いを何年も聞いてきた。
君が誰を想っていようと、簡単に済んだこととして処理できる話ではない」

ダリオはわずかに目を伏せ、やがて静かに頷いた。

「……本当に申し訳ありません」

「本当にそれだけか?」

「……はい。お察しの通り、私の想いはカタリーナ嬢にあります」

声は低く、はっきりとしていた。
それがどれほどの波紋を呼ぶか、本人が一番分かっている。

「彼女を選ぶということが、どれだけの責任を伴うかは承知しています。
だからこそ、メリセラ嬢の想いに応えることはできないと、正直に申し上げました」

数秒の沈黙が落ちる。

やがて、カヴァリエはふっと目を伏せ、机の書類に指を置いたまま、絞り出すように言った。

「……彼女があれほど涙を見せたのは、初めてだった。私には、それがすべてだ」

その声は、騎士団長としてではなく、ひとりの父の心から発せられたものだった。

ダリオは深く頭を下げた。
その重さも、痛みも、受け止める覚悟で。
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