鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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危機を乗り越える

突然の訪問者

あの日の朝、母上は、少しだけ静かだった。
笑顔も、言葉も、いつも通り。けれど、僕にはわかった。
ほんの少しだけ目の奥が遠くを見ている。

「母上、なにか……ありましたか?」

問いかけると、母はやわらかく微笑んで「いいえ」とだけ答えた。
だけど、その微笑みは、何かを隠しているときの笑顔だった。
僕は、知っている。

午後、屋敷の空気が変わりはじめる。
使用人たちは落ち着かず、なぜか来客用の茶器を揃え始めていた。
誰が来るのか尋ねても、皆、口を濁す。

母が昨日、何かの手紙を読んでいたことを思い出す。
そのときの表情。
静かに息を吐き、母は、静かに手紙を読み終えたあと、目を閉じて、しばらく動かなかった。
まるで、何かを受け入れたように。
そしてそっと息を吐いたその横顔が、どこか決意を帯びて見えた。

そして、夕刻。
玄関のベルが鳴る。
重たく、低く、空気を切り裂く音。

扉の向こうから聞こえた声に、僕は動けなくなった。

「久しいな、カタリーナ」

父レオナルドの声だった。

玄関の扉を開けた瞬間、時が止まったようだった。
そこに立っていたのは、もう会うことはないと思っていた人、レオナルド。

変わらぬ整った顔立ち。仕立ての良い外套。
けれどその瞳に宿るのは、かつての夫を見つめるものではなく、
久しく手放していた何かを確かめるような、冷えた光。

「久しぶりだな、カタリーナ。突然来てしまって悪かった」

その声に、私の胸がかすかに揺れた。
けれどすぐに言葉を返す。

「……まさか、あなたが来るなんて思ってもいなかった」

「ああ。俺も、こうして顔を合わせるのは……覚悟が要ったよ」

互いに笑うことも、怒鳴ることもなかった。
ただそこに立ち、過去という名の沈黙が二人の間に横たわっていた。

「話があるんだ。大切な話だ。少しだけ、時間をくれないか」

私は一瞬だけ迷った。
けれど、息子のことが絡んでいるのなら、逃げてはならない。

「……応接間へどうぞ。お茶くらいは、出すわ」


それだけ告げて背を向けた。
振り返らなくても、レオナルドがついてくる気配がわかる。
あの人の足音は、昔から妙に静かで、けれど、不思議と心に響く。

客間に入ると、私は丁寧に茶器を並べた。
手元に集中するふりをしながら、心を整える。
呼吸を深く、ゆっくりと。
それでも、胸の奥は少しずつざわめいていた。

「落ち着いた家だな」

彼の言葉は、壁に反響するように聞こえた。
私は手を止めず、軽く返す。

「静かな場所が、今の私にはちょうどいいの」

彼はそれ以上言わず、黙って椅子に腰かけた。
そして、私もようやく向かい合う。

しばしの沈黙のあと、彼が切り出した。

「ティモシオを……正式に我が家へ迎えたい。嫡男として、跡を継がせる」

その言葉が部屋に落ちた瞬間、空気が変わった。
背筋がこわばり、手のひらがかすかに汗ばむ。

「……何を言ってるの?」

椅子の背もたれに指が食い込んだ。
目を逸らさずに問い返すと、彼はまっすぐに私を見返してきた。

「家を継ぐには、正当な後継が必要だ。ティモシオは、私の息子だ。
君がどう思おうと、血筋としての資格はある」

「“血”の話をする前に、“父親”として何をしてきたのかを思い出してほしいわ」

私の声が少しだけ震えた。
悔しさと怒り、そして……恐れ。

彼は続けた。
「……言いにくいが、ソフィアとの間に生まれたのは──女の子だった。
あの家を継ぐには、男児でなければならない」

私は息を詰めた。
分かっていた。けれど、口にされるとこんなにも胸が痛むとは思わなかった。

「……だから、ティモシオを“都合よく”引き取る? まるで“予備”みたいに?」

レオナルドは口を閉ざした。
否定も、肯定もしなかった。

「あなたに、あの子の何がわかるの?」

私は、問いかけではなく、告げるように言った。

「ティモシオの涙も、笑顔も、眠れない夜も、全部私が見てきた。
あなたは、父であろうとしたことなんて、一度でもあった?」

そのとき、彼の視線がかすかに揺れた。
けれどすぐに、冷静な表情に戻る。

「……最近の君の動向は、調べさせてもらった。
君が誰と過ごそうが、もう俺の口を挟むことではない。
だが──騎士ダリオ・ヴァレンテと連絡を取り合っていることも、把握している」

「……」

「公にすべき関係なのか? あの子を正統な跡継ぎとして迎えるには、
君の立場が、相応しくなければならない」

私は静かに息を吐いた。

「あなたは変わらないのね。
結局いつも、家と立場と体裁ばかり」

レオナルドの表情は動かない。
でも、私はもう知っている。
この人は、私を一人の女としては見ていなかった。
最後まで。

「ティモシオは人間よ。ただの跡継ぎじゃない。
誰かの人生を支えるために生まれてきたんじゃない。
私の子よ。……私の、大切な息子」

その言葉を最後に、私は立ち上がった。

「もう十分。お引き取りください」

レオナルドはしばらく沈黙していた。
そして、立ち上がると一礼だけを残して去っていった。

ドアが閉まる音は、思ったよりも静かだった。

けれど私の胸には、ずっしりとした余韻だけが残った。
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