鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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それぞれの後悔

ソフィアのその後

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その夜、ロウソクの灯がかすかに揺れる部屋で、ソフィアは静かに糸を刺していた。
ほつれてしまったリディアの裾を繕うためだ。
誰の手も借りられない。娘のものは、自分で直すしかないのだから。

レオナルド。あの人が、ほんの少しだけ、この別邸に足を運んでくれた時期があった。

何を言うでもなく、部屋の前に立ち、戸口に残る沈黙。
それでも、顔を見せてくれるだけで嬉しかった。
それだけで、娘とふたりきりではないと、ほんの一瞬だけ思えた。

でも、それもすぐに終わった。
女児を産んだと分かった途端、マルゲリータ様は私たちの存在を切り捨てた。
あの人も、それに逆らわなかった。

(きっと、無理だったのね。レオナルドには……)

期待していたのだと思う。
どこかで、いつか、彼が私と娘を「家族」として守ってくれるのではないかと。
だけど、それは甘い夢だった。

それでも、彼が見せてくれた一瞬の優しさだけは、嘘ではなかったと信じていたい。
あれが、まるごと嘘だったら、きっと私は今ここにいない。

けれどもう、私から何かを求めるつもりはない。
この子と、ただ静かに生きていければいい。
この子だけは、どうか、傷つけられずに。

針の先が小さく指先をかすめ、赤い珠がにじんだ。
それに気づかぬふりをして、ソフィアはまた糸を進めた。

針先からじわりと滲む血の痛みも、もはや感じなかった。

実家に戻ろうかと、考えたことはあった。
けれどそれは、夢物語に過ぎなかった。

ソフィアの実家、子爵家は彼女を「侯爵家の妾」として見下し、
再び娘として迎え入れる意志など、とうの昔に捨てていた。

しかも、実家は国境を越えた隣国にある。
行くあても、力も、逃げるための金すらない。

リディアを連れてこの世界から抜け出すには、平民として生きる術がなかった。

何も持たない自分に、何ができるというのか。
思い切った行動を取るには、あまりにも現実が冷たすぎた。

カタリーナがこの家を出た時、
自分にも運が回ってきたのだと思った。

レオナルドは顔立ちが美しかった。
無口で、何を考えているのか分からないところもあったけれど、
あの頃はそれすら気品に見えていた。

舞踊会では、彼が姿を現すたびに、夫人たちがざわめいた。
自分が選ばれたのだと思った。

マルゲリータ様が「いずれ、第一婦人として迎え入れるわ」と囁いたとき、
心の奥がふっと明るくなった。夢を信じてしまった。

あの三年間は、確かに幸せだったのだ。
ささやかな日々でも、彼の隣にいられた時間が。

……でも、今となっては、後悔しか残っていない。

信じてはいけない言葉を信じてしまった自分。
生まれた娘を、守る力すら持てない自分。

そして、愛されたと思いたかったあの人に、
結局は見捨てられてしまった自分。

(リディアだけは、私の手で守らなければ)

そう思いながらも、指に滲む血を拭うことすらできずに、
ソフィアは、ただ黙々と針を進めていた。


その夜、
蝋燭の火が細く揺れる頃、外からそっと扉の軋む音がした。

「……リディア?」

ソフィアが裁縫の手を止めて振り返ると、そこには、玄関口に立ち尽くす小さな影があった。

リディアは何も言わなかった。
けれどその肩はかすかに震え、俯いたまま、靴のまま中へと踏み入ってくる。

「どうしたの、あなた……? 寒かったでしょう」

問いかけても、リディアは答えない。
ただ一歩、また一歩とソフィアに近づき、
次の瞬間、小さな体を母の胸元へと飛び込ませた。

「……ママ……」

その一言だけが、かすれた声でこぼれる。

ソフィアは目を見開き、すぐに腕をまわして、その体をしっかりと抱きしめた。
リディアの頬は冷たく、手のひらは土でうっすらと汚れていた。

「大丈夫、大丈夫よ」
「……うそ……」

「ううん、大丈夫。ママがいるわ。あなたには、私がいるのよ」

どこかで聞いてしまったのだと、ソフィアはすぐに悟った。
あの屋敷の奥で、彼女たちの運命を決めるような冷たい言葉が交わされていたことを。

この小さな胸が、どれほど傷ついただろう。
どれほど「自分がいらない存在」だと感じてしまっただろう。

「あなたは、私の宝物よ」
ソフィアは囁きながら、髪を優しく撫でた。
何度も、何度も。

リディアは、ようやく声をあげて泣き出した。
それはしゃくりあげるような、苦しい泣き声だった。

ソフィアはその泣き声を黙って受け止める。
悲しみも、怒りも、言葉ではもう癒せないことを、知っていたから。

せめてこの腕だけは、
どんなことがあっても、彼女を拒まないと伝えたくて。

やがて、蝋燭の炎が静かに揺れながら、部屋の奥に柔らかな影を落としていた。

リディアが寝静まったあと、ソフィアはそっと蝋燭の火を灯しなおし、小さな机にひとり腰を下ろした。

心の奥が、じくじくと痛んでいた。

(大切な娘に……知らせてしまった)

自分たちはもう、この家には必要のない存在なのだと。
それまでは、たとえ冷たくされても‥‥

リディアなりに、父であるレオナルドや、祖母マルゲリータに、
いつかは受け入れてもらえるのではないかと、
ほんのわずかな望みを持っていたのだろう。

けれど今日、それが砕けた。

聞いてしまったのだ。
この家が、カタリーナの息子ティモシオを跡継ぎに迎えると決めたことを。

私たちは、もう用済み。
女児を産んだ母と娘など、いてもいなくてもいいと、そう言われたに等しい。

(リディアには、そんな思いを背負わせたくなかった)

私はただ、守りたかっただけなのに。
愛されたかっただけなのに。
それすら叶わないのなら。。

(この家を、出るべきなのかもしれない)

行くあてがなくても、何も持たなくても、
このまま冷たい空気にさらされ続けるよりは、
娘のために、自分の手で選んだ場所で生きたい。

一度、レオナルドに話をしよう。
彼は、私たちをどうするつもりなのか。

本当に、見捨てるつもりなのか、それだけは、はっきりさせたい。

娘の涙に向き合わないまま、
このまま沈黙のなかに埋もれていくわけにはいかない。

ソフィアは立ち上がると、ゆっくりと書きかけの手紙を引き寄せた。
それは、レオナルド宛に、数日前から、言葉にできない想いを少しずつ綴っていたものだった。

灯の下でペンを握りしめる手に、決意の熱が宿っていた。
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