鳥籠の花嫁~夫の留守を待つ私は、愛される日を信じていました

吉乃

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未来のために

揺らがぬ絆と、未来への問いかけ ―カタリーナの決意―

王都に響く鐘の音が、重く静かに議会の終結を告げた。

ティモシオの親権をめぐる長き闘いに、ついに決着がついた。
議場の決議は、リベルタ家に軍配が上がった。
正統なる血筋を引く長男ティモシオは、母カタリーナの庇護のもと、リベルタ家で育てられるべきとの判断。
その背後には、兄フェルナンドの力強い後押しがあった。

「……ありがとう、兄様。貴方がいなければ、あの人たちに奪われていたかもしれない」

議場を出た後、カタリーナは肩の力を抜いたように微笑んだ。
その目には、勝利の安堵よりも、深い疲れと、母としての責任の重さが滲んでいた。

「これでやっと、ティモシオと安心して暮らせる……」
フェルナンドは黙って頷いたあと、ふと視線を逸らし、意外なことを口にした。

「そういえば、ダリオが来ていた」

カタリーナの手がわずかに止まる。

「……ダリオが?」

「あぁ。お前がしばらく仕事を休んでいることを、同僚から耳にしたらしくてな。
何かあったのか、力になれないかと俺のところへ来た。今も、お前に会いたいと言っている」

カタリーナは言葉を失ったまま、兄の顔を見つめた。

フェルナンドは続ける。

「……たとえ過去に婚約関係があったとしても、俺は今のお前の気持ちが大事だと思っている」
その一言に、カタリーナの胸に静かな波が広がる。

誰かが、今の私の心を尊重してくれること。
それが、どれほど救いになることか。

「……私、仕事、辞めようと思ってるの」
カタリーナは、ぽつりと告げた。

「人間関係が……どうしても、うまくいかないの。今は……家のことに向き合いたい」
フェルナンドは驚いたように彼女を見たが、すぐに頷いた。

「そうか……。なら、しばらくはゆっくりするといい。お前には、休む権利がある」

「兄様……」

「ただし、ダリオのことは……もう一度、考えてみてもいいんじゃないか。
あいつは、お前が辛い時、真っ先にお前を探しに来た。それだけは、忘れないでくれ」
カタリーナの瞳が、微かに揺れた。

過去の痛みを癒せるほどに、今の自分は変われただろうか。誰かともう一度、歩み始めてもいいほどに。

そして彼女は、子供達を思い出していた。


***

カタリーナが屋敷へ戻る頃には、すでに空が淡く朱に染まりはじめていた。

食卓には温かなスープの香りが漂い、ティモシオと弟のリヴィオが席についていた。二人とも、母の顔を見ると嬉しそうに微笑んだ。

「おかえり、母上!」

「ただいま、ティモシオ。リヴィオも」

三人で囲む夕食は、穏やかな時間の象徴だった。

けれど、今日のカタリーナの心には、ひとつ伝えるべき想いがあった。

「ねえ、ティモシオ、リヴィオ……ちょっと聞いてほしいことがあるの」

二人がスプーンを止め、顔を上げる。

「お仕事のことなんだけどね……実は、もうすぐ辞めるつもりなの。色々あって、続けるのが難しくなってしまったの」

ティモシオが心配そうに眉をひそめたが、カタリーナは微笑んで続けた。

「そして……職場で、ある人に再会したの。ダリオという名前の人。あなたのお父様レオナルドと結婚する前、実は彼と婚約していたことがあったの」

ティモシオが驚いた顔で目を見開いた。

「え……じゃあ、その人は……?」

けれど、その先の言葉を飲み込むように、彼はふと黙り込んだ。

(……以前、母上が言ってたことがあったな)

(その人といると、ね……自分が自分でいていいんだって、思えるの。誰かの妻とか母とか、役割じゃなくて、ただの私として……)

そう言って、母上は誰かからの手紙を読みながら、そっと微笑んでいた。
どこか遠くを見つめるような、柔らかな表情になっていったのを覚えている。


「そう。あなたと同じくらいの年齢の頃にね、婚約したの。でも彼は戦争に行ってしまって……長い間、行方不明だったの。それで私は……レオナルドと結婚した」

少しだけ俯いたカタリーナの声は、淡く震えていた。

「でも、別れたあと……また彼と出会ったの。偶然にね」

ティモシオは少し考え込むように黙っていたが、やがてふと顔を上げ、やさしく微笑んで言った。

(……あのときの『その人って』、もしかして……)
ティモシオは、母の目に映るものの先を、言葉にせず心でなぞった。

(……そうか。きっと、あの人なんだ。母上が……母上でいられると思えた相手)
それは、子どもながらに感じ取った真実だった。

だからこそ、彼はあの言葉を迷いなく口にできたのかもしれない。

「……それって、運命だったんじゃないの?」
その一言に、カタリーナの胸がじんと熱くなる。

「……運命、ね……。そう肯定的に言ってくれるなんて、驚いたわ」

「うん。まるで……まるで、レオナルド・ダ・ヴィンチか、リルケの詩みたい」

「……詩人のようね、あなた」

カタリーナが柔らかく言うと、ティモシオは少し照れながらも、真っ直ぐな瞳で母を見つめた。

「僕、本もよく読むし、いろんな人の気持ちを知りたいと思ってる。人の心の痛みとか、分かる人になりたいんだ」

「……ティモシオ……」

「だから、母上も……自分の好きなように生きてほしい。僕たちはもう、外の世界で学んでる。これからも、いろんな人と出会って、大人になっていく。恋愛とか、まだよく分からないけど……」

彼は一呼吸おいて、まっすぐに言った。

「母上は、ずっと我慢してきたでしょう? もう僕たちのために、自分を押し込めないでほしい。幸せになってほしいんだ」

その言葉に、カタリーナは耐えきれず、そっと涙をこぼした。

それは、苦しみでも後悔でもない。
心の底から、愛され、理解されたと感じた母の涙だった。


ティモシオの言葉に涙をこぼしたカタリーナを見て、リヴィオが静かにスプーンを置いた。

「母上……」

その声に、カタリーナは涙を拭き、微笑もうとした。

「僕、その人に会ってみたいな。……母上がいい人だって思ってるんでしょ?」

思いがけない言葉に、カタリーナは目を見開いた。

「リヴィオ……」

「だって、今こうして話に出るってことは……母上、今でもその人のこと、好きなんじゃないの?」

幼いながらも真っ直ぐに投げかけられた問いに、カタリーナは言葉を失った。
まさか、子どもたちの口から好きかどうかを問われるとは思ってもいなかった。

心の奥を見透かされたような、そして、それを責めるでもからかうでもない、ただ純粋な関心から出た言葉に、胸が詰まる。

私は、なぜこの話を子供達たちにしたのだろう?

ふと気づく。

それは、ダリオという存在を、どこかでこの子たちに知ってほしいと思ったから。
もし彼が、ふたりと出会えたなら。
きっと、何かが変わるかもしれないと、願ってしまったから。

カタリーナはゆっくりと息を吐き、ティモシオとリヴィオを見つめた。

「……ありがとう、ふたりとも」

その言葉は、涙よりも深く、静かな解放をもたらした。

心の奥にあった突っかかりが、ふと解けた気がした。

誰に遠慮するでもなく、誰の顔色を伺うでもなく。
ただ、自分の想いを大切にしていいのだと。
愛する子どもたちが、それを肯定してくれたのだから。

カタリーナは目を閉じ、胸の中で小さく頷いた。

これから訪れる運命の流れを、もう、恐れない。
きっと、それもまた、この命が与えてくれた贈り物なのだと信じて。

そして、母として、ひとりの女性として。
新たな一歩を、そっと踏み出す準備が、心の中で始まっていた。
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