誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第49話 忍び寄る刃、揺るがぬ盾

 王都の夜は相変わらず闇が深く、重苦しい空気が邸を包み込んでいた。

 ヴァルディア辺境伯家のタウンハウスには、バルテルの指示で厳重な警備が敷かれ、護衛の数も増やされている。それでも王弟派の影は濃く、長く、消える気配がない。

 その夜、リリアナは自室で静かに刺繍をしていた。
お腹の子の重みを感じながら布に針を落とす、このひとときだけが彼女の心を平らに保つ儀式だった。

 バルテルは書斎で領地の報告に目を通している。幼い息子は侍女に見守られて眠りにつき、廊下には夜警の控えめな足音だけが続いていた。

 やがて、書斎の扉を控えめに叩く音。入ってきた侍女長の顔は蒼白だった。
「旦那様……ただならぬことが」
 ペンを置いたバルテルが鋭く顔を上げる。
「申せ」
「夕餉に使った食器の一部から妙な異臭がいたしまして。磨き直させましたところ、縁に変色が見つかりました」

 バルテルの瞳が冷たく光る。
「その食器は」
「別室に隔離してございます」
「よくやった。……ヴィルフリートを呼べ」

 器はただちに鑑定士へ回され、数時間後、報告が戻った。
「閣下――緩効性の毒でございます」

 ヴィルフリートの声は低く震えていた。少量でも体に蓄積し、やがて内臓を蝕む。抵抗力の低い子供には致命的になり得る――。

 報告を聞き終えるや、バルテルの拳が机を打った。
「卑劣極まる……子供にまで刃を伸ばすか」
 怒りを押し殺した声が、部屋の空気を震わせた。

 やがて彼は寝所に戻った。ランプの明かりの下、リリアナは刺繍を膝に置いたまま眠れずにいた。夫の険しい顔色に、不安が募る。
「あなた……何かあったのですか」
 しばしの沈黙ののち、バルテルは低く告げた。
「……毒が仕込まれていた。夕餉の器だ。未然に防げたが、あれを口にしていれば……」

 リリアナの顔から血の気が引いた。思わず口元を覆い、寝室で眠る息子の寝顔が脳裏に浮かぶ。小さな身体が毒に蝕まれ、苦しみもがく光景を想像しただけで胸が裂けそうになる。
「そんな……あの子まで……」

 彼女の震える肩を、バルテルは力強く抱き寄せた。
「許さん。必ず元を絶つ。だが今は、守りを固めるしかない」
 その声音は怒りと悔恨を含みながらも、揺るがぬ強さを帯びていた。

 リリアナは夫の胸にすがりつき、震えを押さえながら囁く。
「……私、この子たちを守ります。何があっても、絶対に」
 その言葉には、母としての決意が滲んでいた。

 翌朝から、邸の空気は一段と張り詰めた。
厨房の器はすべて廃棄され、王都外の工房で検分済みのものに総入れ替え。
水や食材の管理は厳格になり、裏門には新しい見張りが立つ。使用人の動きは一層規律正しく、護衛は日ごとに巡回経路を変えた。

 しかし王弟派の刃は止まらない。数日後、裏門から忍び込んだ刺客が子供部屋を目指した。
廊下に張られた細糸に足を取られた瞬間、頭上から網が落ち、護衛が飛びかかる。取り押さえた袖口から、透明な液体の小瓶が転がった――毒。子にさえ容赦のない冷酷さの証だった。

 報せを受けたとき、リリアナは庭の片隅で幼い息子を抱き締めていた。「だいじょうぶ?」と無垢な声で問う小さな手の温もりに、胸が痛む。お腹の子が内側から微かに動き、心に重い影が落ちる。
(私がここにいる限り……皆が危険に晒されるのでは)

 その影を悟りながらも、バルテルは迷いを押し殺した。
彼は辺境に二度目の早馬を送り、老練の隊長と精鋭を呼び寄せる。
石工や庭師に偽装して出入りさせ、屋根や裏路地に密かに布陣。ヴァルディアの盾は静かに輪を広げていった。

 それでも、毒と刃は形を変えて迫る。
ある夕暮れ、厨房の水差しに再び粉末の曇りが見つかった。侍女が試飲に手を伸ばしかけた瞬間、リリアナの声が鋭く空気を断った。
「待って!」
 嗅ぎ慣れぬ薬草めいた苦みが鼻腔を掠め、母の直感が危険を告げたのだ。銀の匙を浸すと、たちまち黒ずむ。二度目も未然に防いだ――だが、未然であるほど恐ろしい。見えない手は、こちらの一瞬の隙に賭けている。

 夜。寝所の蝋燭の炎が揺れ、壁に二人の影が寄り添う。リリアナが震える声で問う。
「……このまま、乗り切れるでしょうか」
「乗り切る。俺が乗り切らせる」
 バルテルの返答は淡々として、却って熱を帯びていた。
「裏門の罠は一度で効いた。次は屋根だ。明日、棟木に鳩目を穿ち弦を通す。合図は一声、撤退路も二つ増やす。子供部屋は今のまま偽装を続け、実際の寝所は交代で移す」
「あなた一人で背負わないで」
「背負うのは、皆でだ」

 短いやり取りの間にも、腹の子がころりと動く。
小さな蹴りに、二人は同時に微笑んだ。笑みは淡く、しかし確かだった。


 数日が過ぎ、王都の空の色が僅かに明るさを増す頃、辺境の精鋭がすべて揃い、輪は完全な円になった。
表では職人が庭の古井戸の石積みを直し、裏では井戸の底に隠し梯子が据えられる。

門の飾り金具は一見、葡萄の唐草だが、実は一押しで内鍵が落ちる仕掛け。
子供部屋の窓辺に飾られた小鳥の置物は、外の気配で羽根の角度を変える。誰にも気づかれない工夫が、邸の隅々に根を張っていく。

 それでも王弟派の動きは止まず、邸の周囲をうろつく影は途切れない。
だが、刃は輪の外で鈍り、毒は器に触れる前に見破られる。暗さは深いままだが、闇に目が慣れるにつれ、微かな輪郭が見えてくる。
リリアナの腹はさらに重さを増し、リアムは新しい遊び歌を覚え、庭には春の芽がのぞいた。

「――時が来る」
 バルテルは空を仰いだ。出産の時期が近い。長い夜の端に、ようやく白みが差し始める。
それが勝利の夜明けとは限らない。
次の嵐の前触れかもしれない。だが、彼は輪を広げ、盾を厚くし、退き道を刻んだ。やるべきことをやり、やれることは全てやる――その静かな確信が、疲れた兵の背を真っ直ぐにした。

 寝所で、リリアナは天井の梁に走る木目を見つめる。
指先は自然と腹に触れた。内側から、控えめな合図――生きよ、と言っているようだった。
(私がいる限り、刃は止まない――その影は消えない。それでも今は進む。生まれてくる命を、守るために)

 彼女は目を閉じ、深く息を吸った。
遠くで夜警が「異状なし」と告げる。燭は短くなり、炎は小さく揺れて、なお消えない。

 こうして暗殺の影がなお巡るなか、ヴァルディアの邸は辛うじて均衡を保ち、やがて出産の時を迎えようとしていた。
輪の外では次の策が磨かれている。輪の内では守るべきものが息づいている。
闇は深い。だが、深い闇ほど、灯は強く見えるのだ。
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