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第九話『泰山より降る毒風』
しおりを挟む無防備な服装から予想するに、彼女は他人からの悪意に疎い。だとすればやはり俺が彼女を護るべきだろう。彼女の魅力について、この場の誰よりも先に気付き、誰よりも深く想い、誰よりも熱心に観察していたのは、自分だという自負がある。と、断言してしまってOKか? また俺、なにか変なこと言ってる? いやいや、好きな人の魅力を知っていると熱く語るのは変なことじゃないだろう。セーフだ。アウトだったことなど一度もないが。とにかく、俺の想いに問題などあろうはずがない。
偶然にもイチローの引退会見の言い回しにみたいになってしまったのは、ワザとではないし、それでなにかをごまかそうなどとしていないし、ごまかせるなどとも思っていない。
イチローの名にかけて、俺は潔白だ。
潔白という表現もおかしいがな。この純真な心を疑うほうがおかしいのだから。
なに? イチローを勝手に証人のように巻き込むなだと?
いやそれは、本当にスマン。もうしわけない。
誰よりも魅力を知っているのなら、この場で最も彼女を狙っている可能性が高いのは俺じゃないのか? という推理は、論理破綻している。どこがとかじゃなく、そもそも論理的ではない思考法だと言っている。どのへんがとか、そういう話ではない。なに? 俺が痴漢的なモチベーションから行動していないと主張するなら、根拠を言ってみろだと? 人の行動や、意見のすべてに根拠があると思っているのなら、それは大間違いだぞ?
なぜなら、これは『善意』だからだ。
人の悪意には、なにかしら理由があることが多いだろう。
悪意を分析すれば、なにか原因があるはずだ。どちらが悪いとかじゃなく、な。
だが、善意はどうだろうか?
善意には、説明のつかない、信仰心とか本能に近い根幹を持つ場合があるのではないだろうか?
やはり本能か、とは、どういう意味だ?
男が女を護りたいという本能は、当然のものだろう。これも悪意ではないしな。
もっともらしい理論武装を見つけてなどいない。
自分を信じているだけだ。
おまえも俺なんだから、自分をシンジュレ。
ん? 慌ててなどいないし、慌てる理由もない。
シンジュレというのは、たしか英語で、正義という意味だ。
ジャスティス?
まあ、似た意味の言葉はあるだろうな。
シンジュレも、ジャスティスみたいな感じの意味だ。
俺はシンジュレーターだ。
正義の味方みたいな感じのやつだ。
俺は彼女に近づくほど、不審者だと思われないよう、ゆっくりと移動するようにした。
決して、気配を消していたわけではない。
そっと、背後から護ろうとしたのだ。
彼女の、艶々とキューティクルが輝いている頭髪に手が届くほどの近距離まで、やっと俺はたどり着いた。
必死だなだと? ああ、そうだ。俺は必死で彼女を護りに来たんだ。
キューティクルだとか、そーゆー視点がもう気持ち悪いなどの意見も、誤解だ。これは目標から眼をそらさずに、見失わないよう、集中して移動していたからこそ目に入った彼女の美しさの一つを、自然と紹介してしまったに過ぎない。集中力が増していたために、多少、視野が狭くなっていたのかもしれないがな。だがそれも夢中で……と言うと、また誤解されるか。『真剣に』だな。真剣に彼女を護ろうとしていたからこそ、過集中ぎみになっただけで、他意はない。
彼女との距離は近くなったが、まだ、俺と彼女との間には、数人の人垣が邪魔をしていた、の、では、なく、俺の正義の行いの障壁となっていた。
ギュウと固まった数人の間に割り込み、彼女の盾となれる位置に身体を置く。
その最後の一歩が、混雑した車内を移動するよりもずっと大変だった。
人垣と言っても、壁のようになっていたのは、太った大柄な男一人で、そいつを避けて大回りするのは、もうムリだったからだ。
だから俺は強引に、押しのけるようにして、その男と彼女との間に入った。
彼女のほうを向くと俺が痴漢になってしまうので、男のほうを向いて立つ。
ぐいと押されたその太った大男は、小さく舌打ちをした。
頭上から、そいつのため息が大量に吐き出される。
何度も、何度も。
これは、どうやら、ため息ではないようだと気付く。
太っているので、不自然な体勢で混雑に耐えるのが苦しくて、自然と呼吸が荒くなっているだけのようだ。
ため息でない証拠に、吐き出される息の大半が鼻息だった。
俺はもうこの時点で、来てよかったと自分の正しさを確信した。
この汚い鼻息を、彼女のキューティクルに浴びせ続けるわけにはいかない。
この鼻息が脳天に降り注いでいると気付いたら、不快でないわけがない。
この大男と彼女の間に挟まり、壁となり、この悪臭の山嵐を防ぐのだ。
そう、悪臭だ。この大男の鼻息は、異常に臭かった。
なにを食ったら、こんなガスが体内から発生するようになるのか。
医者に診てもらったほうがいいんじゃないかと思うレベルの激臭だった。
というか、この男は全身が臭い。
鼻息の後から漂ってくる、この、これは、体臭なのか?
油ものばかりを食べて、毛穴から滲み出る酸化した皮脂臭。
酒、タバコ、ニンニク、それらが不潔な汗や垢と混じった臭い。
あまりの刺激臭に、息が苦しくなった。
吐きそうになり、息を止めると、次に吸う時に深く吸ってしまい、さらに気分が悪くなるという地獄の我慢大会。
加齢臭も含まれた不潔な皮脂臭が、荒れた胃腸が発酵させた毒ガスを噴射する、鼻腔からの風にのって、多層的な異臭をブレンドして運んでくる。
なんだこの迷惑なシステムは。
薬莢のなかで火薬が破裂して空気が膨張し、銃弾を撃ち出しているかのような、完璧な連携による下方への集中砲火。
その汚物を頭から、全身に浴びせかけられている俺。
こいつ、マジで、ふざけんな。
──つづく。
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