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第十話『忍の一字』
しおりを挟む山のように俺の眼前に聳える巨体の不潔さにもだが、東京の電車の混雑事情に、俺は腹が立った。
電車の許容乗車率は、道路交通法に準じていると聞いたことがある気がする。
だとしたら警察は、取り締まれないまでも改善勧告をするべきではないのか?
なぜ、当然のようにこの状態が放置されているんだ?
乗車率二百%の自家用車がいたら、どんな事情があっても捕まえるだろうに。
どう考えても守りようのない、原付バイクの法定速度や自転車の車道通行など、庶民をイジメているヒマがあるならば、解決の困難な、こういった巨悪をなんとかしようと努力することが本当の正義ではないのか?
テレビでさんざ「警察は正義だ」と放送してるのだから、だったら有言実行してもらいたいものだ。
……なんの話だったっけか?
そうだ、太った大男の体臭だ。
あれは、酷かった。
スーツを着ていたが、少なくともここ半年ほどは、クリーニングに出していないだろうと思われるヨレて黄ばんだシャツ。
スーツの下に着るワイシャツの下の、肌着のさらに下の皮膚から体臭が発されているだけなら、もうちょっと衣服で緩和されてもいいはずだ。シャツに染み付いた臭いが、継ぎ足しの伝統を守る鰻屋の秘伝のタレのように、日々加算されていっているに違いない。
この男は、この臭いを纏ったまま、今からどこかへ出勤するつもりなのか?
嘘だろ、信じられん。
オフィスでは、隣席の人はどうしているんだ?
それとも、そこで働いている全員がこんな感じなのか?
拘束時間の長い仕事だと、そうなると読んだ記憶がある。
あれはたしかゲーム雑誌の編集者が語っていた記事で、臭いには慣れると言っていた。
これから出勤する人とは限らないしな。
一晩中、仕事でアブラ汗をかいて、今から帰るところなのかもしれない。
でも、夜勤の人だったとしても、明日はどうするんだ?
またこのスーツで出勤するなら、今が帰宅時だろうと同じことだぞ?
今も臭いけど、また今夜か明日の夜の出勤時も、ちゃんと臭いはずだ。
こんな熟成した臭いは、一日や二日じゃ完成しないだろ。
男が呼吸をするたびに、頭上からドブのような臭いが降ってくる。
ここまでくると、鼻が曲がるという次元じゃなく、目に染みる。
ダメだ、限界だ。
これ以上、顔面直撃のままでは耐えられない。
俺は息ができないのが苦しすぎて、思わず男に背を向けた。
くるりと振り返った途端に、世界が変わった。
脳天でまとめられた美しい黒髪のほつれ毛と、産毛の生えた色白のうなじ。
柔らかく、美しい曲線だけが視界を埋める。
紺色のブレザーの襟元からのぞくのは、背後に立つ男のような垢染みたものではなく、洗いたての純白の、アイロンのきいたワイシャツの、ピンとした輝き。
清潔な髪の香りと柔軟剤の香料が、俺の鼻腔をくすぐる。
天国と地獄だった。
立っている位置は、同じなのに。
一歩たりとも移動していないのに。
身体の向きを逆にしただけで、気分も百八十度変わった。
心音に気付かれてしまうのではないかと心配になるほど、彼女との距離が近い。
俺は眼前に見えない壁でもあるかのように、僅かな隙間をキープした。
絶対に触れないぞ。
「電車が揺れた」
「誰かに押された」
そんなのは、イイワケにならない。
この距離まで接近して触れたら、それはどんな理由があろうと故意だ。
俺は頭上にそろりと手をのばし、つり革を掴んだ。
なにがあっても一歩も動かないように、両手でしっかりと。
彼女は、横長の座席の端に設置された、銀色の棒を握って自重を支えていた。
彼女の友人は、その彼女の腕にしがみついて、揺れに耐えている。
二人はまだ、楽しそうに小声でお喋りをしていた。
この距離でも、なにを話しているのかはよく聞こえない。
たまに二人して、クスクスと肩を揺らして笑っていた。
なんという癒やし。
周りの迷惑にならないよう荷物は抱え、大きな声も出さず、それでも楽しそうにしている女子校生たち。
優しさ、良識、知性、真面目さ、性格のよさ。
伝わってくるのは、美点ばかりだった。
やっぱり俺の思ったとおり、いい娘だった。
彼女がいい娘だから、友人もそう見える。
いや違うな、いい娘にはきっと、いい娘が寄ってくるのだろう。
類は友を呼ぶと言うし、似た性質の二人なのかもしれない。
ギシリと、大勢の体重が俺の背中にのしかかる。
力の方向は、二人の天使へと向いている。
俺がこの圧力に屈したら、この朗らかで穏やかな二人の、楽しげな登校時間が、ストレスで汚されてしまうだろう。
俺は壁だと、自分に言い聞かせる。
両足を踏ん張り、つり革を掴む両手の血流が止まるほどに、強く握る。
この二人の平和な空間は、俺が護るんだ。
潰させないぞ。
俺は苦しげな吐息が漏れないように気を付けながら、全身に力をこめて耐えた。
数十人か、それ以上の体重が、容赦なく押してくる。
受け止めきれない。
でも、絶対に俺の眼前の小さな楽園は、潰させない。
電車をおりた後、いつものように混んでいたのに、今日はなぜか楽だったなと、なんとなく二人が感じてくれれば、それだけで俺は満足だ。
両手が痛い。ちぎれそうだ。
もう、痴漢から護るだのなんだのは、頭から吹っ飛んでいた。
謎の使命感で、必死に群衆から女子校生を護り、勝手に顔面を真っ赤にしているマヌケが一人、密かに存在しているだけだ。
はたから見たこの場面は、きっとそんな感じだと思う。
俺はそんな風に客観する余裕もなく、歯を食いしばって苦痛に耐えていた。
ぬぬぬぬぬぬぬ。ぐぐぐぐぐぐぐ。
ジリジリと、彼女たちとの距離が縮んでは、必死で押し戻す。
時間が、すごく長く感じられた。
そのときだった。
信じられないことが起きたんだ。
──つづく。
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