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第十一話『誘惑への耐性など──』
しおりを挟む俺も彼女たちと同じように、彼女たちは手さげ、俺は肩かけカバンだが、身体の前側に持つようにしていた。
これなら万が一つんのめってしまっても、彼女に直接触れることはない。
俺は自分の弱さや、背中にかかる重みへの敗北には備えていたが、それは完全に独り相撲だった。
彼女が揺れに負けて、後方に倒れてきたのだ。
急な揺れに、鉄棒を掴む手が滑ったらしい。
彼女はなすすべもなく、俺に寄りかかってきた。
ぶわっと鼻腔から頭蓋骨の内側一杯までひろがる、彼女のリンスの芳香。
あと、もしかしたら、少し香水もつけているのかもしれない。
体温と混じった柔らかい甘みが、嗅覚の最も本能に近い部分を撫でた。
制服からは、香料とはまた違う、コインランドリーのような、アイロンのような匂いがした。
清潔な女の子の匂いに、頭がクラクラした。
衣服をとおして、彼女の体温と柔らかさも伝わってきた。
まとめられた髪の毛が、ふわりと俺の頬に触れる。
俺はなにかを感知するたびに、ビクリと固まった。
直立したまま、硬直し、思考停止していた。
「ごめんなさい」
急いで立ち直りながら、僅かに振り返って無表情で俺に謝る彼女。慌てていて、恥ずかしそうな早口だった。
彼女の息が、少し届く。
ちゃんと歯磨きをしている人の、整った匂いだった。
俺は目を合わせることもできず、「いえ」とだけ答えた。
自分でもビックリするくらいの、ぶっきらぼうな声が出た。
なにをしているんだ、俺は!
彼女が友人に、なにかヒソヒソと耳打ちをしている。
耳から得た情報がなんだったのか知らないが、彼女の友人がチラリと俺に視線を向けたような気がした。なんで断言できないかと言うと、俺はその視線も受け止められなかったからだ。
わざとらしいほどに首を捻って、明後日の方角を見て他人のフリをする。いや、実際に他人なんだけども。
俺は全神経を集中して、さっきの記憶を保存しようとしていた。
触覚、嗅覚、聴覚。だけ、か。やっぱり視覚の記憶がない。
なんというもったいないことを。
ゼロ距離の彼女の視覚映像を記憶するチャンスを逃すとは。
自分が情けなくて、泣きたくなった。
と、電車が不意に走行速度を緩めた。
駅が近いのか? と、勝手のわからないくだり方面の電車の、一駅ぶんの時間の見当がつかず、窓の外を見て予測する。
車掌さんがなにやらアナウンスをしているが、音量が小さすぎて聴こえない。
「すみません、降ります」
彼女の友人が少し大きめの声で言った。
周りの大人たちが、少し身体を動かして、出口へのルートをあける。
俺が一番邪魔なので、身体の向きを変えて避けた。
また、太った大男と向き合う格好になる。臭え。
ゆっくりとホームの位置を確認するように停車し、左側のドアが開いた。
女子校生二人は腰を屈めるようにして、低い姿勢で人ごみを潜り抜け、するりと降車した。
空気の薄い車内から解放されて、安心したように顔を見合わせている。
よかった。と、それを見て俺は満足感を深呼吸で表した。
隣に立つデカブツの放つ悪臭が、再び肺の奥まで充満する。殺すぞ。
彼女を少しは護れたのかななどと自己満足に浸っていた気分が、一瞬でさめた。
そして同時に、俺がこの電車にこれ以上のる理由などないことに思いが至る。
会社と逆方向に進むのは、ここから先は完全に無意味だ。
俺は慌てて、周りの人を押しのけるようにして出口から飛び出した。
すでに発車警報が鳴っており、ドアが閉まる寸前だった。
降りてすぐに、駅名を確認する。
知っている駅だ。
たしか、大きな街道のそばにある駅で、その道は仕事でよく通るので、駅があることは知っていた。
やたらと若い女性ばかりがワラワラと出てくることで有名な駅だった。
たしか近くに、女子大と女子校があるからだったと思う。
そう言えば車内の半分以上は女性で、たくさん降りていたかもしれない。
痴漢電車どころか、女性の乗車率が異常に高い電車だったのだ。
となると俺の正義感など、ただの勘違いだったというおそれもある。
思い込みで行動して、なぜかこんなところに独りで突っ立っている自分のバカさ加減が、胸のなかを虚しさで満たす。
恋は盲目とは、よく言ったものだ。
俺も、彼女以外、なにも見えなくなっていたのだ。
ホームを走り去る電車が巻き起こす旋風に髪を乱されながら、俺は嘆息した。
とぼとぼと、降車した女性客たちからだいぶ遅れて、ホームを歩きだす。
会社の人の話を信じるなら、この辺の女子校は、私立の有名校らしい。
ここで降車するということは、あの二人はそこそこ裕福な家庭の子で、まあまあ勉強もできるということか。
なぜだか知らないが、置いていかれたような感覚に襲われた。
「さて、と」と、独り言を呟いて、進むべき方向を探す。
反対側のホームへと渡らなければならず、そのための階段を探す必要があった。
探すと言っても、皆が進んで行ったほうへと行けば、階段はあるはずだ。
目を凝らすと、乗客たちがのぼっていく姿が見えた。
階段はあれしかなさそうなので、改札も、のぼり方面のホームへも、あそこから行けるのだろうと判じた。
大勢の背中に交じって、彼女と友人の姿が見えた。
俺は早足で階段まで行き、人波に紛れ込んだ。
一段飛ばしで、急いで階段をのぼる。
ふと仰向くと、彼女と友人の短いスカートが、頭上で揺れているのが見えた。
俺は顔を下に向け、彼女たちのすぐ後を、踵を見るようにしながらのぼった。
彼女たちが改札を出る姿を見送ってから反対側のホームにおりられたら、少しは思い出っぽくなるなと考えながら急いだので、いつの間にか、追いついてしまったようだ。
周辺視野に、まだ彼女のスカートが躍っているのが見える。
見たいけど見ない、と、俺は思わず正直な欲望を、心の内で吐露してしまった。
でも欲望には、さっき電車の中で、一度、勝っている。
だから今回も、絶対に見ない自信があった。
「ヒャア!」
階段の向かって左側のほうから、悲鳴が聴こえた。
俺はビクリとして、そちらに眼を向けた。
──つづく。
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