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第十二話『あわわわ……』
しおりを挟む左側の、少し後方。
何段か下をのぼっていた大学生らしき私服姿の女性が、転んでいた。
ヒールが階段にひっかかったらしい。
髪をボサボサに乱して、なんとか転げ落ちたりせずにバランスを保っていた。
「もう、最悪」と、口を尖らせている。周りの友人らしき人らが手を叩いて笑う。
「え、なに?」
その騒ぎが収まる前に、俺のすぐ前方、階段の少し上から声がした。
驚いたような、響きに不快感を含む声。
俺は左後方に向けていた顔を、その声のほうへと向けた。
上段で振り返ってこちらを見下ろしている彼女の友人と、視線がぶつかる。
どうやら今のは、その娘の、俺の好きな彼女の友人の声だったようだ。
声と同じくらいの嫌悪を顔に表して、俺を睨むように見ている。
悲鳴に反応したのかなと思ったけど、にしては微妙にタイミングがおかしいし、表情も合っていない。
すぐに顔を前に向けたので、気のせいかな? とも思いかけたが、視線が合ったときの顔は、うん、間違いなく怒っていた。
その娘は前を向くとすぐに、隣の彼女に何事か耳打ちをした。
彼女も俺を振り返り、ちらりと俺を見た後、俺のすぐ右隣で階段をのぼっていた女性にも視線を向けた。
チラリ、チラリと素早く査定するように視線を移して、すぐに顔を前に戻す。
……なんだ?
彼女と友人がまたなにかヒソヒソと小声で喋り、次の瞬間に階段を駆け上がっていった。
きょとんとした顔(たぶん)でそれを見送り、さっきの彼女の視線の動きを追うように、右隣の女性に眼を向ける俺。
横から見られてもこっちを見返さず、その女性は階段の上のほうに怒ったような顔を向けていた。
高校生に急に睨まれたと思って、無礼だと怒ったのかな? とその表情の理由を推察する。
たぶんこの人は、社会人だと思う。
大学生とも高校生ともちがう、ビジネスカジュアルといった身なりで、髪型も、オシャレというより、仕事用に急いでまとめたという感じだった。
怒ったままの表情がこちらを向き、右隣の社会人女性と俺の視線が交差する。
すぐに目をそらし、その女性は軽快に階段を駆け上がっていった。
女子高生二人は逃げるような印象だったが、同じ駆け足でもその人は、なにかが違った。
急いでいるのかなと思いかけた瞬間、その人はピタリと足を止めて振り返った。
チラリと、なにかを確認するように俺を見て、なぜか疑問の浮いたような表情になり、また前方へと顔を戻して駆け出す。
なんだろう? 急いでいるのか、いないのか。
三人の女性たちは、それぞれ違う感情で俺を見ていたようだった。
一番、強烈な印象だったのは、女子高生二人の、友人のほうの視線だ。
驚いたような顔から、睨むような、軽蔑するような顔へと歪んでいった。
その顔が、なぜ俺に向けられたのかはわからない。
俺がすぐ後ろにいたから、スカートの中をのぞいているとでも思ったのかな?
でも、それも変だ。
だってあの友人のほうの娘が振り向いた時、俺は転んだ女性の悲鳴に反応して、後ろを振り返っていたのだから。
前を向いてすらいなかった俺を、ノゾキ扱いはしないだろう。いくらなんでも。
転んだ人を見ていた俺が、他人の不幸を喜んでいるとでも思ったのかな?
それで軽蔑するような目つきをした?
ううむ。それでも、逃げるように走り去った理由とは繋がらない気がする。
俺は笑ってなどいなかったし、仮にそう誤解したとしても、知らない人をそんなことで、あそこまで睨むかな?
第一声の、「え、なに?」は、あれは、なにに驚いていたのだろうか。
ほんの一、二秒ほどの間だが、俺は脳ミソをグルグルと回転させて考えた。が、どうしても納得のいく理由は出てこなかった。
二人の女子校生がなにか誤解して走り去ったのは、百歩譲って、俺が二人のすぐ後ろを歩いていたから、それが気持ち悪かったのだと仮定しても、もう一人のあの社会人っぽい人は、じゃあ、なぜ走り去ったんだ?
彼女たちには一体、俺がどう見えていたんだ?
考えれば考えるほど意味不明すぎて不安になるので、俺は思考をとめた。
気持ちを切り替えて階段をのぼりきると、そこは長い真っ直ぐな通路だった。
遠くに改札と駅の出口が見える。通路の途中には、別のホームへとおりる階段が左右両側にあった。
俺は初めて見るその場所を、地元の駅と似た造りだなと呑気に眺めていた。
彼女たちを見送りたかったなと、残念に思いながら改札のほうを見ると、二人の女子校生がそちらから駆け戻ってくるのが見えた。
おお、なんか、願いが通じたと、少し嬉しくなる。
今日はもう彼女に会えないものと思っていたからだ。
だがそのお気楽な考えは、すぐに頭から消えた。
なにか、様子がおかしかった。
彼女たちが遠くから、俺のほうを指さしている。
二人の背後の誰かがそれに答えているが、あれは誰だ? と、疑問に思ったのもまた一瞬で、後ろから来るのが男性で、制帽と制服を身に着けた駅員さんだということは、すぐにわかった。
俺から少し離れたところで警戒するように立ち止まる、彼女とその友人。
二人の背後から、駅員さんが進み出て来て俺に声をかける。
「お客様、失礼ですが、乗車券を拝見させていただけますか?」
言語的な意味は伝わったが、それを求められている理由がわからなかった。
思わず、自分以外の誰かに言っているのかもしれないと、左右をキョロキョロと確認してしまう。
それがまた、駅員さんの不信感を刺激したようだった。
さっきよりも大きく、ハッキリとした声と口調で、俺に顔を寄せてまた言う。
「ちょっと、あなたですよ。乗車券を見せてください」
なにか悪いことをした人に言うような、責めるような言いかた。
俺は言葉を失い、現実味がなさすぎて血の気がひいてクラクラするのを感じた。
これは、職質か?
なぜ、俺が?
非常にまずい状況だと、少しずつ実感がわいてくる。
よく考えると、それはその時の俺にとって、最悪の要求だった。
俺は定期券で駅に入場して、電車にのっている。
その定期券には地元の駅名と、そこから、この駅とは逆方向の『のぼり方面』に数駅進んだ駅名が表示されているのだ。
なぜ逆方向にのったのかを問われたら説明できないし、これは、キセルになってしまうのではないのだろうか? という不安もある。
俺は口をパクパクと動かして、青ざめていた。
どうしよう。
この状況を、なんと言って説明する?
間違えてのったにしては、もう数駅ぶんは逆走している。
女性だらけの電車に通勤通学時間を狙って用事もないのに乗車する人のことを、世間では痴漢と呼ぶ。それを否定できるだけの立派な理由が、俺にはない。やっていることは、痴漢そのまんまだ。
答えるまでの時間が遅くなるほど、どんどん不審者っぽくなっていく。
なにかを言おうとして開けられた口がずっとなにも言わないので、オロオロしているのが一目瞭然だった。
駅員さんの声つきが、ソフトなものから真剣に、そして詰問口調へと変じる。
「見せられないのですか? 今ここで、警察を呼びましょうか?」
警察だって?
なんで、乗車券を見せないだけで警察を呼ぶの?
不審者だから、とりあえず捕まえておこうって?
そんなことが許されるの?
俺は慌てて、顔を横にブルブルと振った。
「いえ、いや、あの、違うんですよ」
口から出るのは、子供のイイワケのような言葉ばかり。
違わない時にしか言わない、違うの連発。
違うんですよと言った後、なぜなのかを言わないと。
難しいことを順に説明する必要はなく、理由をポンと一つ言うだけでいいのに。
出ない。なにも出てこない。俺の頭は空っぽだ。
どうする? どうする? どうする?
俺がここにいていい理由は、なんだ? なに?
わからない。
正答が思い浮かばない。
駅員さんは、俺がなにも言わないと見てさらに責める言葉を吐こうとしている。
息を吸い、吐き出すと同時に、恐ろしい質問が降りかかる。
俺はそれを阻止しようとするかのように、苦しいイイワケをペラペラと並べた。
なんでもいいから喋らないと、自白したような感じになってしまうからだ。
──つづく。
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