あ・い・う・え・お

夢=無王吽

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第十五話『泣かせたから』

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「わかった、少し待ってて」
 警察官の女子校生たちに対する口調は、やはり少し偉そうで、でもその印象から案に相違して、奥の部屋への扉を閉める時の手付きは、そっと、あまり大きな音をたてないようにと気をつかっているように見えた。
 下品な発声は、縦社会で鍛えられた図太さからのもので、この人なりに、女性に気をつかうことはできるようだ。
 俺ともう一人の警官がいるテーブルまで戻らず、扉前に立ったまま、その警官はこっちに身体の向きを変え、俺にもその下品な胴間声を張った。
「あのね、あの子たちはさ、あんたがあまり違う違うって言い張るもんだからさ、自分の記憶にだんだん自信がなくなってきちゃったんだって。え? どう思う? あんたがやったなら、やったことをちゃんと認めないと、あの子たちにのこるのはトラウマだけなんだわ。それでいいの、あんた。まあ、オマワリサンも決めつけるつもりはないからさ、互いに行き違いとかもあるだろうし。朝は人が多いからね。やったならやったと男らしく認めて、もしそれでも違うって、あんたがどうしても言うならよ? それならそれで、あんなトコで、なにをやってたのかってのをさ、ちゃんと説明しなさいよ。あんたの定期券ね? ほら、こっちと逆方向じゃない。間違えたなんて言っても、そんなに、いつまでも気付かないものかね? 普通なら気付くでしょ。景色がゼンゼン違うんだから。ね? だからそのへんも、ちゃんとオマワリサンたちが納得のいく理由を話してくれないとさ、だってあんた、ずっと違う違うしか言ってくれないじゃない。それじゃ納得してあげたくても、できないでしょうよ。あんたがオマワリサンだったらどう思う? それで、納得できる? できないよな。ならなんであんたが偶然、なのか、なんなのか知らないけどね? あそこで、彼女たちのすぐ後ろにいて、ちょうどその時に、、痴漢騒ぎが起きたのかを、知らないなら知らないなりに、説明しようとはしなさいよ。だって変だろ? これさ、偶然がいくつ重なってんのよ。え? たまたま彼女たちと同じ駅からのった電車が、たまたま間違えて乗ってしまったいつもと逆方向の電車で、たまたまそれに気付いて降車したのが、彼女たちの目的地の駅と一緒で、たまたま階段でも彼女たちの後ろにいて、たまたまそのタイミングで痴漢騒ぎが起きたと。あんたさぁ、これを全部たまたまで済ませようとするのがムリだってことくらい、自分でもわかってるんでしょ? え? どうなのよ?」
 ちょいちょい「え?」て言われるのマジでムカつくけど、反論できない。
 いや、本当に違うんだけど、要所要所で本当にたまたまじゃない部分があって、そこをうまく説明できる気がしない。
 ゆっくりと、説教をしながらその警官は、俺のそばに近づいてくる。
 俺を見下すような態度で、手に持ったものを差し出す。
「見てこれ、あんたの定期券。ほらこの駅名、逆方向でしょ。ここに表示されてる駅名が示してることだけが真実でしょ。あんたが説明できないことのなかにだけ、この真実の先があるんでしょ? そのくらいはね、わかるんだよ。オマワリサンはいろんな人を見てきたからね。さぁほら、オマワリサンに言うことがあるでしょ。ちゃんと、正直に!」
「好きなんです!」
 俺が言うべきこと、言ってはいけないことのなかで、俺が今言えるたった一つの真実を白状するならば、これしかなかった。
 警察官の反応はというと、「は?」という冷笑だった。そらそうだ。
 俺の口が、俺の意思ではなく、勝手に心のうちを吐き出す。
「ずっとずっと、彼女のことが好きで好きで、だから、後をつけたんじゃなくて、あと少しだけ一緒にいたい、あと少しだけ、あと少しだけって、少し離れたところから見ていることしかできないくせに、どうしても気持ちを止められなくて、つい彼女たちと一緒に電車にのってしまいました。でも電車の中では、今度は、彼女を護りたいと思っちゃって。混雑している中、彼女のそばにいた不潔な男からとか、もう夢中で──」
「いや、ちょっと、待ちなさいよ、落ち着いて」
 立ち塞がるように俺の前で俺を見下ろしていた警官が、俺の肩に掌をのせる。
「彼女たちを追って電車にのったのは認めるわけだ。じゃあ、ほら、階段で触ったことも、夢中で、つい、しちゃったと」
「いや、触ってません!」
「好きだから反対方向の電車にのったって言ったでしょ? 好きだからつい、魔がさしたって、そういう話でしょ?」
「好きですけど、いや違うよ! 好きだからこそ、痴漢なんてしないよ!」
「だったらなんで、二人のすぐ後ろにいたのよ。『つい』なんて理由で、そこまで行っちゃったのに、その先だけは違うって、それはおかしいでしょうよ。そんなの自分にとって都合がいいところだけ、いい風に言ってるだけにしか聴こえないよ」
「だから、違いますって!」
 噛み合わない押し問答の途中で、部屋の奥の古い扉が、音もなく開けられた。
 黙って俺たちの言い合いを聴いていたもう一人の警官が、「あっ!」と、小さく驚きの声をあげる。
 その声につられ、俺も、俺を説諭していた警官も、扉のほうを見た。
 奥の部屋側から開けられた扉の向こうには、彼女の友人が立っていた。
 小柄なショートカットの女子校生が、俺を刺すように睨んている。
「好きとか、気持ち悪いんだよ、オッサン!」
 叫ぶような必死の反撃。
 そう、これは彼女にとっては、反撃なのだ。
 キモチワルイと思うのも当然だ。
 この場面に一番そぐわない言葉が、「好き」なのだろうなと、俺も思う。
 少なくとも、尻を触ったとされる男が言うことではないよな。
 うん、知ってる。わかってるよ。
 ただ一つだけ反論させてもらえるなら、俺の恋愛感情について、キミにとやかく言われる筋合いはないけどね。
 心のなかの言い分は当然、口にはできず、相手を直視することもできない。
 その娘の背後に、頭一つぶんも背の高い、俺の好きな彼女がヌッと姿を見せる。
 完璧なバランスは、より身長をスラリと高く見せ、存在感を大きくする。
 オーラって、よく言われるように本人が放つものじゃなく、受け取る側が見えてしまうものだと、俺はかねがね思っていたんだよね。芸能人はテレビだと華があるように見えるけれど、あれは照明とか演出のおかげで、実際に本人を生で見ると、好きでもない芸能人はとくに、オーラも華もなく、くすんだ色の、そこいらにいる普通の人に見えるのと一緒で。好きな人は有名人じゃなくても、光って見えるものなんだ。彼女は、殺風景な駅事務所の不気味な照明の下でも、すごく輝いていた。
 美しい彼女が、そのつぶらな瞳に涙を一杯にためて、哀願するように言う。
「あの……、まずは触ったことを、ちゃんと謝ってください」
 これは、ガツンときた。
 足もとの地面が崩れて、深い穴に落ちていくような感覚。
 俺は座ったまま、卒倒しそうになった。
 抵抗する気力が、根こそぎ奪われる。
 嘘とか本当とか、真実とか偽りとか、そんなのが一瞬で、どうでもよくなった。
 彼女を、泣かせてしまった。
 こうなったら、理由とか事実とか関係なく、俺が悪い。
 彼女を泣かせたやつが、この世で、一番悪いに決まっている。
 その顔で頼まれたことを、否定することなんてできない。
「……すみません……でした」
 自動的に口が動き、当然の言葉を発音する。
 謝罪以外には、俺にできることなんてない。
「認めるんだね、触ったことも」
 椅子に座ってじっとしていたほうの警官が、落ち着いた声で穏やかに尋ねる。
 俺は呆然としたまま、彼女からその警官へと、視線を移した。


 ──つづく。
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