あ・い・う・え・お

夢=無王吽

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第十六話『勇者と小者』

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「触って、いません」
 俺の反論は蚊の鳴く音より小さく、コロポックルの嘆きのようだった。
 人間サイズの鼓膜には到底届かない、小さな妖精のミクロな抵抗。
 彼女の涙には抵抗できないけど、警察の決めつけには逆らいたい。
 そののっぴきならない状況が、俺を小型化させた。
 くすんだクリーム色のテーブルの上に、小さな俺がいる。
 空想上の俺ですら、小さくしか反論できない。
 扉の向こうから、ショートカットの女子校生が猛然と食ってかかる。
「あんたさっき、私のことが好きだから、ついてきたって言ったじゃん!」
 いや、そら、言ったけども……んん? ちょっと待って?
「違うよ」という俺の声は、さっきよりは少し太かった。
 人間にも感知できる声ではあるが、俯いたままの卑屈な態度なので、届きかたが浅い。
 ほとんど脊髄反射のようなはやさで、「なにがよ!」とそのが叫ぶ。怖い。
「キミじゃない」俺は相手の目を見ることができず、俯いたままだ。
「だから、なにが?」イライラの塊をぶつけるような問い返し。
 この娘は痴漢野郎など怖がっていなかったんだなと、変なところで感心する俺。なんて堂々と痴漢を(違うけども)やっつけるんだ。イマドキの子は。
 俺は、少しだけ顔をあげて、女子高生の足もとを見ながら答えた。
「キミに恥をかかせるつもりはないけど、俺が好きなのはキミじゃない」
「え?」と、前後に立つと可愛い顔が縦に並ぶ、コンビのような身長差の二人が、同時に怪訝な声を重ねる。
 背の高い娘の声は小さく、小柄な娘の声は強かった。
「俺が好きなのは、彼女だ」
 チラリと視線を向けて、ぐにゃりと自信なく曲がった指をさす。さされた曖昧な方向を、目を丸くして追う女の子たち。警察官二人も、同時に俺のさすほうを目で追っていた。
 皆の視線が、ショートカットの頭の上に集中する。
「あたし?」
 俺の好きな、背の高い彼女の声が、驚きで裏返っている。
 さっきこぼれかけていた両目の涙が、まったく関係ないタイミングで、その白くつるりとした頬を伝い落ちた。
 室内の誰もが言葉を失ってしばらく間があり、その森閑とした、時間が停止したかのような空間にコツンコツンと、遠慮がちなノックの音が響いた。
 事務所の入口のアルミの引戸から、その音は鳴っていた。
「はい、どなた?」
 椅子に座っている、無口なほうの警官が来訪者に応じる。
 どうもさっきから見ていると、二人のうち、こっちの人が上司か先輩のようだ。態度が落ち着いていて、貫禄がある。
 カラカラと軽い音をたてて、引き戸が開く。
 そこには、さっき俺を捕まえた駅員と、女性が一人、立っていた。
 オロオロした駅員が、叱られる前の子供のような顔で口を開く。
「すみません、このかたが、痴漢の犯人が逃げるのを見たと、わざわざ駅に戻って報告してくださいまして」
 その、少し震えたような、申しわけなさそうな声が俺に向けられていることは、室内からその報告を聴いた全員がわかっただろう。
 駅員の報告が終わらないうちに、その隣に立つ女性が割って入る。
「チカ、ふぅ、痴漢は、その、人じゃ、ありま、せん」
 よく見ると、その女性は肩で息をしており、呼吸が乱れていた。
 汗をかいて、髪も乱れている。
 様子が違いすぎるのと、見た角度が違うため、俺は彼女の顔をすぐには思い出せなかった。
 喋っているうちに何度か変化した表情のなかの、意志の強そうな目つきを見て、ハッとした。そうだ、この人は、あの時、階段で俺の右隣にいた女性だと、記憶がよみがえる。
 社会人らしく、合理的に整えられた服装、髪型、メイクが、一試合終えたあとのスポーツマンのように、ラフになっている。
「なんであなたは、そう言い切れるの?」
 上司のほうの警官(俺の勝手な予想では)が、穏やかに尋ねる。
「見たんです」女性の答えは早い。
「別の男が、触るところを見たの?」
「はい」
「ふぅん。ならなぜすぐに報告しないで、一度駅から出たの? って、さっき言ってたよね?」
 穏やかだが、詰問のような鋭さのある口調。
 俺は横柄で声の大きな部下よりも、この人のほうが怖いなと思った。
 額からつるりと透明な汗を一筋垂らして、女性が笑む。
「捕まえようと思って。でも、逃げられちゃいました」
 唖然とする、室内の一同。痴漢は、本当にいたのだ。
 女性は汗も拭わずに、テキパキと説明を続ける。
 あの場に、俺しか尻を触れる男がいないと思ったのは、すでに犯人が逃げていたからだった。
 俺の横から手をのばして、触ってすぐに逃げたそうだ。
 俺が振り返ると同時に、俺を追い抜くように駆けあがりながら、そいつは痴漢を働いた。
 そういえばこの人は、階段を駆けあがる途中で立ち止まり、パッと振り返って、俺を観察するように見ていた。
 あの目つきの意味は、俺が犯人を見たかどうか、確認しようとしていたのだ。
 見られた俺がマヌケヅラで見返したため、気付いていないと判じた。
 階段で女子大生らしき女性が転んで悲鳴をあげたとき、俺を含めたそこらの皆がそっちを見た。その隙に痴漢が発生した。チャンスだと、犯人は思ったのだろう。
 この勇気ある女性は、自分だけが犯人を見たと知り、単身、危険をかえりみずに追いかけたのだが、人ごみに紛れたのか、逃げ足の速い犯人を捕まえることはできなかった。でも痴漢騒ぎを察し、マヌケな俺を心配して、戻ってきてくれたのだ。
 この人だって出勤途中だろうに、真実を知るのは自分だけだという責任感から、俺を救いに来てくれた。こんなトンマな野郎一人、遅刻してまで助ける理由なんかないんだから、見捨てたって、誰もこの人を責めたりしないのに。
 マジで勇者だ。ヒーローだ。自己犠牲とは、このことだ。
 犯人が反撃して、この人がケガをしていた可能性だってある。
 もしそうなっていたら、俺は助けてもらえなかった。
 反論も尽きて、警察署に連行されていたと思う。
 いかつい警官にも臆さず、彼女はまっすぐに見返している。
 警官たちは時間をかけて、彼女の証言の真偽を見極めようとするだろう。
 何度も、同じことを訊かれるかもしれない。
 まったく俺と関係ない、ただ横で事件を目撃しただけの人が、聴取に費やされる時間や手間を恐れずに、それを受ける覚悟はできているという、強い意志の表れた顔つきで、そこに凛々しく立っている。
 信じられないほどの正義感だった。
 これが、真に誰かを救うということなのだ。
 俺は急に、自分が恥ずかしくなった。
 なにが、『彼女は俺が護る』だ。
 俺は、なにもしていないじゃないか。
 もちろん、痴漢行為もしていないが、好きな女性を救ってもいない。どころか、泣かせてしまっている始末だ。
 証人の女性は丁重に招き入れられ、椅子をすすめられた。
 スタスタと迷わずに、力強く室内に足を踏み入れ、すとんと腰をかける。
 俺と二人の女子高生は、身分証の提示を求められ、連絡先を訊かれて、ほどなく解放された。
 俺の記憶は、このあたりから曖昧だ。
 彼女とその友人は、俺に何度も謝ってくれた。
 恥ずかしそうに、顔を真っ赤にして頭を下げてくれた。
 でも、恥ずかしいのは、俺のほうだった。


 ──つづく。
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