あ・い・う・え・お

夢=無王吽

文字の大きさ
18 / 23

第十八話『バタバタとした姉妹』

しおりを挟む
 
 駅構内から、学生やサラリーマンらしきスーツ姿の男性、楽しそうに連れ立って歩く着飾った女性たちが、こぼれるようにザワザワと出てきた。
 社会が、俺とは関係のないところで歯車を回している。
 歯車と歯車の間に社会の部品としてカチリとはまるためには、勢いよくポンと、歯車と歯車の隙間を見つけて飛び込まなくてはならない。
 俺は社会の威風に押されて怯むこともなく、スッとベンチから立ち上がった。
 切符の自動販売機の近くに設置されている無料配布冊子のコーナーへと、堂々と進み、就職情報誌を一冊引き抜く。
 薄くて安っぽいそれを丸めて握り、駅に背を向けてターミナルを出る。
 よし、まずは掃除をしよう。
 部屋を片付けて、キレイにして、風呂にも入ろう。
 おお、おお、なんか、調子が出てきたぞ。
 俺だって、まだ若いんだ。
 高校生じゃないけど、二十代前半。元気になれば、どうとでも動けるんだぞ。
 もう、落ち込むだけ落ち込んだ。
 恥はもう、俺の心に一滴ずつ溜まる記憶の湖水に混ざり、だいぶ薄まった。
 男性ホルモンが活性化するのを感じる。
 俺は立ち上がれる。いや、もう立ち上がっている。
 駅に来るときの倍速ほどの早足でアパートのほうへ進み、寂れた一方通行路まで急いで戻る。
 今日、散歩に出て本当によかった。
 反省になっているのかはわからないが、記憶を掘り返したのは効果があった。
 アパートの階段を駆けあがり、鍵をあけて扉を開け、自室に入る。
 薄暗い、散らかせるだけ散らかした汚部屋。
 起きた時に開けた窓が、そのままになっていた。
 涼しい外気が、カーテンをはためかせている。
 日光が、俺の布団を除菌してくれている。
 窓は開けたままにして、まずはゴミの分別から始めることにした。
 ポイポイと、ゴミ袋に片端から放り込んでいく。
 動きがキビキビしている。
 頭も、よく回る。
 なにをすべきかが、考えなくてもわかる。
 清潔な、健康的な暮らしを取り戻す。
 すべてを、やりなおすんだ。


 一日では掃除しきれず、部屋が全部キレイになったのは数日後だった。
 見違えるように、整っている。
 明るく、正しい部屋になった。
 仕事も、すぐに決まった。
 就職雑誌に載っていた職場に電話し、朗らかに挨拶をして、明るい表情で面接を受けたら、即日合格だった。
 前職よりも家から近いところに入社できて、ラッキーだった。
 朝、部屋を出る時間は前と同じだが、乗る電車は逆方向。くだり方面になった。
 面接に行く時に動悸が異常に激しかったのは、緊張だけが原因じゃないと思う。くだり方面のホームや電車に、トラウマがチクチクと反応したんだ。
 彼女と同じ電車で通うとなると、また会ってしまうかもしれない。
 そう考えると、まだチクリと胸が痛む。
 いいんだ、それが失恋だと自分を励ます。
 明日から、新しい仕事が始まる。
 今夜は就職祝いも兼ねて、一杯くらい酒が必要かもしれない。
 少し酔わないと寝付けなくて、朝寝坊してしまいそうだ。


 夜がきて、朝になった。
 長い長い休みが終わった。
 昨夜は、時間の進みかたがいつもと違った。
 だらだらしているうちにムダに過ぎていく時間じゃなく、出勤初日前夜の貴重な自由時間だと思うと、まるでタイムスリップのように、時間が飛び飛びに感じた。
 まだこんな時間かと思っていたら、急に、あ、もうこんな時間だと驚く。
 時間が進むと明日になってしまうという、この懐かしい感覚。
 社会人ぽいなと嬉しくなった。
 俺は仕事が決まるまでの間も、何度か駅まで行ってみた。
 案外平気で、案外慣れなかった。
 辛いというほどの抵抗は感じないが、いつまでも同じだけ心がチクリとする。
 出勤初日の今朝も、同じ思いをしながら駅へと向かった。
 駅が近づくほどに、下腹がキューッと締め付けられる。
 駅のロータリーに入ると、やはり、喫煙所横のベンチを見てしまう。
 これはもう、しばらくは抜けない癖なのだろう。
 と、思った刹那に固まって、ベンチに置いた視線を動かせなくなった。
「どういうことだ?」
 大きめの独り言が出てしまう。
 俺がいつも、見るのを楽しみにしていたあのベンチ。
 いつも彼女が腰掛けていたベンチに、見覚えのある女子高生が、ちょこんと尻をのせていた。
 目を離せないまま、俺は駅の構内に入る。
 その娘はスマホを取り出して、どこかに電話していた。
 俺は切符を選んで購入する。金がないので、まだ定期券は買えない。
 喫煙所から、茶髪でサラサラのストーレートヘアの女性が駆け出してきて、その女子高生に近づいていくのが見えた。
 二人は知り合いのようで、親しげに会話をしていた。
 俺が視線を外したと同時に、「ひゃーっ!」と、二人が奇声を発して騒いだ。
 ついまたチラリと見てしまうが、すぐに視線をそらして改札へと向かう。
 バタバタと、慌てたような足音が俺の背後に近づいてくる。
 切符を改札に入れようとすると、「待って!」と、女性の声がそれを止めた。
 俺は列から外れて、声のほうを振り返る。
 俺と同じくらいの年齢に見える、ワンレングスの色っぽい女性が、彼女の友人と二人で、俺のすぐ後ろにいた。
「え?」と、驚きの声がもれてしまう。
 茶髪の女性に見覚えはない。
 やけにピッタリとしたニットを着ており、豊かな胸を自慢するように突き出している。
 二人とも、すごく嬉しそうな笑顔だった。
 俺はたぶん、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていると思う。
 制服姿の小さいほうが、満面の笑みで一歩、俺に近寄った。
「あの、私のこと、覚えてますか?」
 ファンが芸能人に声をかけるときのようなグイグイ感。
 なに? どーゆーこと?
 俺は正直に「はい、もちろん」と答えた。
「ホントだ、イケてるね、いい人そうだし」
 小柄な女子高生の後ろで俺を見ていた茶髪の女性が、口を挟む。
「でしょ? お姉チャン」
 ショートカットの女子高生が、自慢のように答える。
 オネエチャン?
 この二人は、姉妹なのか?
 これは、まさか、その、そんな、ええ?
 と、俺が混乱と妄想を行ったり来たりしていると、制服姿の妹のほうが、早口で俺に言った。
「いきなりで失礼ですけど、今、少しだけ、お話しする時間、ありませんか?」


 ──つづく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄したら食べられました(物理)

かぜかおる
恋愛
人族のリサは竜種のアレンに出会った時からいい匂いがするから食べたいと言われ続けている。 婚約者もいるから無理と言い続けるも、アレンもしつこく食べたいと言ってくる。 そんな日々が日常と化していたある日 リサは婚約者から婚約破棄を突きつけられる グロは無し

不倫の味

麻実
恋愛
夫に裏切られた妻。彼女は家族を大事にしていて見失っていたものに気付く・・・。

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

愛する人は、貴方だけ

月(ユエ)/久瀬まりか
恋愛
下町で暮らすケイトは母と二人暮らし。ところが母は病に倒れ、ついに亡くなってしまう。亡くなる直前に母はケイトの父親がアークライト公爵だと告白した。 天涯孤独になったケイトの元にアークライト公爵家から使者がやって来て、ケイトは公爵家に引き取られた。 公爵家には三歳年上のブライアンがいた。跡継ぎがいないため遠縁から引き取られたというブライアン。彼はケイトに冷たい態度を取る。 平民上がりゆえに令嬢たちからは無視されているがケイトは気にしない。最初は冷たかったブライアン、第二王子アーサー、公爵令嬢ミレーヌ、幼馴染カイルとの交友を深めていく。 やがて戦争の足音が聞こえ、若者の青春を奪っていく。ケイトも無関係ではいられなかった……。

乙女ゲームの正しい進め方

みおな
恋愛
 乙女ゲームの世界に転生しました。 目の前には、ヒロインや攻略対象たちがいます。  私はこの乙女ゲームが大好きでした。 心優しいヒロイン。そのヒロインが出会う王子様たち攻略対象。  だから、彼らが今流行りのザマァされるラノベ展開にならないように、キッチリと指導してあげるつもりです。  彼らには幸せになってもらいたいですから。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

愛する夫が目の前で別の女性と恋に落ちました。

ましゅぺちーの
恋愛
伯爵令嬢のアンジェは公爵家の嫡男であるアランに嫁いだ。 子はなかなかできなかったが、それでも仲の良い夫婦だった。 ――彼女が現れるまでは。 二人が結婚して五年を迎えた記念パーティーでアランは若く美しい令嬢と恋に落ちてしまう。 それからアランは変わり、何かと彼女のことを優先するようになり……

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...