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第十二話『のみこみ、のみこまれ』

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「大丈夫? マッキー」
 ぐひぃいいいっ! という恐ろしげな奇声が噴射するのを、両手を口にかぶせてこらえる。
 トランが私を、愛称で呼んでくれた。
 名前を呼ばれたことじたいが久しぶりか、もしかしたら、初めてかもしれない。恐るべしハングリーボール部のサービスタイム。
 もう一度。と求めてしまいそうになるが、それもなんとか堪えた。
 この優しい気遣い。
 胸筋を震わせて私の肌に直接伝わる、低く爽やかな声。
 かぐわしい体臭。これは果たして、汗なのかコロンなのか。
 惚れ直したなどという表現では生ぬるい。私はもう、のぼせ上がって気絶しそうだった。
 厚い胸板に寄り添い、太い腕に抱かれているこの幸福な時間。
 彼の顔を直視できないと、控えめな女子を演じたいところだが、そんな勿体ないことができるわきゃねぇだろという貧乏性が先に立ち、どーせ計算高く振る舞うのなら、こっちのほうが得だろうとばかりに、彼の顔を上目遣いで見上げ、精一杯のカワイイ顔をつくって見せる。見て、見せるという一石二鳥。なにか言わなきゃ。まずはなんだ、礼か?
「ありがとう」
 誰だよ。
 心のなかの自分がすかさずツッコむほどの、ブリッ子声。
「どういたしまして」
 百万ドルの笑顔からの、ヒーローっぽい返事。
 また奇声をのみこむ私。今叫んでしまうと、たぶん蝉のような声が出てしまう。
 トランはそっと私の両腕の上腕を掴み、身体を離した。
 なんという紳士的な! と、一瞬また感動しかけたが、そんなワケなかった。
 これだけの数のファンに囲まれて、時間も限られているだろう状況で、私一人にこれ以上の時間は割けないのだろう。
 サービスタイム終了のブザーが、私の胸の空洞に鳴り響く。
 残酷な現実に引き戻された途端、五感も夢からさめる。
 自動でノイズカットしていた私の聴覚が、周囲の騒音をキャッチする。
 嫉妬と、素敵なトランを見られた喜びの混じる、七色の金切り声が場を満たし、私の脳髄をトゲのようにチクチクと刺す。
 意識の半分は現実に、残りの半分は夢から戻れないままだった。
 憧れがパンパンに詰まった胸が風船のように膨らみ、恋心は空気より軽いので、浮かび上がって風にのり、ネバーランドまで飛んでいってしまいそうだった。
 優越感。
 くだらないと頭ではわかっていても、湧き出て湧き出て止まらない。
 恋愛感情。
 トランの態度はファンに対するものだと、頭では理解している。 
 でもそんな理屈では、この乙女心の強風は止められない。
 体内から女性ホルモンをかき集めたかのような、満足の息がもれる。
 傍から見たら、ピンクの霧が口から出ていたかもしれない。
 ここで、幸せな気分のまま終われていたなら、それがたとえ幻だったとしても、品よく今日のこの日記は締められていただろう。
 下品な言葉など出てくる理由もなく、安らかにハードカバーの日記帳を閉じて、ベッドに潜り込んでいたに違いない。
 だが現実は、そんな理想的な場面転換をしてはくれない。
 トランがふと顔を上げ、私の背後に視線を向けると、「ああ、こないだは手紙、どうもありがとう」と、さっきと同じ爽やかな声を、誰かにかけたのだ。
 その視線を追い、私は振り返る。
 恥ずかしそうに頬を桃色に染めたハニカミ顔で、ちろちろと遠慮してる風に手を振るハナが、すぐそこにいた。
 彼女かてめぇは。
 おう?
 違ぇだろ。ぶるんじゃねぇよ、彼女ヅラをよ。
 おうおう! おうおうおう!
 なんのハニカミだコラ白状しろコラ食らわすぞボケカスハナクソ女てめぇコラ。
 自分の顔は、当たり前だが、どんなに目を大きく開けようと、首を折れるほどに捻ろうと、自分では決して見られない。
 コンパクトなどの鏡でちゃんと自分の表情を確認したら、やめたかもしれない。
 でも、あのときの私には、そんな余裕はなかった。
 たぶん、いや、うーん、たぶんじゃなく確実にかもだけど、私はきっと、般若のような顔をしていたと思う。
 幸いにもというとこれもまた寂しいのだが、トランはその時、私の顔など見てはいなかった。
 というか、その後ずっと最後まで、もう私に彼の視線は向かなかった。
 怒りが沸騰し、地獄の黒いマグマが脳天から噴火する。
 裁判を開廷する必要があった。
 私は部活見学からの帰り際、ハナとすれ違いざま、斬るように言った。
「ちっと話あるから、ワンサーつきあえ」
 女四人による、魔女裁判の始まりだ。
 被告と、裁判員が一人ずつで、あとはたぶん野次馬だけども。
 火炙りを覚悟せよ。おう? コラ。ブタ女てめぇコラ。

 ──つづく。
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