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第三十五話『サクラ』

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 午後の三時に開場し、三時半に開演した。
 え、ライブって、こんなに、ぬるっと始まるものなの?
 ダラダラとセッティングした最初のバンドが一度ステージからハケて、BGMが変わったと同時に再登場し、楽器を抱えて演奏を始めた。
 スピーカーから流れる音楽が変わったのはたぶん、彼らの入場曲なのだろう。
 そういや今週のいつかのミーティングで、私も訊かれたような気がする。
 マッキーは、入場曲の希望とかある? って。
 なんのこっちゃと思ったけど、要するに、ライブの準備時間に流す音楽を選べるということらしい。私は「べつに」と答えた。ホントにただのBGMなんだなと、私が客だったら、そんなのがあることにも気付かないだろう、これまた、ぬるっとした曲の変わりかたを観て(BGMを観るって変だけど)思った。
 最初のバンドがライブを始めたとき、会場フロアはガラガラだった。
 二人くらいしか客がいない。
 日曜とはいえ、こんな時間から観に来るような人はいないのかもしれない。
 ライブ中、うちのメンバーたちだけがなぜか大興奮して、大騒ぎして盛り上げていた。
 そのときは、そのバンドのファンなのかな? くらいに思っていたが、皆は次のライブでも同じようにして盛り上げていた。
 心底ライブが好きな連中だなぁとため息をつき、保護者みたいな顔で私は彼らを見ていた。
 だが彼らには彼らの、そうする理由があるということに、後で気付かされることになる。
 二バンド目には少し客が増え、三番目が始まる前には、さらにどっと増えた。
 会場が人で埋まり、ガヤガヤとした雑談や人いきれに包まれていく。
 寒いくらいだったエアコンのききが、人口密度があがるとともに、少しずつ悪くなる。
 タバコの煙、酒の混じる汗の臭い、不穏な怒鳴り声が空気を汚す。
 興奮した大声に最初は驚き、喧嘩でもしているのかと思って怯えたが、酔客が、推しのバンド名を叫んでいるだけだった。
 場内に、期待と緊張感が充満していくのがわかる。
 なんて疲れる空間なんだ。
 煙いし、空気が薄いし、人が多くて動けないしで、場内にいるだけで消耗する。
 でも、メンバーたちはライブハウスから出ようとしない。
 スタッフパスのシールを服に貼られているので出入りは自由なはずなんだけど、観客のようにライブを盛り上げ続けている。
 私だけを外に出そうとしないのは、たぶん、一人にするのが危ないからだ。
 各バンドがステージを終えて舞台ソデへと引っ込み、直接繋がっている楽屋へと戻るたび、メンバーたちも急いで楽屋に駆け込んでいく。
 挨拶をし、興奮して相手をホメちぎる。
 すぐに意気投合し、リハのときの他人感が嘘のように仲良くなっていた。
「うちは七番目なんで、ぜひ観てってくださいよ!」
 ノンが毎回その約束をして握手をしているのを、私は見逃さなかった。
 うちのバンドは客を持っていない。
 こんな治安の悪い場所でライブなんかしていることがバレると問題になるので、学校でのチケット販売もしていない。
 彼らは観客を、今ここで集めているのだと、何度目かの楽屋訪問のときに、私はようやく気付いた。
 数バンドが約束を守るだけで、少なくともステージ前は人で埋まる。
 バンドが観客としてのこれば、自然とその持ち客たちもフロアにのこる。
 最初の二バンドくらいまでは場内が空いていたので、楽屋で話す必要もなかったからか、フロアに出てきた出演者に声をかけていたように思う。
 あれもただの挨拶ではなく、盛り上げ役サクラを増やしていたのだ。
 イベントが始まって三時間半が経つ頃には、あくまで計算上だが、百人を超える観客を用意できていた。
 ライブを盛り上げるためには、本番前から、その努力は始まっているのだなと、そのしたたかさに舌を巻く。
 外はもう日が暮れているのだろうなという時間には、幕間まくあいの興奮はピークに近くなっていた。
 場内はパンパンで、移動は人を押しのけないとできない。
 うちのバンドは相変わらず、最前列で大暴れしてライブを盛り上げていた。
 対バンの人らも、ステージ上から嬉しそうにそれを見ている。
 だからすぐに、ライブ後に仲良くなれるのだ。
 先にこっちから、相手を助けて、ホメて、仲間だと伝えてやる。
「対バンはね、客からしたらバラバラの出演者に見えても、実は持ちつ持たれつの団体芸なんだよ」
 汗まみれのサブが、知らないバンドのサクラになる理由を、私の耳に口を寄せて教えてくれたのは、もう次が出番というときだった。
 こうやって盛り上がりを演出して、徐々に会場を一つにするのだという。
 なるほどねー、よく考えたもんだ。
「今夜は、すげえ盛り上がるぞ」
 ノンも珍しく、興奮した口調だった。
 今観ているこのバンドがハケたら、私たちの出番だ。
 胃の辺りからなにか重いものが、ぐいぐいとあがってくる。
 吐き気とかじゃなく、プレッシャーの塊のような苦しいなにか。
 フワフワとした時間が過ぎていく。
 待って、あと少しだけ待ってと、心が弱音を叫ぶ。
 対バンのライブの音が遠く感じる。
 両足に力が入らず、立っている気がしない。
 どうしよう。
 最後の曲だと、ボーカルの人が客をあおっている。
 サブたちが叫び、飛び跳ねてそれに応える。
 会場がそれにのせられ、えて、騒ぐ。


 ──つづく。 
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