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第三十九話『影絵のくれたもの』
しおりを挟む七月三十一日(土)
夢見心地のままの一週間。
寝てもさめても、ずっと私は、ここにいるのにいないような気分だった。
授業中は先生の話に集中していたし、休み時間は普通に、誰かと話して笑ったり怒ったりして過ごした。
傍から見たら、いつもと変わらない私だったかもしれない。
でも、違う。
私と私の外の世界との間にはずっと、滝の裏側のような、流水の壁に似た境界があり続けた。
気圧の変化で鼓膜がペコッとなったときみたいに、音が常に遠く感じた。
ライブで耳をやられたのか? と最初は心配になったけど、聴力がおちたのとは違うことは自分でもわかっていたので、その不安は私の前を猛スピードで通過して消えた。
どこかでこの感覚を体験したような気がすると、ずっと考えていて、ある推測が私のなかに生まれた。
母親のお腹のなかにいたときに、外から私の耳に届く音は、もしかしたらこんな感じだったのではないだろうか?
胎児のように、私は今、生まれる準備をしているのではないか?
フフンと、自分で自分を嘲笑う。意味がわからん。
今までとなんにも変わらない自分が、いつもどおりに生きて、暮らしているだけだと、どれほど自分を客観しても、変化やそのきざしはまったく、どこにもなく、ここが変わったのではないかと錯覚する余地すらもなかった。
一つだけ、以前と違うことが、あるにはある。
サブや、ノンや、ケイや、ノビと、私はこの一週間、不自然なくらいに、なにも話さなかった。
なにか理由があって、無視をしていたわけじゃない。
気まずさや、気恥ずかしさがあるわけでもない。逆だ。
たぶん皆、同じ気持ちだと思うんだけど、近寄って話したりしなくても、互いをずっと自分のなかに感じられるから、わざわざそうしないだけ。
ライブの記憶は、口に出して話し合わなくても、ちゃんと共有している。
むしろライブの話をして誰かにそれを聞かれることで、自慢だとかそんな風に、変に勘違いをされたくないというのもあった。
私たちにとって、あの日のあの時間はそれくらい大切で、なにも知らない誰かに勝手な言葉で汚されたくなかったのだ。
知った風に言われるのも、中途半端に知ろうとされるのも嫌だった。
どんなに説明したところで、メンバー以外の誰かには理解してもらえるとは思えない。
テレパシーでもなければ、絶対に伝わらないだろう。
たまに校内でメンバーの誰かとすれ違うとき、チラリと目で合図を送り合う。
車同士のパッシングのような、ほんの一瞬のコミュニケーション。
そんな秘密結社のようなやりとりだけで、じゅうぶんだった。
ストリートギャングのハンドサインのように、味方だぞと合図だけを送り合う、その瞬間の満たされた気分もたぶん、誰にも理解されないと思う。
魂が繋がったままというか、目を見るだけで記憶を共有できるというか、うまく言えないこの不思議な感じ。一言も口をきいていないのに、凄くたくさんお喋りをしているような、なんだろう、やっぱり説明をすればするほど、言葉にすればするほど、安っぽくなっていくような気がする。
目を閉じれば、すぐにあの、闇のなかで光に包まれた神々しい空間へと戻れる。
雄叫びのような歓声の大波が、暗くて見えない遠くからこちらへと迫ってくる。
細胞のひとつひとつが生きていると主張するような、苦しくて激しくて、そして美しい、あの空間の余韻が、閉じた目を開けた後もしばらくは続く。
夢はさめない。
体感としてのこり、いつまでも全身の皮膚が忘れようとしてくれない。
そうだ、そういえば昨日、私はサブと、ほんの少しだけ喋ったんだ。
下校時に、どちらが誘うでもなく、一緒に帰ることになった。
家に連絡をしてママに断わり、サブに車で送ってもらった。
サブはウチの近所の公園前に車をとめた。
なぜか私も、そこに車をとめるだろうと思ったし、とめてほしかった。
車をおりて公園内へと入り、ベンチに並んで腰かけた。
黙ったままの時間が過ぎて、徐々に日が暮れていく夏空を眺めた。
「また、やろう」
辺りはもう、とっくに薄暗く、私たちから少し離れたところにたつ公園灯が白く光っていた。サブの横顔は逆光で、よく見えない。でも彼のその声は、しっかりと力強く、そこにいた。
私がずっと会いたかった、待ち望んでいた言葉が、優しく微笑みかけてくる。
「うん」
頭で考えたのではなく、するりとトゲが抜けるように、答えが喉から出た。
会話は少しだったけど、私たちはずっと電気信号みたいな意思の疎通をしていたように思う。
だからベンチにいた時間はけっこう長かったのに、退屈だとは感じなかった。
家の前まで送ってくれた別れ際、私たちは長いハグをした。
心臓の音がシンクロしていき、離れたくないと訴える。
治癒した瘡蓋を剥がすように、二つの身体をそっと分離させる。
急いで剥がすと本当に、血が出そうだと感じた。
「また」
「うん」
いろんな意味にとれる「また」の、全部に「うん」と答え、私たちは小さく手を振ってわかれた。
もっと話したいとか、もっと一緒にいたいとかよりも、サブの体温が離れていくのが心細かった。
宵の口とはいえ、気温は夏だ。
涼しい風が吹くことはあっても、そうじゃないときは蒸し暑い。
でも、サブの温かさは格別だった。
彼も同じように、感じてくれているのだろうか?
そう考えると、心がキュッと甘苦しくなった。
でもこれは、嫌な苦しさじゃない。
油ものなどの料理に薬味を加えたときのような、あってほしい苦味だ。
誰もが求めるが、限られた人にしか見つけらないその奇跡の食材を、私は大切に味わった。
──つづく。
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