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第五十七話『流されていく心』

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 ほどなく、引きずられるようにして、ガンナーさんが医務室に運ばれてきた。
 それは酷い有様だった。
 Tシャツの襟元が破れて下着の肩紐が見えているのは、試合でそうなったのか、運ばれるときにそうなったのかわからないが、服以外の皮膚の変化はどう見ても、試合で相手にやられたものだった。
 顔面が爪で引っ掻かれて、蚯蚓腫みみずばれになっている。
 片目のまぶたが閉じられており、目から血液と体液が、それは涙とは違うと一見してわかるほどの量と色で、漏れ出ていた。
 目を潰されたのかと、マックは悲鳴を呑み込み、口もとを掌で押さえた。
 手の指が何本かおかしな方向に曲がって、爪が剥がれている。
 爪は彼女がなにかをして剥がれたのかもしれないが、指は折られたのだろうか?
 ガンナーさんからは、つんと酸っぱい臭いがした。
 破れたTシャツは、血液と汗以外にも、嘔吐物が染み込んでいるような色をしているので、そこから発される悪臭だとわかった。
 ガンナーさんは腹を押さえて苦しそうにうめいていた。
 その様から、彼女の嘔吐がストレスや緊張による反応ではなく、殴られたことによるものであることが推察できた。
「アバラがイッてるかもな」
 医者の愉快そうな声で、マックはやっぱりそうかと確信した。
 ガンナーさんは試合中、内臓へのダメージで吐いたのだと。
「ほれ、順番だ。おまえさんは出ていけや」
 医者に肩を押され、マックは医務室を追い出された。
 扉を開けると、天井の低い通路には案内係が待機していた。
 丁寧な口調で、マックを選手控室へと案内する。
 もう頭陀袋も被されず、手枷もはめられなかった。
 逃げたらどうなるのか。
 逃げることは可能か。
 もうその判断はつくはずだと考えているようだった。
 ギャングたちは、どんな残虐な行為も躊躇しない。
 ちょっと逃げる様子を見せただけで、トーナメントに特別枠として拷問ショーが加わるのだろう。
 もともと格闘技のイベントでもないので、そこには、試合で壊すか見世物として壊すかの僅かな違いしかない。
 拘束をしないのは、逃げてみろと試されているようなものだった。
 マックがそう感じ、逃げる気を失っている事自体が、ギャングたちの思惑どおりなのかもしれない。
 こういった犯罪を繰り返して、ノウハウを積んでいったのだろう。
 控室は、不必要なほどに豪華絢爛だった。
 これは自分が、試合で勝ち取った贅沢なのだと、思わされてしまうのは嫌でも、ついそう考えたくなってしまう。
 興行師たちは、そこまで計算しているのかもしれなかった。
 アメとムチによる、洗脳。
 マックの1回戦の試合は乱戦ではなかったので、比較的冷静にそう感じることができた。
 洗脳されるのはゴメンだ、こんなのに騙されてたまるかと。
 恐怖心によって次の試合が消極的になってしまわないための配慮なのか、試合の様子をモニターすることはできないようだった。
 なにをどう操作しても試合を映すことはできないが、音楽や映画を楽しむための液晶の大画面は、壁面にドンと設置されていた。
 驚くことに、酒やタバコ、麻薬のようなものまで用意されている。
 着替えも選び放題だし、食事のメニューもある。
 メニューのすぐそばには、カラオケボックスの電話機みたいなものが設置されているので、それで注文できるのだろう。
 待機時間に食事をするものなどいるのか? と、マックは呆れた。
 酒もタバコも、もちろん麻薬なんて、やる気になれない。
 普段から大麻などをやっていて抵抗のない人間なら、精神安定や痛み止めなどの効果を求めて、こういうのを平気で試すのかもしれない。
 マックがそれを拒絶したのは倫理的な理由でなく、ここの連中の用意したものを体内に入れる気には、どうしてもなれないからだった。
 信用できない連中の用意した信用できない部屋に置いてある、全く信用できない食物やら嗜好品、そして違法薬物。
 軽蔑するようにそれらを順に睨みつつ、ソファに腰かけた。
 ものすごく高級そうなソファだった。
 包まれるような、羽毛布団のような座り心地。
 座った途端に、大歓声が部屋を揺らした。
 控室だけに、医務室よりも音が近い。
『1回戦第3試合、勝者は!』
 アナウンスの興奮した声が割れて、ノイズが混ざっている。
 集音器の許容量を超えた声量だったのだろう。
『ニコ・ニコシテ・ルダッケ嬢!』
 耳が言葉をとらえ、心臓がドキンと跳ねる。
 フェラウの友人が勝ったということは、マックの友人が敗けたということだと、瞬時に判断したのだ。
 あ、そうだ、ここで注釈を入れておくと、ぼくはフェラウと小学校が同じだったんだ。
 彼女は当時、あんな偉そうな態度ではなく、普通の人だった。
 彼女の母親が、出会い系アプリかなにかで、社長だか投資家だかをつかまえて、再婚してから、急に金や権力に執着するようになった。
 彼女は継父の豪邸へと引っ越し、公立から私立の学校へと転校していった。
 転校した先でどんどん素行や成績が悪くなっていったようで、高校でまた公立に転校してきた。
 久しぶりに見たフェラウはもうぼくのことを覚えていないような尊大な態度で、すぐに有名になり、取り巻きを従えて歩くようになり、全校生徒から憧憬と敬遠と皮肉をこめた眼差しを受け、いつしか女王蜂と呼ばれるようになった。人に畏敬の念を植え付けるなんらかのすべを、転校先で身に付けてきたのかもしれない。
 でもぼくにはそんな彼女の態度が、精一杯の虚勢に見えた。
 なんとなく、かわいそうな人だなと思った。
 権力になびく人しか寄ってこないなんて、悲しいなと同情したよ。
 たぶん彼女はああやって、自分をまもっているんだ。
 話を途中で止めてゴメン、続けるよ。
 トーナメントの組み合わせは、マックとその友人とフェラウとその友人が、闘うようにされていた。
 それがたまたまなのか、誰かからの情報をもとにそうしたのかは不明だったが、なぜだろうと疑問に思ったので、マックもそれだけはハッキリと記憶していた。
 誰が敗けたのかと心配しながら、医者にもらった対戦表を、尻ポケットから取り出す。
 折りたたまれた紙を震える手で開き、覗き込む。
 第3試合で敗けたのは、スミタイさんだった。
 マックがケッカーと呼んでいた、大人しそうな人だ。
 彼女がどうなったのかのアナウンスなど、あるわけがなかった。
 生きているのか。
 生きていたとして、ケガの具合はどうなのか。
 情報がない不安のせいで、マックは胸が締め付けられるようだった。
 この話をしているときマックは、「彼女は怖がりで喧嘩なんかできないコ」だと言っていた。
 きっと、無抵抗のままやられてしまったのだろうと、マックはそのとき、友人の無事を祈ることしかできなかった。


 ──つづく。
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