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第五十八話『涙』

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 控室のソファに身を沈ませたまま、じっと待つ。
 一体なにを待っているのかと、マックは自問した。
 今行われているであろう試合で、友人が無事だというアナウンスか。
 勝利したから無事だとは限らないが、敗けたと聴くよりはまだ不安感は少ない。
 これはトーナメントなので、友人が勝ち上がれば次は自分と闘うことになる。
 その情報は、知りたくなかった。
 悪い情報と少しの安心を得られる情報が表裏一体で、知りたいのか? それとも知りたくないのか? 自分でも、どっちなのかわからない。
 なにかを考えようとすると、どうしても袋小路にはまる。
 現実的に考えるとどうしても、悪い想像へと向かってしまう。
 安心材料や、希望をもてるような未来への道筋は、思い浮かばなかった。
 だからマックがじっと待っていたのは、次の試合までの間、疲れた身体を休めて待機しようなどという積極的な態度ではモチロンなく、待てば誰かがこの地獄から救い出してくれるという希望を抱いての態度でもなく、〈苦しみは永遠ではなく、いつかは終わる〉という安っぽい歌の歌詞みたいな、誰から聴いたのか、それとも本か雑誌で読んだのかも不明な、空虚な言葉にすがり、本当にいつか終わるならば、それを待とうと、現実逃避のような思考停止に逃げ込んでいるだけだった。
 時間が過ぎれば、いつかは終わると考えて、時間? と、時計を探す。
 控室は本当に、暮らせそうなほど、なにもかもが揃っていた。
 キッチンには流しや水道もあり、大型の冷蔵庫、食器棚や調理器具、エアコン、絵画、大画面テレビの周りに設置されたたくさんのスピーカーを含めたオーディオセット、映画やドラマなどの映像ソフト、ゲーム機とゲームソフト、空気清浄機、ベッド、トイレ、メイク道具とライト付き姿写し、シャワー室まである。
 見渡せば、なんでもあるようなのに、時計だけがなかった。
 ここに来てから何分経ったのかも、今が何時なのかもわからない。
 一見すると自由に過ごせそうな場所だが、時間を知る自由すらないことを知り、また落ち着かない気分になる。
 これだけ娯楽があっても、なにをする気にもならないのは、状況が過酷だからという理由だけでなく、なにかに集中することで体感時間が早く過ぎてしまうことを恐れているのかもしれなかった。
 この部屋の豪華さは、実は心理的な罠ではないのかという疑いの気持ちもある。気分転換してしまうと、この後に待っている残酷な時間との落差に、心が耐えられなくなるのではないかと。
 そう考えると、リラックスさせようとあらゆるサービスで満たされたこの空間で不安を覚え続けるのは、もしかしたら自己防衛なのかもしれないなと思った。
 ただこれは、マックの誤解だった。
 休ませるためだけに用意された部屋でないことは正解だが、それを罠だと考えて思考停止してしまうのは、実は間違いだったと、後で思い知らされることになる。
 この、なんでもない待ち時間にも、ギャングたちの嫌らしい策謀は仕掛けられていたんだ。
 マックは部屋をじっくりと観察したのに、それに気付けなかった。
 心配してもムダ。
 期待してもムダ。
 生きのこるためにできることは、闘って身を護ることだけ。
 だからといって、張り切ってストレッチをする気にもなれない。
 時計のない部屋には時間がないように錯覚しそうになる。
 でも時間は見えないだけで、容赦なく進んでいる。
 状況に変化があったときに初めて、時間の経過を意識することになる。
 もうすぐ恐い目にあうぞと自分の心が察知したとき、それまでとは時間の流れが変わり、急加速したように感じる。
 そうやって女性たちが翻弄されていくのも、興行師たちの策略なのだろう。
 一つ一つの、思考や判断の各分岐点で、それぞれがどう選択するのかも含めて、未来が思わぬ方向へと変わっていくように綿密に仕組まれており、その判断までを含めたゲームに、彼女たちは参加させられていた。
 ドオオと、控室を振動させる大歓声が起きた。
 試合が終わったのだとそれでわかったが、それがなにを意味するのだったか? もう頭が回らなくて思い出せなかった。
 呼吸がちゃんとできておらず、自分が少し酸欠状態になっていることにも、このときのマックは気付けなかった。
『1回戦第4試合の勝者は!』
 興奮したアナウンスが煽り、足踏みと歓声をより激しくさせる。
『フェラウ・マッソ=ダーリン嬢!』
 聴こえた試合結果に反応して、マックの頬を涙が伝い落ちた。
 頭は混乱してなにも考えられなかったが、心が、起きたことを察した。
 また一人、友達が敗けた。
 悲惨な姿でマットに沈んでいるであろう、その場面がチラチラと頭に映る。
 その映像を直視したくなくて、マックは目を閉じられなかった。
 目を閉じると、悲惨な場面をイメージしてしまう。
 勝ったガンナーさんでさえ、あれほど酷い状態にされたのだ。
 マックは頭に浮かぶその場面が消えるまで、目を開けたまま泣き続けた。
 今回の犠牲者はモレールさん。
 マックがミラと呼んでいた彼女だ。
 日記に書かれていたマックと彼女の複雑な関係性は、ぼくには正直、よくわからない。
 仲直りしたのか、お互いを許し合えていたのか、そこも曖昧だ。
 でもマックは、どうしようもなく悲しかった。
 自分の置かれた状況は恐いし、苦しいし、辛くて悲しい。
 でもこのときのマックの涙は自分ではなく、友人を想ってのものだった。


 ──つづく。
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