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第六十話『腹を探る』
しおりを挟む熱を感じるほどに強力な照明のなかに、マックとハナは立っていた。
金網の向こうは闇。
深淵のような暗黒のなかに、発情期の獣のような咆哮や罵声が飛び交っている。
乱暴で猥褻な言葉や、残酷な結末を期待する声だ。
マックは金網の内側を、1回戦のときより広いなと感じていた。
視野が広い。リラックスできているのか? と考えて、またジャンプする。
やはり身体が軽いと思いかけて、足の甲に鋭い痛みが走り、着地後のバランスを少し崩した。
麻酔の効果と包帯の締め付けのおかげで、痛みを忘れていた。
骨折していたのだったと思い出し、しまったと舌打ちした。
一度意識してしまうと、痛みは消えてくれなくなった。
焦りで喉が渇き、いやな汗が背中と腋に滲み出る。
『それでは、女だらけの金網トーナメント、2回戦第1試合、スタートです!』
楽しげなハイテンションのアナウンスと、開始のブザーが耳朶を叩く。
不快な音、不快な声。
イライラした。
呼吸が浅くなっていく。
心臓のリズムが不規則に感じる。
焦りは心身のバランスを崩す。
自律神経がせめぎあっているのを、深呼吸で落ち着かせる。
二人とも1回戦を経験しているので、じっとして闘う意欲を見せずにいるとどうなるのかは知っていた。
あのカウントダウンは焦燥感を刺激する。
自律神経が乱れているときに、よけいな刺激は避けたい。
ハナも同じように考えたのか、不格好に構えて、じりじりと進んできた。
マックも軽く身構えたが、足は動かさずに相手を観察した。
まだ距離はある。
一歩すすめば手が届くという位置にくるまでは、遠くても近くても同じだった。
マックはハナに対し、足腰の筋肉が素人で喧嘩慣れもしていないので、瞬発力を発揮して急に駆け寄られたとしても、自分が全く対応できないほどの不意打ちにはならないだろうと判じていた。
ハナは、右目に眼帯をしていた。
距離感が狂っているはずだから、接近戦しかないのだろうが、近い距離は視野も狭くなるので、フェイントをひとつ入れて左側へと素早く逃げれば、簡単に自分の姿を見失うだろうなと、思いついた戦法をひとつ心に握りしめる。
ハナはそれを知らないだろうが、組技ならマックに分がある。
仮になんらかの方法でその情報を得ていたとして、組ませない、というか掴ませないためには、遠、近距離を激しく出入りしながら素早くジャブやローを打つのが理想だが、ハナがそんな華麗なフットワークや打撃技を駆使できるとは思えない。
脱力を知らない素人の打撃は、止まっている相手にしか当たらない。
ちょっと動かれるともう、空振りするか打てなくなってしまう。
相手を止まらせるためには掴むしかなく、結果、どうしても掴み合いになる。
ハナはどう見ても素人だ。
肩や握りしめた拳に、異常に力が入っている。
身体の正面をこちらに向けて、よちよちと幼児のように歩いてくる。
打撃の素人なだけでなく、組技も知らないのだろう。
軽く押せばすぐ倒れそうな、不安定な立ちかた、歩法だった。
普通なら顔を両手で護るところだろうが、片腕の位置が低いことから、腹を護りたいという意思が伝わってくる。
腹を庇う左腕、マックから向かって右側だけが、しっかりと脇が締まっていた。
あの医者は、ハナの肋骨が折れているかもしれないと言っていた。
1回戦で折られたのは、脾臓の側のアバラに違いない。
ならばよけいに、走ったり跳んだりは難しいだろう。
いや、それどころか、左腕はまともにつかえないかもしれない。
左腕をつかえないなら、たぶん右腕も大きくは振り回せない。
まともに闘える状態ではないなとハナの分析を終えようとして、いや、まてよと考え直す。
不可解な点がひとつあった。
駆け寄ることもできないくせに、自分からどんどん接近してくるのはなぜか?
考えられる理由は、プレッシャーを与えるという心理作戦だけだった。
1回戦で相手にやられて嫌だったか、または、やったみたら有効だったか。
これだけ自信をもって近付いてくるということは、効果を確信している、つまり経験している可能性が高い。
なるほどねと、隙だらけなハナを見て、少し感心した。
ただの素人じゃなかった。
一度、実戦を経験した素人だったのだと。
もしマックが緊張でかたくなっていたとしたら、こんなにぐんぐんこられたら、恐怖で縮こまっていたかもしれない。
ハナにはケガ以外にも、マックの1回戦を観ていないという不利があった。
マックが格闘技に詳しく、多少はつかえることを知らないのだ。
だから、緩急もなく、ただ前進してくる。
構えというのは素人からすれば、打つぞという意思表示にも見える。
これも経験から得た、彼女なりの作戦なのかもしれない。
副次効果として、運営側に闘う意欲を見せることもできる。
闘いを続けていれば、撃たれない。
構えの意味は知らなくても、ちゃんと理由はあったのだ。
マックが格闘技を知らなければ、たしかに怖がったかもしれない。
マックは怖がるどころか、じっくりと相手の足運びを見て、距離とタイミング、よくマンガなどのセリフに出てくる〈間合い〉というものを見定めていた。
互いに相手に手が届くまで、二歩ほどを要する距離になるのを待つ。
その距離ではまだできることはなにもないだろうが、そこからあと一歩進めば、ハナはなにかアクションを起こすだろうと、マックは読んでいた。
『一足一刀』の間合いは、素人でも勘でわかる。
打つために、一歩踏み込む必要のある距離。
そこで止まるか、殴りかかるか、威嚇のように蹴るかだろうと。
ハナがその、行動を切り替える距離へと入る、一歩前の前進にあわせ、マックはカウンターで飛んだ。
約三歩ぶんを、一気に縮めるような大きな踏み込み。
停止していた相手が、手足の届かない距離から不意に攻撃をしかけてくる。
これにはまず、やられた相手を驚かせるという効果がある。
しかも前進したのに合わせて飛び込んでいるので、ハナにしてみれば、マックの移動速度は倍以上に感じられたことだろう。
意表をつかれれば判断を迷い、身体が硬直する。
マックは一瞬の勝負を狙っていた。
右足の麻酔が完全にきれれば、マックも動けなくなってしまう。
そうなれば待っているのは、足を止めての掴み合いしかない。
目や鼻に指を突っ込み合うような、残酷な泥試合になるのは必至だ。
その展開だけは避けたかった。
ハナは恐らく1回戦で、その展開になったのだろう。
だから顔を引っ掻かれ、目を潰されたのだ。
そんなことを友達とするのは嫌だと、マックは初撃にかけた。
足の甲の痛みをハッキリと脳が意識する前に、勝負をきめる。
壊し合いをせずに、最小ダメージで相手を動けなくする。
飛び込んだマックは、押し飛ばすような前蹴りを放った。
踵を突きだすような、体重を足裏にのせた踏み蹴りだ。
ゴメン! と、その踵を急所である下腹へと向けて突き刺す。
ハナが護っているのは顔の右側と胴体の左側。
真ん中がガラあきだったのだ。
頭でイメージしたとおりに、やってみたら間違いだったということがある。
マックがこのときにしたことは、まさにそれだった。
本来、前蹴りとは、相手との距離を保つために打つ場合が多いが、この踏み蹴りだけは特殊で、殴り合いのなかに素早く紛れ込ませるような、短い距離を走らせる蹴りだった。
靴を履いているほうが有効とされる蹴りかたでもある。
だから、路上を想定していたお父さんは、この技を教えた。
飛距離がなく、素足ではダメージが与えにくいという、なにがしたいのかわからない蹴りかたは、この場面には合わない。
急所に刺すなら、三日月蹴り(という技があるらしい)のような拇指球を用いた蹴りのほうが効果的だったねと、話を聴いたお父さんは分析した。
ダメージを与えるのと、押し飛ばしてバランスを崩すのを、いっぺんにしようとしてしまうという、痛恨の判断ミス。
技の選択を誤った原因のひとつには、足の甲の痛みもあったと思われる。
1回戦で振り回す蹴りをつかって足を負傷してしまったため、無意識に、ケガをしないことを優先した技を選択してしまったのかもしれない。
これも、お父さんが言っていたことだ。
腹部を庇うために、猫背で前屈みのファイタースタイルに近い構えになっていたハナの腹には、その前蹴りは深く刺さらなかった。
Tシャツの胸の膨らみの下を揺らしただけで、腹には、踵が触れた程度だった。
女性には乳房があるので、腹の位置が布の奥に隠れてわかりづらいらしい。
空振りに近かったが、それでもハナは「ううっ」とうめき声をもらした。
──つづく。
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