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第六十二話『準決勝の音』

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 気付けば、またあの豪華な控室のソファに腰掛けていた。
 右手には、きつく、分厚く、包帯が巻かれていた。
 痛みはない。と言うか、感覚が麻痺しているようだ。
 麻酔を打たれたのだと、それでわかった。
 口が「な」と言ったのを、感覚が記憶していた。
 自分が譫言うわごとのように、「ハナ」「ハナ」と繰り返していたことに気付く。
 喋っていたということは、気絶していたわけではないということだ。
 夢を見て寝言を言っていたのでもない。
 なぜならこのときのマックは、背もたれに寄りかかることもせずに、姿勢正しく座っていたからだ。
 頭がパンクして、なんらかの解離症状に陥ってしまったのかもしれない。
 涙がかたまって、小石のような大きな目ヤニを作っていた。
 汗と涙のせいで、目の周りの皮膚はガピガピにかたまっている。
 ソファからノロノロと立ち上がり、キッチンへと向かう。
 冷蔵庫の隣にある流しの蛇口を捻り、水を勢いよく出した。
 右手がつかえないので、ほとばしる水流に頭を突っ込むようにして、左手だけで頭と顔を洗った。
 左手にはまだ、ハナの喉を打ったときの感触がのこっていた。
 柔らかい皮膚の奥にある筋や器官を、ムリヤリ叩き潰した嫌な触覚記憶。
 それごと洗い流すように、首から上と左手の指先が冷たくなるまで水に当てる。
 あの一撃の体勢は、不自然に身体を捻って力をため、急激に解放するものだったので、打ったほうにもダメージはあった。
 衝撃を受け止めた、肘と肩の筋を痛めたようだ。
 力を入れる角度によって、引き攣るような鈍痛がした。
 日常生活に支障が出るほどの痛みではないが、一定方向への力が入らなくなっているので、試合には影響がありそうだった。
 今頃気付いてももう遅いが、もし医務室で痛みを訴えていたとしても、たぶん、湿布でも貼られて終わりだっただろう。
 試合になれば湿布なんか簡単に剥がれてしまうだろうし、多少痛みが緩和されたとしても、力を入れればすぐにぶり返すのは目に見えている。
 この痛みが捻挫なのかなんなのか不明だが、治るほどの時間的な余裕はない。
 トーナメントは、試合が進むごとに試合間隔が短くなる。
 8人トーナメントなので、1回戦は4試合。2回戦は2試合しかない。
 つまりマックの後、1試合を挟んですぐに決勝なのだ。
 後の試合の人が不利すぎるので、少しはインターバルをとると思うが、何時間も休めるわけはなく、仮に休めたとしても、捻挫は数時間では治らない。
 マックはまだこのときまで、一発の攻撃も受けていなかった。
 相手から受けたダメージはないが、自らの攻撃でケガは負っていた。
 左手は筋を痛めて力が入らず、右手は骨折と麻酔で握ることもできない。
 右足も骨折と麻酔により、走れないし、蹴れない。
 多少走れたとしても、痛くなれば立っているのも辛くなるはずだ。
 スポーツなら、闘える状態じゃないと、ドクターストップになるだろう。
 ヴァーリトゥードの場合はスポーツには向かないが喧嘩なら得意な人間が賞金や名声を目当てに出場したり、格闘技の看板を出している流派が、路上で通用すると証明するために、武術の実戦的な性能を試し合う場なので、ケガ人が試合に出るか出ないかは、自己判断に任せることが多い。
 路上で襲われたときに、「今はケガをしているからまた今度にしてくれ」などと言っても、帰ってくれるどころか、それなら抵抗できないから楽勝だろうと、逆に暴漢に喜ばれてしまうのを、格闘技を教える立場の人間なら知っているからだ。
 表の試合でさえそうなのだから、ヴァーリトゥードよりもっと過酷な裏試合ではケガなんか誰も気にしてくれないし、欠場の自由など、あるわけがない。
 今度こそ、敗けるかもしれない。
 敗けたら、死ぬかもしれない。
 知り合いが相手だからといって楽に敗けさせてもらえないことは、自分が今までやってきたことが証明している。
 手加減なんかする余裕はなく、したら射殺されてしまうのだから、動かなくなるまで徹底的にやるだろう。
 キヨニとハナは、どうなったのだろうか?
 自分が殺してしまったという可能性を考えないようにしようとすればするほど、どうしても考えてしまう。
 グシャグシャに乱れた心を働かせて、マックは彼女たちの無事を祈った。
 突然、不穏ななにかが室外で沸き起こるのを感じた。
 壁や床が轟音でビリビリと音をたて、壁の向こうからさらに激しい振動が追ってくる。
 山津波かなにかの崩落音のような凄まじい音が、控室を揺らす。
 あまりの激しさに一瞬、本当になにかの災害かと思った。
 興奮した叫び声や奇声が交じっていたので、観客のどよめきだとわかった。
 それは今までに聴こえてきた、どの歓声とも違うものだった。
 今までの歓声は試合終了時に、その結果に興奮しての大騒ぎが漏れ聞こえてくるものだったが、これは違った。動揺というか、期待というか、日常会話でたとえるなら、『やるなぁ』と感心する声が、数千人ぶん重なったような声。
 ……なんだ?
 試合の展開が気になったのは初めてだった。
 マックは今まで、結果が悲惨なものでなければいいと心配したことはあっても、内容を知りたいと思ったことはなかった。
 ソファテーブルに置かれた、広げられたままのトーナメント表に目を落とす。
 それを見た瞬間に、心を騒がせる不安感の原因がハッキリした。


 ──つづく。
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