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第六十八話『命』
しおりを挟む予想外どころか、そこにあるはずのないもの。マックには、それがなんなのか、すぐにはわからなかった。
血油で汚れた大きな牛刀が、強い照明を反射して、嗤うように光っていた。
なに、それ?
包丁だと認識した後も、それがそこにある理由をぐるぐると考えてしまう。
どこに隠していたのか? 包丁のサイズとフェラウの細い身体を見比べる。
それが今、考えるべきことかなのかという判断ができなかった。
現実逃避に近い無意味な分析。
目の前の現実に対応せず、あるはずがないという似非のモラルに、心が流されてしまっていた。
反則にしても、あまりに常軌を逸しているため、冗談なのではないかと。
思考が停止し、自分がここでなにをしているのかも、わからなくなっていた。
試合、いや違う、これはルールのない〈殺し合い〉だ。
その自覚はあった。
なんでもアリだと、金網を見てすぐに理解した。
なんでもアリ、イコール、ヴァーリトゥードだと、勝手に判断していた。
ヴァーリトゥードでは指による目潰しと噛み付きを禁止とするのが一般的だが、これは〈人殺しの技〉をつかわせないためだ。
表向きは『体液の交換による、(主に)重篤な性病への予防』が理由だとされているが、それは、指による目潰しと噛み付きを認めてしまうと、殺人を目的とした技が使用可能になってしまうということを、一般人は知らないし、知る必要がないからだ。
この試合では、その最低限の安全性を考慮した反則技すらも使用可能なのだと、そこまではマックも最初から、認識していた。
噛むことも、掘ることも、誰も止めたりはしない。
反則負けというもののない試合だと、わかってはいた。
では、なにをすれば反則になるのか?
その点をマックは、一度も具体的に考えなかった。
ヴァーリトゥードの反則技を有効にする以上に過激なルールなど、リング上での試合には存在しないと思っていた。
これは素手による真剣勝負だという、ルール説明など一切なかったのに。
思い込みの恐ろしさに、背筋がぞくりとする。
マックのなかで、様々な記憶が繋がっていく。
控室で聴いた、あのさざ波のような歓声。
驚き、感心し、吐息のように静かに空気を震わせた、あの奇妙な歓声の理由。
華麗な技や容赦ない技をつかっても、ここの観客はギャーギャーと興奮して騒ぐだけで、あんな声は出さない。
控室、といえば、あの部屋だってよく考えれば、おかしな点は多かった。
ただ待機するだけの場所を、あんな何日も暮らせそうなほどに、生活空間として充実させる必要はない。
マックも初見から、その印象は抱いていたはずだった。
ちゃんと待機時間につかえそうな物もあったので、単純にサービスを充実させただけだと思ってしまっていた。
贅沢な空間により試合へのモチベーションをあげることで自己肯定感を刺激し、洗脳を狙ったものであろうと、マックは考えていた。
グレーな職場ほど階級が細かく分かれているのは、努力が認められて出世したのだと社員に実感させ、やりがいにより洗脳をするためだ(勿論お父さん談)。
『贅沢ができるのは試合に勝利したからだ』と思い込ませるよう画策していると、マックが運営の腹を読んだのも、完全な間違いではないだろう。
それも実際に狙いとしてあるのだろうが、そこで思考停止したのは短慮だった。
シャワー室や冷蔵庫はともかく、キッチンや調理器具など絶対にいらない。
あの時間に料理をする者など、いるわけがない。
つまりあの控室は接待ではなく、謎解きだったのだ。
フェラウは、仕掛けられた謎を解いていた。
キッチンには、フライパンや鍋もあった。
まな板だってあった。
なら、探せば包丁だってあるはずだと。
それを試合に持ち込んだのは、賭けだったかもしれない。
ルール違反なら、取り上げられて終わりだ。
それをたぶん、前の試合、準決勝で試したに違いない。
一体、どんな決着のつきかたをしたのか。
考えるのも恐ろしいが、フェラウはきっと、包丁をつかって勝ったのだろう。
控室から持ち出すのはアリなのだと確信して、この試合にも武器を持ち込んだ。
だから入場から、片手を隠そうと、極端な半身姿勢になっていたのだ。
試合中に目隠しを多用したのも、包丁が見つからないための工夫だろう。
決勝までの待ち時間が長かったのは、もしかしたら、異常に血で汚れたリングを清掃していたか、マットごと張り替えたかして、次の試合に影響がないようにしたのかもしれない。
滑るとか転ぶのを心配したのではなく、謎を謎のままにするためという意味で、観客を楽しませるために影響をなくしたのだろう。
こんな悪趣味な見世物を喜ぶだけあって、とことん残酷で意地の悪い連中だ。
異常な血汚れがあれば、マックも試合前に変だと気付けたかもしれない。
だがそのヒントは、隠された。
運営側には、マックが包丁を見て恐れおののく表情を観客に楽しませようとする意図があったのかもしれない。
もしそうだとしたら、運営の狙いどおりになった。
マックは血の気が引いていくのを感じた。
気を抜くと、腰が抜けてしまいそうだった。
「殺し合い」なんて、口で言うのは簡単だ。
その言葉の本当の意味をわかっていなかったと、マックは痛感した。
左前腕の切傷と、左脇腹の刺傷から、どんどん血が流れ出ていくのを感じる。
恐怖心だけでなく、血が足りなくてフラフラしているのかもしれない。
フェラウは左腕を切り付けたとき、首を狙ったのではないか。
たまたま左腕に阻まれただけで、その一撃で殺そうとしたのではないか。
そう考えると、震えが止まらなくなった。
なんだ、なんなんだ、これは?
格闘技の試合じゃなかったのか?
マックの頭のなかで、誰かに抗議する声ががなり立てた。
それが心の声でなく音声だったとしても、きっと誰にも届かない。
それがわかっていたから、マックは震える唇を閉じていた。
フェラウの耳殻は、まだ耳たぶのあたりで肉が繋がっていた。
アクセサリーのように、ぶら下がっている小さな耳から、ボタボタと血が滴っていた。
フェラウの包丁の構えかたは、威嚇するようなものではなかった。
包丁を見せようとするのではなく、また半身になって隠そうとしていた。
使うときは殺すときという意志が伝わってくる。
足がすくむ。
もともと浅かった呼吸が、さらに浅く、荒くなる。
狭かった視界が、さらに狭くなる。
恐怖が圧力のように、ぐいぐいとのしかかってくる。
押し潰される。
諦めて、投げ出して、うずくまってしまいたい。
股間から、あたたかい液体が溢れ出るのを感じた。
脚を伝い落ちてマットへと流れ、足裏が黄色い水溜りに浸る。
大衆の面前で失禁してしまったことを恥じる余裕もなかった。
オシッコだけでなく、涙がボロボロと流れ出て、顎の先から落ちた。
「やめてフェラウ、お願いやめて、助けて、殺さないで」
マックは、少女のような声で命乞いをした。
それが、そのときの彼女にできる、精一杯の抵抗だった。
──つづく。
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