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第六十九話『地獄絵図』

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 フェラウが威嚇するように咆えた。
 甲高い、南国の不気味な怪鳥のような声。
 目は大きく見開かれ、充血した四白眼になっていた。
 マックはとても正面に立っていられず、構えを解いて背を向けた。
 逃げ回り、金網に指をかけてへばりつく。
「助けて! 殺される、誰か助けて!」
 対戦者ではなく、被害者のように叫ぶ。
 混乱し、金網を壊そうとしているかのように、体重をかけて揺すった。
 フェラウが包丁を振り上げて襲いかかる。
 ちらちらと背後に怯えた視線を向けていたマックが、悲鳴をあげる。
 泣きながら頭を抱え、金網に沿って横っ飛びに身を避ける。
 振り下ろされた包丁は金網に当たり、奏でるような連音を発した。
 着地した途端に足がもつれて、転びそうになりながら金網沿いを逃げるマック。
 足を絡ませ、背後を振り返りながらヨタヨタ、フラフラと逃げる者よりも、追い詰めて狩り殺そうとする者のほうが動きは速く、視界も広く、心にも余裕がある。
 マックは相手を見ることも恐ろしくなり、完全に背を向けて逃げ惑う。
 奇声を発して包丁を振り回し、最短距離を追うフェラウ。
 何度目かの包丁の空を切る音に、別の音が交じった。
 切先が、マックの尻を掠めていた。
 苦痛と狂気という二種類の叫びが重なり、瘴気のように満ちる。
 混ざりあった叫喚が、金網のリング全体を微かに振動させる。
 右の尻っぺたから太腿まで、肉を裂く牛刀の鋭利。
 鉄が皮膚の内側を走る冷たい痛みに、マックの全身が粟立つ。
 時間感覚が、おかしかった。
 水中で動いているかのように、のろのろとしか逃げられない。
 恐ろしい影に追われる悪夢のように、身体が動かなかった。
 尻を切られた痛みでびくんと右足の筋が硬直し、マックは俯せに転倒した。
 自分から流れ出てマットを汚す血液を、塗りたくるように両手足で掻く。
 四つん這いで、バタバタと滑りながら逃げる。
 フェラウは包丁を逆手に持ちかえ、倒れ込みながらマックに襲いかかった。
 全体重ののせられた包丁の尖端が、マックの右膝裏の柔肉に突き刺さる。
 大口を開け、内臓ごと吐き出すように絶叫するマック。
 フェラウはぬっぽりと包丁を引き抜き、もう一度突き刺そうと振り上げた。
 マックの鼓膜にはスローモーションのような回転数の落ちた音声が、くぐもってわんわんと響いた。
「ふぅえぇえーるらぁう!」
「ふぅえぇえーるらぁう!」
「ふぅえぇえーるらぁう!」
 フェラウの名を連呼する歓声が、一番多い。
「こぉおろぉおせぇえ!」
「ぃやぁあれぇえぇ!」
「さぁせぇえぇえ!」
 殺せ、やれ、刺せと、ねばっこい大声が客席のあちこちからあがる。
 殺人への期待が、リングへと集中する。
 殺人? 誰が、誰を?
 涙と鼻水とよだれと汗でベチョベチョの顔で、乱れた思考と五感に振り回される。
 次にまた刺されて、それが腰から上であれば、本当に死んでしまう。
 腰骨の上、腎臓のあたりを突き刺されるイメージが頭に浮かぶ。
 生存本能が電気のように全身をビリビリと巡る。
 身体が、自動的に動いた。
 左手がマットをぐいと押し、俯せから仰向けへと身体を反転させる。
 マックのイメージしたとおりの位置に、包丁が振り下ろされるところだった。
 小腸か大腸、あるいは膀胱か。
 下腹の辺りに血油で汚れた包丁が降ってくる。
 右膝を曲げながら脚を持ち上げ、脚の重さを利用して腰を左向きにひねる。
 膝を曲げると、果汁を絞るように膝裏の刺創から血液が溢れた。
 それは、刺されること前提の防御行動だった。
 急所を刺されなければ、次の手を打てるという、究極の選択。
 包丁が腰骨の右側に突き刺さり、骨を削りながら砕氷船のように進む。
 腰骨に当たって刃先が止まり、その深さのまま尻肉をぶつりと切り裂く。
 右の尻は縦に長く、横には深く切られ、十字創になった。
 包丁は勢いのままに、マットに突き立った。
 悲鳴と泣き声をあげて苦痛に耐え、マックは包丁に全体重をかけて体勢を崩したフェラウの毛髪を掴んだ。
 腰を回転させた勢いにのせ、髪を掴んだ右腕を全力で振り抜く。
 フェラウの顔面が金網に叩き付けられると、ガシャン! と大きな音をたてて、リング全体が激しく揺れた。
 激痛に顔を歪ませながらマックは血まみれの右脚を深く曲げ、自分と相手の間に膝を差し入れると、足裏をフェラウの胸に当てて、勢いよく脚をのばした。
 金網に衝突した顔はバウンドして上を向き、鼻血を噴いていた。
 マックの脚に押し飛ばされたと同時に、首がぐにゃりと曲がって顔が下を向く。
 ゴロンと力無く、ひっくり返されるように仰向けに転がるフェラウ。
 マックは水泳のターンのようにグルンと身体を回して起き上がった。
 フェラウを押すように蹴り飛ばした反動をうまく利用していた。
 ボサボサの髪の毛で顔が半分隠れたフェラウも、すぐにジタバタと暴れて上体を起こす。
 寝坊した朝のようにマットに尻をつけたまま起き上がったフェラウに、先に立ち上がったマックが駆け寄る。
 大きく一歩踏み込んで、フェラウの頭部をサッカーボールのように蹴り飛ばす。
 マックが右脚を振ると、血液が周りじゅうに撒き散らされた。
 包帯の巻かれた右足の甲が、フェラウのちぎれた左耳の下辺りに激突する。
 ガツンと、衝撃が芯まで響く。
 フェラウの首がガクンと、今度は横に折れ曲がり、マックの血液がたっぷり染み込んだ右足の包帯からも、破裂したかのように血液がバシャンと飛び散った。


 ──つづく。
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