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第七十一話『鬼女』

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 様子を見ていたフェラウの怪訝な表情に、警戒心という成分が混入してくる。
 包丁を持った相手に上半身の素肌をさらし、刺突斬撃を防げるほどの頑丈さなどあるはずもない薄手のスウェットを刃物に向けて差し出すマックの奇行を、これはハッタリなのか、はたまた意味があるのかと探っているようでもあった。
 お父さんの言う「盾にする」とは、頑丈な防壁で攻撃を遮断するという意味だけではなく、相手の視線と自分の急所の間に遮蔽物を置いて、隠す、目測させないという意味合いもあった。
 実際に刺されたり切られたりすれば、布は簡単に破れてしまうだろう。
 でも、布を身に着けていたらその斬撃は皮膚や内臓に届くが、遮蔽物を切っても急所には届かない。
 ただの時間稼ぎのハッタリとも言えるが、時間が経過して困るのはフェラウではない。出血量から考えれば、決着を急ぐべきなのはマックのほうなのだ。
 それでもこの僅かな躊躇逡巡が、真剣勝負では大きく影響を与えることもある。
 事実、盾を見せなければ、包丁の間合いの外でフェラウが止まることはなかっただろう。
 迷っているフェラウの様子を、マックはじっと見た。
 フェラウの呼吸が、行くぞ行くぞとタイミングをはかっている。
 吸って、吐いて、吸って、吐いて。
 わかる。来るタイミングが、警戒すべきタイミングがわかる。
 人は力をこめるとき、息を止める。
 なら、フェラウが来るとしたら、吸った後だ。
 マックは冷静にそう判断し、相手と呼吸を合わせた。
 フェラウが吸気の後、息を止めた。
 腰を落とし、顔の影になっている部分に殺意が宿る。
 わかりやすいなと、マックは微かに笑んだ。
 フェラウの目付きには、余裕などない。
 フェラウの呼吸は見るからに、精神的な理由で乱れている。
 人間性を失っているようにも見えたフェラウが、実は緊張しているということも伝わってくる。
 緊張しているならば、必ず恐怖も感じているはずだ。
 殺意とは、視野の狭まった一杯一杯の状態でもある。
 落ち着いてよく見ると、「体当りして刺す」と宣言しているようなあの構えは、いただけないなと相手のミスにも気付く。
 刃物を恐れ、刃物しか見えていなかったときには、そこまで頭が回らなかった。
 普通に考えれば、あれではダメだろと、笑みが自然と膨らむ。
 片手で握っていたときは、包丁の動きに自由度の高さがあった。
 あんな両手構えでは、軌道も使用法も限定され、リーチも縮んでしまう。
 フェラウの体重が、片足にのる。
 屈んだ上体が、さらに前のめりになる。
 一歩目が、蹴り出される。
 マックはスウェットをできるだけ広げ、ひょいと渡すように投げた。
 フェラウの顔を、汗と血液で湿ったスウェットが貼り付くように包む。
 視界が塞がれても、フェラウは止まらない。
 マックがもう動けないことを、知っているからだ。
 まぶたに刻まれた記憶を頼りに、顔にスウェットを被せたまま突進してくる。
 その選択は、間違いではない。
 頭からぶつかり、金網に押え付けるようにして動きを封じて、内臓をえぐるという手順は、動けない相手に対してならたぶん、手探りでもできるだろう。
 いつもと同じやりかたでマックが相手を捌こうとすれば、確実に刺される。
 結果を確信しているからこそ、フェラウはマックの妨害を気にしなかった。
 ただ、記憶映像に自信があったとしても、視界ゼロの目隠し状態で頭から相手に体当たりをするのは、見えている状態と比べればリスクを伴う。
 少なくとも、身体はそう反応してしまう。
 その微かな迷いを与えるのが、マックの狙いだった。
 フェラウのこの刺しかたの恐ろしさは、体当たりで押さえ込むという点にあり、押さえなくても動かない相手に対してなら、リスクを避ける方向へと思考が働くのではないか。
 視界を奪われるということは、そのくらい判断力に影響を与えるのではないか。
 こんなあやふやな可能性への期待くらいしか、マックにできることはのこされていなかった。
 そこにいるのは確実なのだから、そこを刺せばいいだけ。
 さあどうだ、安全なほうを選ぶべきじゃないのか? と。
 駆け足を止めれば簡単にスウェットは顔から剥がせるのに、フェラウがすぐそう反応しなかったことからも、マックが動けないうちに仕留めなければと、無意識に焦っていることがわかる。
 マックのケガは治療せずに治るようなものではないので、焦る必要など全くないのにだ。
 焦るのはよくないが、止まらないのも間違いではない。
 本当に頭から突っ込むことができるなら、止まらないほうが確実なくらいだ。
 だが迷えば動きは鈍り、相手に動く時間、考える時間を与えてしまう。
 少しでも動かれて急所を外せば、また掴まれる。
 髪を、服を、耳を掴まれる。
 掴めば、目を潰す、頸動脈に噛みつくなどの反撃も可能だ。
 耳は実際に一度、マックに掴まれてちぎられている。
 髪を掴まれ、金網に顔面を叩きつけられている。
 失敗すれば、またあの手の反撃を食らうかもしれない。
 動けないといっても立っているのだから、ピクリとも動けないわけではない。
 移動して仕掛けられないだけで、手は動かせるのだから。
 時間を与えてしまえば、なにか対策をされる可能性はある。
 止まって顔を振れば貼り付いたスウェットは落ち、視界は戻るのだ。
 どちらもリスクゼロではないが、見えないまま駆け寄るよりは安全なはずだ。
 今にも勝てそうな相手には、安全策を選びたい。
 その誘惑に、冷静でない者は逆らえない。
 見えないと、どうしても不安が勝ってしまう。
 動けないほどのダメージを負った者が急に、消えかけの蝋燭のように、一瞬だけ活動しだすことだって、じゅうぶんに考えられるし、見えなければ、マックが急に動いても、フェラウにはわからない。
 フェラウは案の定、安全策を選び、マックにぶつかる前に足を止めた。
 下腹に力をこめて、マックのいるほうへと包丁を突き出す。
 そのフェラウの左右両腕の上腕を、なにかが圧迫した。
 マックが、フェラウの上腕を掴んで押さえていた。
 不正解。マックは汗まみれの顔に苦しさのまじる笑みを浮かべた。
 顔を覆われてすぐ、または半歩でも後退してから止まるのは正解。
 視界を覆われても構わず突進し、予定通りに体当りして刺すのも正解。
 中途半端な距離で不安に負けて立ち止まれば、動けないマックでも抵抗できる。
 これが唯一の不正解。
 フェラウの顔に被さったスウェットが、はらりと落ちた。
 愕然とした顔のフェラウの顔が現れる。
 相手に視界が戻るまでのほんの一瞬で、マックは包丁の持ち手を確認した。
 包丁はやはり、右手に握られていた。
 両手握りでも、どちらかの手は添えているだけだと予想したとおりだった。
 上腕が押さえられたことで握りが片手になったのを確認したら、次はその右手を両手で押さえて包丁を奪う。
 フェラウの左上腕から右手を離し、フェラウの右手首を掴む。
 それと同時に体重をかけて引き、右手を引かれたフェラウが抵抗して踏ん張ったスキに、左腕をフェラウの右腕に絡ませる。
 フェラウの肘を固定し、手首を内側に曲げて包丁を手放させる。
 武器奪取の技は教わっていないので、マックには、関節技を応用して武器を落とさせるしか方法がなかった。
 刃が前腕に触れ、細かい切創を何本も引いたが、マックは気にしなかった。
 今さら多少の痛みや出血がなんだと、恐れてもいなかった。
 致命傷を避けつつ、この握った手首をもう少し曲げれば包丁は離れる。
 手の構造上、手首の関節を極められると物を掴んでいられないからだ。
 片手対両手なので、この一瞬だけはフェラウの腕力ではマックのコントロールに逆らえなかった。
 握ったフェラウの手首が、狙いどおりに曲がる。
 包丁が、手から離れる。間際。
 不意に、マックの視界から包丁が消え、真っ暗になった。
 なにが起きたなどと、考える暇もない。
 突然、意識が飛んで暗転した。
 貧血で失神したわけではない。
 フェラウの左拳が、マックの顎を正面から打ち抜いていた。
 フェラウに体重を半分預けることで辛うじて耐えていた左膝がカクンと折れる。
 完全に倒れる前、掴んだ両手が離れる前に、マックの意識が戻った。
 慌てて、もう一度フェラウの右手に両手でしがみつく。
 今度は鳩尾みぞおちに、左拳の硬い一撃がめり込んだ。
 胃液と血液が、マックの渇いた口中からほとばしる。
 まだ、マックはフェラウの右手を離さない。
 次は、右目だった。
 砂の中心に鉄球が詰まった荒布の袋を叩き付けられたような一撃。
 眼球が潰れたかと思うような強烈なその拳撃に、一度は耐えた左膝からまた力が抜ける。
 マックの思考は、自分でも気付かないうちにグチャグチャに乱れていた。
 一瞬とはいえ意識が飛んでいるので、当然だった。
 まだフェラウの右手には、包丁がのこっていた。
 ちゃんと握ってはいなかったが、指先で挟んでいた。
 包丁を奪わなくては。
 包丁を奪う前に手を離したら、今度こそ終わりだ。
 バラバラの思考で、なんとかそれだけを判断する。
 眼球を打ち抜いたのと同じ衝撃が、鼻柱、唇、脇腹を次々と痛打する。
 唇から血液と一緒に硬いものがこぼれた。
 真っ赤に染まった、何本かの前歯だった。
 裂けた唇が腫れて、熱い血液を流している。
 鼻骨が潰れて鼻血で鼻腔が詰まる。
 腹を何度も殴られ、横隔膜が動かなくなる。
 息ができない。
 腹を殴られるたびに肋骨が、顔を殴られるたびに頭蓋骨が歪むのがわかる。
 マックの両手は力を失い、フェラウの右手から離れた。
 手だけでなく全身から力が抜け、脳震盪で意識が朦朧としてくずおれた。
 地面にドスンと両膝をつく。
 フェラウが包丁を振り回し、マックのこめかみに横殴りに叩き付けた。
 遠のく意識に亀裂のような痛みと、噴き出す鮮血の熱を覚える。
 鳩尾に、硬く鋭いものが突き入れられた。
 爪先を反らした突き刺すような前蹴りだった。
 大量に吐き出された胃液を、呼吸器が吸い込むのをマックは止められなかった。
 鼻と口から胃液が溢れ、気管にも大量に入って溺れた。
 視界は濁った暗黒だった。
 真っ暗闇の中心に淡く、マーブル模様のように、白光と血の赤がにじむ。
 なにがなんだか、わからなかった。
 どうしてこうなった? と、考えることもできない。
 伐倒された樹木のように横向きに倒れ、マットの弾力で頭がバウンドする。
 マックが倒れたと同時に、フェラウの追い打ちが降ってきた。
 硬いかかとの骨で、真上からマックの耳の辺りを踏み潰した。
 念入りに、さらにもう一発、ガツンと同じ辺りを踏み潰す。
 フェラウが悲鳴のような狂気の咆哮を発し、頭を踏みつけられるたびにマックはビクンと身体を跳ねさせ、グチャグチャのデコボコにされた顔は血溜まりに沈み、波紋を描いた。


 ──つづく。
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