上 下
16 / 51

第16話『思惑』

しおりを挟む
 自宅に帰って鏡を見ると、俺の首には首を絞めたような黒い手の痕が残っていた。
 俺も『障り』を食らったのか。
 本当に後が無くなったような気分だ。
 俺は鏡を見ながら、自分の首に指を這わせる。
 黒く細い指の痕。もうあの女の手はないはずなのに、まだ指が首に食い込んでいるようなそんな感触が残っていて気持ち悪かった。

 直接あの場所へ行くのは早計だったか。
 とはいえ、収穫はあった。……損害の方が多かったが。
 やはり祐生を『障った』のはあの女だった。
 そして気になることも言っていた。存在が薄まった。どういうことだ。
 弟が生きていたことにも驚いていた。

 もしかしてだけど、十年前に祐生のシミが消えたことに原因があるのか。
 そういえば十年前のときは、どうしてシミが消えたのか。
 確か神社に行ってお祓いを受けたけどシミは消えなかった。でもその後に確か……。

 あの後、どうして消えたんだったか。
 確か、女の子が来て。ベビーカーに近づいて、その後……。
 あの時の出来事の記憶を巡らせると、不意に何故か才明寺の姿が過る。
 才明寺が『常人に見えないもの』に触れ、それが火花を放って消えていく様。
 あの時、一瞬見た女の子はもしかして才明寺と同じことをしたのではないか。
 ここからは推測だが、シミの『呪い』を祓ったことで『呪い』の主であるあの女の力を削ぐ結果になったのではないか。
 だから十年前、あの出来事から公園であの女を見ることはなかったということか?
 それならどうしてまた見えたのか。
 もしかしてこの十年かけて、人間に呪いを振りまき命を吸って力を回復させたとかそういうことなのだろうか。
 それならシミを消し去ることができれば、前回と同様……ぶっちゃけ前回のこととか全く知らなかったが、あの女に一泡吹かせられるのではないのか。
 じゃあ次に考えるのはその方法は、という話になる。

 すぐに思いつくのはやっぱり才明寺の姿だった。

 もしかしたら、才明寺は『常人に見えないもの』だけではなく、それが作り出した『呪い』も祓えるのではないか。
 才明寺なら。
 他力本願な考えだが、それ以外思い付かなかった。

 俺は鏡に映る自分の首を見て溜息をついた。

 ***

 月曜日の朝には首を這っていた黒い指の痕は広がって首を覆っていた。幸いまだ顔や身体には達していない。
 とはいえ確かに身体が怠い。でも、まだ動けない程ではない。
 祐生の頬のシミは片頬を埋める程度の大きさになっていた。
 気のせいかもしれないが、やっぱりシミの侵食速度が遅くなっているような気がするが、それはあの女の力が十年前に比べて薄まっていることが原因なのか。
 推測しかできないが、今朝も倦怠感を訴えながら登校の準備をする祐生に、あまり長い時間は残っていないのも事実であることを理解した。

 学校に登校する頃には倦怠感からか息が上がってしまっていた。
 高校生の俺がこれじゃあ小学生の祐生はどれだけ辛いのだろうか。それを思うと早く何とかしてやりたいという気持ちになる。
 とはいえどうすれば良いか。
 いや、方法があるのはわかっている。才明寺だ。
 何とかアイツを騙くらかして……何とか彼女の協力を得られないか。しかしながら才明寺に『幽霊』だの『障り』だの、その手の話が通じるとは思えない。俺がそういうものを見るという話をしても不審がられるだけだ。実際昔は誰ひとり信じてくれなかった。
 それに。
 俺は土曜日の才明寺の様子を思い出す。
 才明寺はどうにも『常人に見えないもの』に対して思うところがあるらしい。
 存在を否定するその強い怒り。
 とてもじゃないが、俺のこれまでの経緯を話しても信じてもらえるはずはない。

 じゃあどうすれば良いか。
 その手段を考えるのに一時間目から最後まで延々と無駄に時間を消費したが結局良い案は浮かばなかった。

 そもそも俺は才明寺がどれだけやれるかを知らない。
 一体どのくらいの強さのものまでなら祓えてしまうのか。
 いきなり才明寺をあの公園に誘い出してあの女と対峙させたとして、本当に祓えるのか。
 もし無理なら、才明寺をただ危険な目に遭わせるだけじゃないのか。
 そもそも『常人に見えないもの』を祓えても呪いは祓えるのか。
 昔見た女の子はたまたま呪いだけが祓えるタイプのコだったのではないか。
 考える始めると、どんどん疑問が広がる。
 答えのすぐに出ない疑問だけが山のように積もっていき俺の思考が躓く。
 そんな堂々巡りの思考に行き詰まり、また考えては行き詰まりを繰り返している内に放課後になってしまう。
 今日は移動授業も体育もなく、ただ座っているばかりで肉体としては楽なはずだったのに、朝に比べて倦怠感が増している。

 やっぱりコイツのせいか。

 俺は指先で首をなぞる。見ることはできないが、もしかしたらシミが進行しているのかもしれない。
 果たしてゴールデンウィークまで持つだろうか。
 それまでには何とか決着を付けたいが。
 そんなことを考えていると、いつもの恒例となりつつある才明寺の突撃がくる。
 今日は小テストの数が少なく、英語だけだった。
 だけど単語の暗記だけではなく、単語を並び替えて文章を作る問題が幾つもあったから、恐らくそれが駄目だったんだろう。

「ねえ、柵木。今日の小テスト……」
「どうせ、並び替え問題だろ」
「そう。単語は単語帳調べて直したんだけど、文章問題が無理」
「良いよ。今日は時間あるし、分かるまで付き合う」
 正直帰っても色々考え込んでしまうだけだ。何かに別のことに集中している方が楽だというのも事実だった。
 俺がそう言うと才明寺は、終わりのホームルームが終わって即行帰ってしまった細江の席の椅子を引っ張って俺の正面に座る。今日の英語の小テストを机に出すが、一緒に別のテストがあることに気が付く。

「何か別のあるぞ」
 そう言って英語の小テストを捲り、下に重ねられていたテストを見る。
 それは土曜日にやった数学の小テストだ。
 何だ結局直せなかったのか、と思ったが、ちゃんと赤ペンで直しがされている。返された小テストだろうか。
 俺は首を指で摩りながらそれを見ていると才明寺はバツが悪そうにぼやく。

「英語終わったらこっちもお願いしたくって」
「お願いって……出来てるじゃん」
「教えて貰って式は書いたんだけど、どうしてそうなるかって理屈がわからないの。理屈がわからないと、理由がわからないともやもやしない? 私、そういうのはわかってる方が良いの」
「ふーん」
 鉛筆転がして試験を越えてきた女のセリフじゃあないな。
 まあ、あの時はただ合格することに必死だったということか。勉強に取り組む姿勢が改善されていることは素直に喜ばしいと思う。
 俺は相変わらず首が気になってしまい摩りながらも、「じゃあ英語からな」と言って教科書を開く。

 が、その時。

「何、首、どうかしたの?」
 そう言うと才明寺は徐に俺の首に手を伸ばす。そして俺がさっきから何度も摩る辺りを指で撫でたのだ。
 その瞬間、俺の首から線香花火を思わせるような光が散る。

 お前、マジか。

 俺は思わず身体を後ろへ反らして、才明寺が触った辺りを手で押さえる。
 仰け反るように下がる俺に才明寺はそこまでの過剰な反応を想像していなかったようで驚いていた。
 いや、驚きたいのは俺の方だ。

「お前、マジか」
 気が付けば心の声が音になって口から出ていた。
 才明寺は何が『マジ』なのかわからず困惑する。
「えっ、何、えっ、ちょっと触っただけでしょ? 何、何かまずいことしたの?」
 才明寺は焦ったように呟く。
 いやあ、すまん。でも俺は驚いたんだ。自分の首から火花散ったら驚くだろう普通。お前には見えてないことだから何も言えないけれど、俺は滅茶苦茶吃驚したんだよ。
 そう言いたいが、言えるはずもなく俺は仰け反らせていた身体をゆっくりと戻す。
「いや、いきなり触られて驚いただけ。……土曜に体調悪いって言っただろ。そのせいか、今朝から首が腫れてる気がしてさ。風邪かな。それでずっと摩ってただけだよ」
 俺は少し早口で、誤魔化すようにそううそぶく。才明寺の行動に過剰な反応だったかもしれないが、俺は正直自分の首がどうなったか・・・・・・気になってしょうがなかった。
 俺の言葉に才明寺は「あんまり腫れてるように見えないけど、両側? それとも片側?」と俺の首の左右側面を見て首を傾げる。

「ちょっと気になるから鏡で確認してくる」
 そう言いながら席を立つが、その時俺は英語の小テストの並び替え問題を指差す。
「すぐ戻ってくるけど、それまで、ここの日本語訳に一致する文章を教科書から探しておくこと」
「え」
「今日の問題、全部教科書に正解あるから。まずは探して。その後どうしてそういう並びになるか説明するから」
「えっ、えっ」
「じゃあ、始め」
 俺はそう言うと教科書のページを捲りながら焦る才明寺を置いて、トイレに向かった。

 洗面台の前に設置されている鏡を覗き込むと、朝には確かにあった黒いシミが今は跡形もなく消えている。
 まるで黒のタートルネックシャツを制服の下に着ているような見た目から、先週までと変わらない首に戻っている。念のため、首周辺も確認するが、シミは何処にも残っていなかった。
「あの女、マジか……」
 そんなにがっつり才明寺に触られた感じはなかった。ただ指を掠めただけ。
 それなのに、シミが消えている。
 それだけ才明寺の祓う力が強いということか。

 これはもしかしたら、あの女を祓うこともできるのでは……。

 そんな期待を抱かずには居れない。それにもし俺が考えていた『呪いを祓うと呪いの本体の力が削がれる』というのが事実なら、今のが原因であの女の力が削げている可能性もある。
 それならまたあの女が人間に呪いを振り撒き力の回復を図る前に祓うのが最善なのではないか。
 でもそれは俺にどうこうできることではない。
 ……どうしたら。
 俺は悩みつつも教室に戻る。

 教室に戻ると、才明寺は教科書と小テストを交互に見ながら悩んでいる。
 その様子にコイツは人の気も知らず平和だなと羨ましくも感じる。
 俺は席に座ると「何問見つかった?」と聞く。
「全然」
「五問中一問も?」
「一問も。そもそも答えの文章がわからないもの」
「使ってる単語はわかってるからそこから探せるだろ」
「えぇ、無理」
 その答えに、まあ席を立つ前からそうなるだろうな、とは思っていたから別に怒る気にはならなかった。
 しょうがないから、俺はルーズリーフに一問目から順番に答えの文章を書き出していく。そもそもどういう意味の文章で、どういう場面で使われるようなものか分かった方が探し易いと思ったからだ。

 俺が書き出していると、不意に才明寺は俺を窺うように見てくる。
 その視線に気がついて俺は手を止めて「何」と逆に問う。すると自分の主張する視線には気が付いてなかったのか焦りながら口をもごもごと動かす。

 何か言いたいことでもあるのか?
 そう思うが、俺は才明寺から視線を下ろしてまた文章を書き始める。
 だけどその時才明寺は意を決したように口を開く。

「柵木ってさ、何か悩みとかある?」
 その唐突かつ漠然とした話題の振り方に俺は「は?」と聞き返してしまう。
「何か、土曜日から柵木の様子変だなって思って。何か悩みとか? あるのかなーって」
「……」
 もしかして、俺が『幽霊』を信じているか、なんて話をしたからそれを気にしているのか?
 確かにあれは俺らしくない発言に見えるのかもしれない、才明寺にとっては。

 折角才明寺が話題にしたのだから、この機に話すべきなのか。
 そんな考えが頭を過るが、それと同時に『常人に見えないもの』を見えることを口にして嘘つきと言われたことを思い出す。
 人は、自分に見えるものしか、信じない。
 それは才明寺もそうに違いない。
「……言っただろ、土曜日から体調が悪いんだよ俺は。少しでも俺を労わる気持ちがあるならさっさと直しを終わらせてくれ」
 俺は何も言わないことを選んだ。もうあんな後ろ指をさされるような思いは嫌だ。
 才明寺の俺の言葉に「こっちは真面目に頑張ってるの」と言いながら、教科書に視線を落とす。
 少し罪悪感が滲む。

 だけどこれから、もっと、後ろめたい気分になるのだ。これくらい、どうってことはない。
 俺は意を決すると「才明寺」と声をかける。すると才明寺は「何?」と怪訝そうに俺を見る。
「才明寺って花火好きか?」
 そう切り出す俺に、才明寺はただ不思議そうにあんぐりと口を開けて首を傾げた。

 口にした瞬間、才明寺への罪悪感が一気に溢れる。
 だけどそれ以上に祐生の広がる顔のシミを思い出してもう後には引けなかったのだ。
しおりを挟む

処理中です...