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第51話『光の屈折』
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最初に『見た』ものは宙を漂う黒い埃のようなものだった。いつだったかはもう覚えていない。手を伸ばしてその黒い埃を掴むと、手が真っ黒になった。
真っ黒になった手を母親に見せに行っても母親は不思議そうに笑うばかりだった。母親の関心が引けないとわかるとすぐに手を洗ったけれど、手にできた黒いシミは取れることがなかった。
何度も、何度も何度も、手を洗ったのに取れなかった。
それを母親に訴えても、母親は困惑するばかりだし、終いには周囲の大人の気を引きたい『子供の戯言』と一蹴されるようになった。
その頃には、俺はその黒い埃が自分以外には見えないことを悟り出して、俺が触ったものは『良くないもの』であることを理解していた。
俺の手はもう元には戻らないし、きっとこの黒に身体十埋め尽くされて死んでいくのだ、くらいのことを漠然と考えていた。
小学校に上がるまでは。
小学校に入学し一年生の教室で、俺は才明寺稀という女子と隣りの席になった。
黒く真っ直ぐ伸ばした髪が太陽の光に当たりキラキラと輝く可愛い女の子だった。
俺の手の黒いとは全然違う綺麗な黒色が純粋に羨ましかった。
稀は俺を見ると、「よろしくね」と恥ずかしそうに笑って手を差し出す。
彼女が握手を求めているのはすぐにわかったけれど、俺は黒くなった自分の手で握り返す気にはなれずまごついていると、彼女は俺の返事など待たずに俺の手を握った。
握られた瞬間、俺は自分の手が触れた人の肌に僅かだが黒いシミが移るのを思い出した。これはきっと伝染病のようなものなのだ。俺の気持ちとは裏腹にその黒は人の手に染み付く。
あ、この子も。
そう思った瞬間、俺と彼女の手から光が立ち上る。
蛇口から落ちる水が跳ねて雫が舞うようなそんな淡い小さな光が手から溢れる。
初めて見る光にただ魅入られる。
まるで絵本で見た妖精の羽から溢れる光の粉のように綺麗なものだった。
何故自分の手から光が出たのかわからず呆然としている間に稀の手が離れる。稀はふふっと笑う。
え、何。
そう思いながら何が起こったのかただただ驚く。自分の手からどうして光が吹き上がったのか全くわからなかったから。彼女が何か光を発するようなものを手に隠していたのか。でも手を握ったとき、彼女の手の中に何かがあるように思えなかったけれど。困惑しながら手を見ると、俺は更に驚く。ずっと手に貼り付いていた黒いシミが消えていた。
どんなに手を洗っても、ティッシュで拭っても取れなかったシミが何処にもない。手の平にも甲にも黒いシミはない。久しく見た自分のシミのない手に、本当にこれが自分の手なのか困惑する。
何が起こったのかわからないけれど、ただ一つ、何か神秘的なことが起こったことは理解できた。
才明寺稀と出会った神秘的な光景、多分、これが俺の人生が歪んだ瞬間だった。
それから俺はじっと稀を見ている時間が増えていった。
授業中とか休み時間。あの光は一体何なのか、それだけを考えた。
あの握手の後、もう一度彼女の手に触れても再度光が立ち上がることはなかった。
だけど宙を漂うあの黒い埃が稀に触れると、髪に反射する光のようにキラキラと光って消えた。
その内、俺は稀があの黒いものを光に変えているのだと理解した。
自分の手の平のシミが少しずつ領域を広がっていくのを見て、その時は正常な恐怖があった。だけど稀と出会って、彼女が光を振り撒くのを見ている内にその恐怖が薄れていった。
きっとこの黒い埃は危ないものなのだ。
だけど彼女が生み出す光を見たいがために、何度も何度も黒いシミを自分の身体に作って稀に近づいた。
何度も何度も。
あの光は自分だけのものだと思っていた。
はずだったのに。
***
貴水は秀生に門扉の外まで放り出された後、何とか石段を下まで降りた。利部たちが走っていく後ろ姿が見えていたが、追いかける気にならず石段に腰掛けた。
耳の奥ではあの『何か』が廊下を這う不気味な音よりも、秀生の言葉が貼り付いていた。
『真っ当な人間があんなもんに触ろうとすんな』
その言葉を聞いて、あいつには自分が『真っ当』に見えていることがただただ衝撃だった。
少なくとも貴水としては、『真っ当』と言い切れるような生き方はしてなかったと自負している。曰く付きのものを見つけてはそれに触れ、稀に祓わせる。その光が見たいがために、今回のように自分だけではなく他人も幾度となく巻き込んできた。どう考えても真っ当ではないことを理解しているし、見えないヤツらが何を憑けていても本人に自覚がないならそれは無害と何が違うのか、要はこれっぽちも罪悪感はなかった。
彼の存在を堂土に聞かされたのは四月の中旬だった。
「住んでるマンションで昔幽霊騒ぎを起こしたヤツが此処に入学してた」
部活の終わりに堂土がそう切り出した。
四月中はまだ仮入部の期間で、本格的な練習はしていなかった。初心者も居たからルールを説明したり下半身のトレーニングをしたり。ボールを触ることもあるが、まずは部内の空気に慣れてもらう感じだった。
とはいえ、中学校でもバスケ部に所属し大会に出場経験のある堂土は既に上級生に混じって通常の練習をしていた。貴水もそうだった。
でもその日は明らかに堂土の調子は悪かった。これまでは土台のしっかりした一戸建てのようだったが、さながら少し強い風が吹けば倒壊するような荒屋のようだった。
あまりに崩れ切った調子に貴水はその日の練習終わりに堂土に問うた、何か心配事でもあるのか、と。
別に堂土を心配したからの行動ではない。彼の調子の悪さなんてどうでも良いし、自分で立て直せないならそのまま倒壊すれば良いと思うが、『同じ部活の同級生』ならきっと親身になって話を聞いてやるのが正しい行いなのだろうと体裁を取り繕った結果の行動だった。別に堂土に悩みがあったとしてもそんなのどうでもいいことなのだから。
だけど堂土の口から出たのは意外にも貴水にとってこの上なく面白い話だった。
堂土は親身になって話を聞いてくれる同級生に、子供の時から心に沈殿する泥を吐き出した。
アイツが何かしたのだ。だから今もあの場所は呪われているんだ。
そう血の気の引いた顔で吐き出す堂土を他所に貴水の関心は既にその幽霊を見た少年に向いていた。
同じ学年の誰なのか。本当に見えているのか。
もし見えているなら、彼にはどんな風景が見えるのか。
貴水にとって黒い埃が舞うばかりの面白みのない風景だけれど、明確に幽霊の存在を口にしたその少年の視界にはどんなものが写りこんでいるのか。興味があった。
話を聞いてる内に、それが同じクラスの柵木秀生であることがわかった。
あまりに印象に残っていない男子だったが、そういえば才明寺稀が教室でよく話しているのを思い出す。
……才明寺稀もこの学校に来たのは驚いた。
彼女の成績はよく知っていたので別の高校に行くだろうと思っていたから入学式に彼女がいて貴水は心底驚いた。一体どんな奇跡を起こしたのか。
とはいえ、また三年あの美しい光を見ることができる。その事実に貴水は心が躍った。
貴水は彼女が生み出すあの光に魅入られていた。
あれほど美しいものは存在しないとさえ思っていた。誰にも見えない、自分だけの宝物だった。
だけど。
ある日の授業中、黒い埃が教室の空気に漂っているのに気が付いた。いつも見る小さなものではなく、拳くらいの大きさ。でも埃は埃だ。
誰も気に留めやしない。それも当たり前か、そもそも見えやしないのだから。
『知らないものは探さない』
ふわふわと揺れながら不規則に動く黒い埃は、まるでとり憑く標的を品定めするかのように動き続ける。
貴水は視線でその埃を追いかけていたが、不意に視界の端に柵木秀生の顔が目に入った。
彼は落ち着くなく視線を彷徨わせていた。まるで人混みに紛れる殺人鬼でも見つけたような、青褪めた表情。彼の視線の先にあの埃。
やはり彼は『あれ』が見えているのか。あんな埃に彼は何を怯えているのか。
そう思ったが、ふと、考えてしまった。
彼にはあれが別の何かに見えているのではないか。
貴水は今まで明確に人の形をした何かを見たことはなかった。いつも何か黒いモヤのようなものばかり。
堂土の話では、秀生は『幽霊』を見たと言っていた。つまり彼は『幽霊』だと言えるものが見えるのだ。
それはつまり自分と彼とでは、精度が違うのか。
そんなことを思っていると、埃は稀の方へ流れていき、そして彼女にぶつかる。
あ。
気が付いた時には、その埃の塊は水に溶ける綿菓子のように消えていく。小さな光がちりちりと瞬く。
何て綺麗なんだろう。
この世にこれよりも美しいものが存在するのかとさえ考えてしまう。
貴水はうっとりとすぐに消えてしまう光を目に焼き付ける。
……彼も見たのだろうか。
そう思いながら貴水は秀生に再び視線を向ける。
きっと彼も見たはずだ。あの美しい光を。俺はずっと昔から知ってるんだ。
得意気な気分で秀生を見ると、彼の視線はまだ稀に釘付けだった。
まるで、まだ輝き続ける光を見ているかのような。
そんな想像をして、貴水はぞっとした。
もし、彼が自分よりも『良い目』をしているなら、あの光ももっと違うものに見えているのではないか。
自分が見ているよりも更に美しい光を写しているのではないか。
吐き気がこみ上げるような恐ろしい想像だった。
途端に湧き上がる不快感に貴水は冷や汗が噴き出る。
自分が、自分だけが知る美しい光を、彼は自分よりも更に美しい形で見ている。
彼への関心が嫉妬で汚れる。
もう腹の中がぐちゃぐちゃになるような気持ち悪さで堪らなくなった。
自分の中でそのまま『何か』がぐにゃりと曲がる。
最後の良心だったのか良識だったのか。今となってはわからない。
貴水は石段に座り込んだまま、閉ざされた門扉を見上げる。
……彼はどうなっただろうか。まだ生きているのか。
門扉の向こうで秀生がどうなったか多少気になったが、大した心配はなかった。
元々彼に恥をかかせてやろうと嫌がらせ目的で声をかけたのだが、まさかあんなものがいるとは。ビビり倒す彼の姿は、明日には学年でせせら笑われるだろうと思っていたのに、完全に宛が外れた。
貴水は自分の手から腕にかけてべったりと付いている黒いシミを見る。
これまでで一番大きく濃いシミだった。
此処にいる『何か』はこれまで貴水が見つけた『黒いもの』の中で一番強いものだったのだろう。『安居院邸』は名ばかりの心霊スポットではあったが、あんなものが居たことに喜びを覚えたけれど……でももう遭遇することもないのだろう。
貴水がぼんやりと黒くなった手を見ていると、砂利を踏みつけて誰か走ってくる。
顔を上げると稀が、何故か竹刀と片手に走ってくる。
……アイツ、あれで運動部男子に勝つ気で来たのか。
思わず貴水は呆れるが、そうしている間に稀は石段のところまでやってくるが、苦しそうにぜえぜえと重い呼吸を漏らす。
その様子を眺めながら貴水は「意外と早かったな」と呟いた。
真っ黒になった手を母親に見せに行っても母親は不思議そうに笑うばかりだった。母親の関心が引けないとわかるとすぐに手を洗ったけれど、手にできた黒いシミは取れることがなかった。
何度も、何度も何度も、手を洗ったのに取れなかった。
それを母親に訴えても、母親は困惑するばかりだし、終いには周囲の大人の気を引きたい『子供の戯言』と一蹴されるようになった。
その頃には、俺はその黒い埃が自分以外には見えないことを悟り出して、俺が触ったものは『良くないもの』であることを理解していた。
俺の手はもう元には戻らないし、きっとこの黒に身体十埋め尽くされて死んでいくのだ、くらいのことを漠然と考えていた。
小学校に上がるまでは。
小学校に入学し一年生の教室で、俺は才明寺稀という女子と隣りの席になった。
黒く真っ直ぐ伸ばした髪が太陽の光に当たりキラキラと輝く可愛い女の子だった。
俺の手の黒いとは全然違う綺麗な黒色が純粋に羨ましかった。
稀は俺を見ると、「よろしくね」と恥ずかしそうに笑って手を差し出す。
彼女が握手を求めているのはすぐにわかったけれど、俺は黒くなった自分の手で握り返す気にはなれずまごついていると、彼女は俺の返事など待たずに俺の手を握った。
握られた瞬間、俺は自分の手が触れた人の肌に僅かだが黒いシミが移るのを思い出した。これはきっと伝染病のようなものなのだ。俺の気持ちとは裏腹にその黒は人の手に染み付く。
あ、この子も。
そう思った瞬間、俺と彼女の手から光が立ち上る。
蛇口から落ちる水が跳ねて雫が舞うようなそんな淡い小さな光が手から溢れる。
初めて見る光にただ魅入られる。
まるで絵本で見た妖精の羽から溢れる光の粉のように綺麗なものだった。
何故自分の手から光が出たのかわからず呆然としている間に稀の手が離れる。稀はふふっと笑う。
え、何。
そう思いながら何が起こったのかただただ驚く。自分の手からどうして光が吹き上がったのか全くわからなかったから。彼女が何か光を発するようなものを手に隠していたのか。でも手を握ったとき、彼女の手の中に何かがあるように思えなかったけれど。困惑しながら手を見ると、俺は更に驚く。ずっと手に貼り付いていた黒いシミが消えていた。
どんなに手を洗っても、ティッシュで拭っても取れなかったシミが何処にもない。手の平にも甲にも黒いシミはない。久しく見た自分のシミのない手に、本当にこれが自分の手なのか困惑する。
何が起こったのかわからないけれど、ただ一つ、何か神秘的なことが起こったことは理解できた。
才明寺稀と出会った神秘的な光景、多分、これが俺の人生が歪んだ瞬間だった。
それから俺はじっと稀を見ている時間が増えていった。
授業中とか休み時間。あの光は一体何なのか、それだけを考えた。
あの握手の後、もう一度彼女の手に触れても再度光が立ち上がることはなかった。
だけど宙を漂うあの黒い埃が稀に触れると、髪に反射する光のようにキラキラと光って消えた。
その内、俺は稀があの黒いものを光に変えているのだと理解した。
自分の手の平のシミが少しずつ領域を広がっていくのを見て、その時は正常な恐怖があった。だけど稀と出会って、彼女が光を振り撒くのを見ている内にその恐怖が薄れていった。
きっとこの黒い埃は危ないものなのだ。
だけど彼女が生み出す光を見たいがために、何度も何度も黒いシミを自分の身体に作って稀に近づいた。
何度も何度も。
あの光は自分だけのものだと思っていた。
はずだったのに。
***
貴水は秀生に門扉の外まで放り出された後、何とか石段を下まで降りた。利部たちが走っていく後ろ姿が見えていたが、追いかける気にならず石段に腰掛けた。
耳の奥ではあの『何か』が廊下を這う不気味な音よりも、秀生の言葉が貼り付いていた。
『真っ当な人間があんなもんに触ろうとすんな』
その言葉を聞いて、あいつには自分が『真っ当』に見えていることがただただ衝撃だった。
少なくとも貴水としては、『真っ当』と言い切れるような生き方はしてなかったと自負している。曰く付きのものを見つけてはそれに触れ、稀に祓わせる。その光が見たいがために、今回のように自分だけではなく他人も幾度となく巻き込んできた。どう考えても真っ当ではないことを理解しているし、見えないヤツらが何を憑けていても本人に自覚がないならそれは無害と何が違うのか、要はこれっぽちも罪悪感はなかった。
彼の存在を堂土に聞かされたのは四月の中旬だった。
「住んでるマンションで昔幽霊騒ぎを起こしたヤツが此処に入学してた」
部活の終わりに堂土がそう切り出した。
四月中はまだ仮入部の期間で、本格的な練習はしていなかった。初心者も居たからルールを説明したり下半身のトレーニングをしたり。ボールを触ることもあるが、まずは部内の空気に慣れてもらう感じだった。
とはいえ、中学校でもバスケ部に所属し大会に出場経験のある堂土は既に上級生に混じって通常の練習をしていた。貴水もそうだった。
でもその日は明らかに堂土の調子は悪かった。これまでは土台のしっかりした一戸建てのようだったが、さながら少し強い風が吹けば倒壊するような荒屋のようだった。
あまりに崩れ切った調子に貴水はその日の練習終わりに堂土に問うた、何か心配事でもあるのか、と。
別に堂土を心配したからの行動ではない。彼の調子の悪さなんてどうでも良いし、自分で立て直せないならそのまま倒壊すれば良いと思うが、『同じ部活の同級生』ならきっと親身になって話を聞いてやるのが正しい行いなのだろうと体裁を取り繕った結果の行動だった。別に堂土に悩みがあったとしてもそんなのどうでもいいことなのだから。
だけど堂土の口から出たのは意外にも貴水にとってこの上なく面白い話だった。
堂土は親身になって話を聞いてくれる同級生に、子供の時から心に沈殿する泥を吐き出した。
アイツが何かしたのだ。だから今もあの場所は呪われているんだ。
そう血の気の引いた顔で吐き出す堂土を他所に貴水の関心は既にその幽霊を見た少年に向いていた。
同じ学年の誰なのか。本当に見えているのか。
もし見えているなら、彼にはどんな風景が見えるのか。
貴水にとって黒い埃が舞うばかりの面白みのない風景だけれど、明確に幽霊の存在を口にしたその少年の視界にはどんなものが写りこんでいるのか。興味があった。
話を聞いてる内に、それが同じクラスの柵木秀生であることがわかった。
あまりに印象に残っていない男子だったが、そういえば才明寺稀が教室でよく話しているのを思い出す。
……才明寺稀もこの学校に来たのは驚いた。
彼女の成績はよく知っていたので別の高校に行くだろうと思っていたから入学式に彼女がいて貴水は心底驚いた。一体どんな奇跡を起こしたのか。
とはいえ、また三年あの美しい光を見ることができる。その事実に貴水は心が躍った。
貴水は彼女が生み出すあの光に魅入られていた。
あれほど美しいものは存在しないとさえ思っていた。誰にも見えない、自分だけの宝物だった。
だけど。
ある日の授業中、黒い埃が教室の空気に漂っているのに気が付いた。いつも見る小さなものではなく、拳くらいの大きさ。でも埃は埃だ。
誰も気に留めやしない。それも当たり前か、そもそも見えやしないのだから。
『知らないものは探さない』
ふわふわと揺れながら不規則に動く黒い埃は、まるでとり憑く標的を品定めするかのように動き続ける。
貴水は視線でその埃を追いかけていたが、不意に視界の端に柵木秀生の顔が目に入った。
彼は落ち着くなく視線を彷徨わせていた。まるで人混みに紛れる殺人鬼でも見つけたような、青褪めた表情。彼の視線の先にあの埃。
やはり彼は『あれ』が見えているのか。あんな埃に彼は何を怯えているのか。
そう思ったが、ふと、考えてしまった。
彼にはあれが別の何かに見えているのではないか。
貴水は今まで明確に人の形をした何かを見たことはなかった。いつも何か黒いモヤのようなものばかり。
堂土の話では、秀生は『幽霊』を見たと言っていた。つまり彼は『幽霊』だと言えるものが見えるのだ。
それはつまり自分と彼とでは、精度が違うのか。
そんなことを思っていると、埃は稀の方へ流れていき、そして彼女にぶつかる。
あ。
気が付いた時には、その埃の塊は水に溶ける綿菓子のように消えていく。小さな光がちりちりと瞬く。
何て綺麗なんだろう。
この世にこれよりも美しいものが存在するのかとさえ考えてしまう。
貴水はうっとりとすぐに消えてしまう光を目に焼き付ける。
……彼も見たのだろうか。
そう思いながら貴水は秀生に再び視線を向ける。
きっと彼も見たはずだ。あの美しい光を。俺はずっと昔から知ってるんだ。
得意気な気分で秀生を見ると、彼の視線はまだ稀に釘付けだった。
まるで、まだ輝き続ける光を見ているかのような。
そんな想像をして、貴水はぞっとした。
もし、彼が自分よりも『良い目』をしているなら、あの光ももっと違うものに見えているのではないか。
自分が見ているよりも更に美しい光を写しているのではないか。
吐き気がこみ上げるような恐ろしい想像だった。
途端に湧き上がる不快感に貴水は冷や汗が噴き出る。
自分が、自分だけが知る美しい光を、彼は自分よりも更に美しい形で見ている。
彼への関心が嫉妬で汚れる。
もう腹の中がぐちゃぐちゃになるような気持ち悪さで堪らなくなった。
自分の中でそのまま『何か』がぐにゃりと曲がる。
最後の良心だったのか良識だったのか。今となってはわからない。
貴水は石段に座り込んだまま、閉ざされた門扉を見上げる。
……彼はどうなっただろうか。まだ生きているのか。
門扉の向こうで秀生がどうなったか多少気になったが、大した心配はなかった。
元々彼に恥をかかせてやろうと嫌がらせ目的で声をかけたのだが、まさかあんなものがいるとは。ビビり倒す彼の姿は、明日には学年でせせら笑われるだろうと思っていたのに、完全に宛が外れた。
貴水は自分の手から腕にかけてべったりと付いている黒いシミを見る。
これまでで一番大きく濃いシミだった。
此処にいる『何か』はこれまで貴水が見つけた『黒いもの』の中で一番強いものだったのだろう。『安居院邸』は名ばかりの心霊スポットではあったが、あんなものが居たことに喜びを覚えたけれど……でももう遭遇することもないのだろう。
貴水がぼんやりと黒くなった手を見ていると、砂利を踏みつけて誰か走ってくる。
顔を上げると稀が、何故か竹刀と片手に走ってくる。
……アイツ、あれで運動部男子に勝つ気で来たのか。
思わず貴水は呆れるが、そうしている間に稀は石段のところまでやってくるが、苦しそうにぜえぜえと重い呼吸を漏らす。
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