世界の十字路

時雨青葉

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第2章 蝕まれる心

会いたくはないか?

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 ……ああ、また泣いている。


 桜が散る暗闇の中に、実は立っていた。


「ひっく……うっ………」


 微かな泣き声が耳朶じだを叩いて、やたらと脳内で大きく響く。


 泣き声の主は、とても近いのに決して辿り着けないところにたたずみ、悲痛な声と桜の花びらだけをこちらに届けていた。


 桜の大木は、風もないのにさわさわと揺れている。
 雪のような花びらが頭や肩に積もっては、幻の風に流されて落ちていく。


 もう、何度見た景色だろうか。


 実はそれを、何もせずに見つめていた。
 出る涙も、感情を表せるような気力もなかった。


 頭と心が完全に麻痺している。
 そんな気分だ。
 初めの頃は感じていた現実味も、今となっては皆無。


 つらいから。
 苦しいから。


 だからきっと、感じることを拒否して心を守っている。


 ぼんやりとした頭でも、自分の状況はなんとなく理解していた。


 感情も思考も停止しているからか、思い切り夢に翻弄ほんろうされていた時よりはまだ耐えられる。


(だけど……やっぱり、見たくなかった。)


 じわじわと、胸が苦しさを訴えてくる。


 意識がそれを認識しようとしないからか、その苦しさはにぶくしか感じられないけど、苦しいものは苦しいんだ。


(もう、見たくないのに……)


 規則正しく響く鼓動と共に、そんな思いが波のように寄せては返す。


(見たく……なかったな。)




「ならば、見なければいいだろう?」




 急に、自分と少女以外の声が聞こえた。
 驚く間もなく、後ろから誰かに目を塞がれる。


「………」


 目を塞ぐ誰かの手を、振り払おうとは思えなかった。
 何も見えなくなったことに、無意識に安堵してしまったのだ。


 声は、微かに笑みを含んだ声で先を続ける。


「見たくないのなら、見なければいい。ただそれだけだ。お前にならば、できるだろう? 見たくないのなら、目を背ければいい。聞きたくないのなら、耳を固く塞げばいい。この夢の場にいるのが嫌ならば、夢から己を切り離してしまえばいい。夢を壊すという手もあるな。お前なら、そのどれもが可能だろう? なのに何故、お前は見るのだ? 自分を傷つけてまでこの夢に耐えているのは何故だ? こんな夢の一つや二つに、そこまで身を削る価値がどこにある?」


 実は答えない。
 答えられなかった。


 そうだ。
 どうしてだろう。
 そうしてしまえば楽じゃないか。


 あんなに逃げたいと、見たくないと願っていたのに、どうして自分は何もしなかったのだろう。


 夢を壊すことはできなくても、一時的に夢から逃げることはできたはずなのに。


 ―――なのに、どうして?


 気持ちと行動の矛盾についていけない自分の耳に、ふんと小さく鼻を鳴らす音。
 声の主は、あまり興味がなさそうに淡々と告げた。


「それで、償っているつもりか?」
「―――っ!!」


 容赦ない指摘に、息が詰まる。
 声は実の返答を待たない。


「違うと思ったか? そんなことはないと思うぞ。お前がこの夢から逃げないのは、これに耐えることで味わった苦痛に許されているような気持ちになるからだろう? 果たして、こんなものが贖罪しょくざいとなるのか?」


 いたぶるような、そしてどこか責めるような声。
 実はそれを、なかば茫然として聞いていた。


 言われるまで気付かなかった。
 反射的に否定しようとした刹那、言われてみればそうかもしれないとも思う。


 考えれば考えるほど、気持ちと行動が矛盾していた理由がそれしかなくなってしまう。


(ああ、そうだったのか……)


 ぼんやりと、どこか他人事のように納得する。
 すると、途端に急に声の調子が変わった。


 ねっとりと絡みついてくるような、気味の悪い粘性を持った声だ。


 声の主は実の耳元まで唇を寄せると、そんな不気味な声でさもおかしそうにささやいた。


「それでも思うように動けないのなら、これをただの夢と片付けてもいいのかな? ……もっと、別の原因を考えるべきではないか?」


「………?」


 どういう意味かと無言で訊ねた。
 声は楽しげに笑う。


「そう……例えば、この夢のとおり、本当に呼んでいるのかもしれないぞ? 十年前にさらわれた、涼霧すずぎりおうが。」


「―――っ!?」


 瞬間、思考がショートを起こした。


 真っ白になった頭に、ゆっくりと言葉の意味が染み込んでくる。
 ずっと聞こえていた少女の泣き声が、動揺の波に掻き消される。


 心臓が早く脈打ち始め、カラカラに乾いた喉が微かな痛みを訴える。
 それをやわらげようと、ありもしないつばえんしていた。


「どうして、それを……桜理のことを知っている?」


 やっとの思いで言葉をつむぐ。
 すると、ねっとりとした気配を漂わせて声が笑った。


「さあ……どうしてだろうな?」
「―――っ」


 その瞬間、全身が総毛立った。


 今さらながらに、背後の誰かに対してそこはかとない恐怖と得体の知れない不気味さを感じる。


 気付けば、自分の目を塞ぐ手を勢いよく振り払っていた。


 実は素早く後ろを振り返って―――予想外の相手に、言葉を失った。


 大きく見開かれた薄茶色の瞳に、鮮やかな金色が揺れる。


「お前…っ」


 ようやくそれだけを絞り出した実に、声の主はにっこりと笑いかけた。


「久しいな。」


 親しい相手にでも話しかけるような、穏やかで友好的な口調。


 実はすぐに動揺から立ち直ると、彼を静かに睨んだ。


「なんの用だ。こんな、他人の夢にまで干渉してきやがって。」


 実は警戒心を露わに、刺々とげとげしく言い放つ。


 そんな実に、声の主―――レティルは大袈裟に溜め息をついて、わざとらしく肩をすくめた。


「別に、危害を加えに来たのではない。今のところ、私のゲームに付き合ってくれているので満足しているからな。」


 下手すれば命が危うくなるようなゲームを仕掛けてきておいて、よくもまあぬけぬけと言えたものだ。


 実が皮肉を込めてレティルを見据みすえるが、レティルはそんなことなど意に介さずといった様子で続ける。


「そんな顔をするな。今回私が来たのは、お前に力を貸すためだぞ?」


 レティルが意味ありげに口の端を吊り上げる。


「……どういう意味だ。」


 レティルのことなど全く信用していない実は、げん深そうに目を細めるだけだ。


 レティルはただ笑うだけ。
 その無言の笑みが、どうしようもなくしゃくさわった。


 なかなか質問の答えを言わないレティルに実が苛立ちを隠せずになった頃、レティルはようやく口を開いた。




「会いたくはないか? 涼霧桜理に。」



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