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第2章 蟻地獄
そんなの、なおさらに―――
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にわかに凍りついた空気。
突っ込むことも憚られる雰囲気だったが、かといって放置するのも気まずいだけで……
逡巡した結果、拓也は空気を読まずに口を開くことを選択する。
「あの…」
声をかけると、看護師の彼女はびくりと肩を震わせた。
まずいと思ったのか態度を取り繕おうとするが、逆にぎこちなさばかりが目立ってしまう。
「あ……えっと、私……体温計を忘れてしまったみたいです。ちょっと、取りに行ってきますね。」
見え透いた嘘を口にして、彼女は逃げるように病室を去っていった。
残された拓也は、久美子をちらりと一瞥。
彼女は不思議そうにしながらも、穏やかな笑みを崩していなかった。
「………?」
一体、どういうことなのだろうか。
気になりはしたものの、会って間もない自分がいきなりあれこれと踏み込むのもいかがなものか。
「じゃあ、おれもそろそろ帰りますね?」
少し悩んだ末に、拓也は上着を羽織りながら久美子の顔を覗き込んだ。
とりあえず、今日はもう遅い。
あの看護師が戻ってくるかもしれないと考えると、自分は今のうちに退散しておいた方がよさそうだ。
「え? ……あ、ええ。ごめんなさい。ここまで長話をするつもりはなかったのだけれど。」
久美子は、苦みを交えて笑った。
「失礼します。今日は楽しかったです。」
これまた、表面上の社交辞令。
自分としてもこんなに長話をするつもりなんてなかったし、それ以前に、ここまで彼女に近付いてしまうつもりもなかった。
でも、こうなってしまったのは、はっきりと断れなかった自分の責任だ。
それに関して、久美子を責めるつもりはない。
拓也は微笑みを返し、病室の扉へと向かう。
引き戸の取っ手を掴んだところで、ふと久美子に呼び止められた。
「また、お話しましょうね。」
振り向いた視界に入ってきた久美子は、母親のように優しい微笑みを浮かべている。
「………っ」
すぐに返事をすることができなかった。
一瞬沈黙し、そして―――
「はい。また。」
そう言って笑う。
どうしてそう言ってしまったのか、それはよく分からない。
ただ、衝動のままに口走ってしまっていた。
久美子の病室を後にして、拓也はエレベーターに乗ろうと廊下を歩いた。
もう面会時間も終わる頃だ。
廊下を行き来する人は少ない。
等間隔に並ぶ病室の扉を視界の両端に捉えながら、無機質な廊下を進む。
そしてエレベーター前で立ち止まって、視線を上方へ。
二つ並ぶエレベーターは、両方とも一階で止まっている。
五階に来るのには、まだ時間がかかりそうだ。
「ねえ、君。」
ちょうどエレベーターの下行きのボタンを押した時、後ろから声をかけられた。
振り向いた先にはナースステーションがあり、そこから一人の看護師がこちらに手招きしている。
「あ…」
さっきの看護師だ。
拓也が手招きに応えて看護師に近寄ると、彼女はぐっと顔を寄せてきた。
「あのね、連城さんのこと、気にしなくてもいいからね。嫌だと思ったら、ここに来ないようにした方がいいわよ。」
声をひそめて、彼女はそう言ってくる。
「……どういうことですか?」
拓也が聞き返すと、彼女は少し迷った後におずおずと口を開いた。
「こう言うと、反感を買いかねないんだけど…。連城さんって、二年前に息子さんを亡くしてから、精神的にちょっと病んでてね。」
「息子さんを……」
「ええ…。元々病弱な体で、大手術の中ようやく生んだお子さんだったらしくて、愛情もひとしおだったみたい。そんな息子さんを亡くしたのは気の毒だけど、息子さんと同じくらいの子を見つけると、すぐにああやって自分の病室に連れてきちゃって…。同じ入院患者さんの親御さんとかと、何度も揉め事を起してるのよ。」
「………」
「……あ、今言ったことは秘密よ? 本当は、こういう個人的なことはしゃべっちゃいけないんだから。」
「ああ……はい……」
なんと答えていいか分からずに曖昧な反応を示す拓也の後ろで、エレベーターが到着する音が響く。
「あ…。じゃあ、おれはこれで。」
彼女に軽く頭を下げて、拓也は急いでエレベーターに乗り込んだ。
偶然か、エレベーターの中には自分以外の人はいない。
それに気が抜けて、思わず深く息を吐き出す。
(息子さんを亡くしている……か。)
エレベーターの壁に体を預けて、拓也はあらぬ方向を見る。
看護師の言葉と、久美子の顔。
それが脳裏でぐるぐると巡る。
「そんなの……なおさらに見過ごせねぇよ……」
胸を、ちょっとした苦しさが締めつける。
それを感じながら、拓也は静かに目を伏せた。
突っ込むことも憚られる雰囲気だったが、かといって放置するのも気まずいだけで……
逡巡した結果、拓也は空気を読まずに口を開くことを選択する。
「あの…」
声をかけると、看護師の彼女はびくりと肩を震わせた。
まずいと思ったのか態度を取り繕おうとするが、逆にぎこちなさばかりが目立ってしまう。
「あ……えっと、私……体温計を忘れてしまったみたいです。ちょっと、取りに行ってきますね。」
見え透いた嘘を口にして、彼女は逃げるように病室を去っていった。
残された拓也は、久美子をちらりと一瞥。
彼女は不思議そうにしながらも、穏やかな笑みを崩していなかった。
「………?」
一体、どういうことなのだろうか。
気になりはしたものの、会って間もない自分がいきなりあれこれと踏み込むのもいかがなものか。
「じゃあ、おれもそろそろ帰りますね?」
少し悩んだ末に、拓也は上着を羽織りながら久美子の顔を覗き込んだ。
とりあえず、今日はもう遅い。
あの看護師が戻ってくるかもしれないと考えると、自分は今のうちに退散しておいた方がよさそうだ。
「え? ……あ、ええ。ごめんなさい。ここまで長話をするつもりはなかったのだけれど。」
久美子は、苦みを交えて笑った。
「失礼します。今日は楽しかったです。」
これまた、表面上の社交辞令。
自分としてもこんなに長話をするつもりなんてなかったし、それ以前に、ここまで彼女に近付いてしまうつもりもなかった。
でも、こうなってしまったのは、はっきりと断れなかった自分の責任だ。
それに関して、久美子を責めるつもりはない。
拓也は微笑みを返し、病室の扉へと向かう。
引き戸の取っ手を掴んだところで、ふと久美子に呼び止められた。
「また、お話しましょうね。」
振り向いた視界に入ってきた久美子は、母親のように優しい微笑みを浮かべている。
「………っ」
すぐに返事をすることができなかった。
一瞬沈黙し、そして―――
「はい。また。」
そう言って笑う。
どうしてそう言ってしまったのか、それはよく分からない。
ただ、衝動のままに口走ってしまっていた。
久美子の病室を後にして、拓也はエレベーターに乗ろうと廊下を歩いた。
もう面会時間も終わる頃だ。
廊下を行き来する人は少ない。
等間隔に並ぶ病室の扉を視界の両端に捉えながら、無機質な廊下を進む。
そしてエレベーター前で立ち止まって、視線を上方へ。
二つ並ぶエレベーターは、両方とも一階で止まっている。
五階に来るのには、まだ時間がかかりそうだ。
「ねえ、君。」
ちょうどエレベーターの下行きのボタンを押した時、後ろから声をかけられた。
振り向いた先にはナースステーションがあり、そこから一人の看護師がこちらに手招きしている。
「あ…」
さっきの看護師だ。
拓也が手招きに応えて看護師に近寄ると、彼女はぐっと顔を寄せてきた。
「あのね、連城さんのこと、気にしなくてもいいからね。嫌だと思ったら、ここに来ないようにした方がいいわよ。」
声をひそめて、彼女はそう言ってくる。
「……どういうことですか?」
拓也が聞き返すと、彼女は少し迷った後におずおずと口を開いた。
「こう言うと、反感を買いかねないんだけど…。連城さんって、二年前に息子さんを亡くしてから、精神的にちょっと病んでてね。」
「息子さんを……」
「ええ…。元々病弱な体で、大手術の中ようやく生んだお子さんだったらしくて、愛情もひとしおだったみたい。そんな息子さんを亡くしたのは気の毒だけど、息子さんと同じくらいの子を見つけると、すぐにああやって自分の病室に連れてきちゃって…。同じ入院患者さんの親御さんとかと、何度も揉め事を起してるのよ。」
「………」
「……あ、今言ったことは秘密よ? 本当は、こういう個人的なことはしゃべっちゃいけないんだから。」
「ああ……はい……」
なんと答えていいか分からずに曖昧な反応を示す拓也の後ろで、エレベーターが到着する音が響く。
「あ…。じゃあ、おれはこれで。」
彼女に軽く頭を下げて、拓也は急いでエレベーターに乗り込んだ。
偶然か、エレベーターの中には自分以外の人はいない。
それに気が抜けて、思わず深く息を吐き出す。
(息子さんを亡くしている……か。)
エレベーターの壁に体を預けて、拓也はあらぬ方向を見る。
看護師の言葉と、久美子の顔。
それが脳裏でぐるぐると巡る。
「そんなの……なおさらに見過ごせねぇよ……」
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