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第5章 精霊の王
どちらかを選ぶことなんてできない
しおりを挟む―――――ドンッ
イルシュエーレが消えてから間もなく、立っていられなくなるような揺れがその場を襲った。
緊張の面持ちでガラスの向こうを見つめていた実は、その衝撃でバランスを崩してしまう。
ベッドの上で遊んでいた精霊たちも、一瞬にして笑い声を引っ込めた。
「な……なに…?」
膝をついて起き上がる実の服を、誰かが小さく引っ張る。
下を見ると、何人かの精霊が自分の周りに集まっていた。
皆一様に怯えたような顔で、遥か上の湖面を仰いでいる。
「……どうしたの?」
問いかけると、精霊の一人が震える唇を薄く開いた。
「イルシュエーレ様が……怒ってるの。」
「怒ってる?」
聞き返した実に、精霊はこくりと頷いた。
「うん。すごく怒ってる。あんなに怒ってるイルシュエーレ様は久しぶり。いつもとても優しいから、怒るとすっごく怖い。」
イルシュエーレが怒るような理由。
そんなもの、考える限り一つしかない。
実の顔から、さっと血の気が引いていった。
「まさか……拓也たちが…?」
人間嫌いのイルシュエーレだ。
人間がこの聖域に足を踏み入れることですら、いい気分はしないだろう。
そして、その相手が自分を助けるために来た拓也たちだったとしたら―――
「ねえ、みんなは自由に外に出られるんだよね?」
その問いに答えるように、精霊は一つ首を縦に振る。
「だったら、俺も一緒に外に連れていってくれない?」
実の言葉に、精霊たちが驚愕する。
「………っ!? そんなこと―――」
「無理は分かってる。でも、お願い。」
「むっ……無理だよ!!」
「―――……」
必死に首を振る精霊を無言で見下ろして、実はゆっくりと立ち上がった。
「………っ!? ―――だめ!!」
急に黙り込んだ実から、何かよからぬものを感じたのだろう。
精霊たちが揃って実にしがみつき、実がその先に進むのを止めた。
「実、何する気!?」
「頼んでだめなら、自力で行く。」
「行っちゃだめだよ!」
「ごめん。でも、もう限界。」
「違うの!!」
精霊たちも必死なのか、実が煩わしそうに腕を振るのにもかかわらず、意地で実にしがみつく。
その場にいた精霊たちは、総動員で実に訴えた。
「この湖はイルシュエーレ様が自分の体を縛りつけてある場所だから、イルシュエーレ様の感情にものすごく影響されるの!」
「イルシュエーレ様が怒ってる今は、湖の水が全てに害をなすようになってるんだよ! 私たちだって、水に入れないくらいなの!」
「行ったら、実が危ないよぉ!」
「じゃあ、どうしろって言うんだ!!」
精霊たちに負けない勢いで、実は叫ぶ。
「ここで、事が収まるまで指をくわえて待ってろって言うの!? そんなこと、できるわけないじゃん! もしかしたら……俺の大事な人たちが、危ないかもしれないのに…っ」
やりきれない思いが胸につまって、実は衝動的に髪を掻き回した。
「イルシュもみんなも大事だよ。ここにいるのも好きだよ。だけど……向こうにも、大事なものがあるんだ。どっちかを選ぶことはできないし、どっちかを見捨てることもできないんだよ! 少しくらいの危険なら、いくらでも飛び込んでやる。俺は……自分の大事なものを守りたいんだ!!」
そう。
どちらかを選ぶなんてことはできない。
イルシュエーレたちも拓也たちも、自分にとっては大切で仕方ない人たち。
優劣なんて、つけられるわけがない。
どちらも大事だからどちらにも傷ついてほしくないし、危険な目に遭いそうならば全力で助けたい。
自分だけが守られて何もしないなんて、他でもない自分自身が許せない。
「実…」
精霊たちは困惑して、互いに顔を見合わせる。
そんな中―――
「実。」
精霊たちとは違う、少年のように高めの声が実を呼んだ。
「実、こっち。」
実を呼んだシャールルは、実と目が合うとその場から飛び跳ねて部屋を出ていった。
時々こちらの様子を見ながら進むシャールルに、とにかくついていくことにする。
彼が向かったのは、噴水があるあの部屋だ。
噴水の前でこちらを振り返り、シャールルはこう言う。
「実、僕が手伝うよ。一緒に行こう。」
「え?」
「シャールル!!」
一緒についてきた精霊たちが、非難めいた声をあげる。
だが、シャールルは彼女たちに向けて大きく首を振った。
「僕は、実のために動きたいんだ。実が嫌がることや傷つくことはしたくない。実が危険を承知で行くって言うなら、僕だって一緒に危険に飛び込むよ。それが僕の答えだ。」
有無を言わさないシャールルの口振りに、精霊たちは反論の言葉が出ないようだった。
何も言えない状況の中で、視線だけが未だに反対だと告げている。
しかし、シャールルはそれをまるで相手にしない。
「シャールル……」
どこか驚いた様子の実。
そんな実を見て、シャールルは小さく笑い声を漏らした。
「きっと大丈夫だよ。イルシュエーレ様も、本当は迷ってたんだ。実の大事な人を傷つけなんかしないよ。だから、一緒に見に行こう。でも……」
天井の水面を見上げるシャールル。
「僕の力も、この場の長であるイルシュエーレ様の力にどれだけ耐えられるか分からない。完璧に実を守ることは無理だと思う。申し訳ないけど……実も、結構苦しむことになると思うんだ。」
「そんなこと、気にしないでよ。」
そう言って、実はシャールルの前でしゃがむ。
「手伝ってくれるだけで十分だよ。ありがとう。」
「当たり前だよ。僕はずっと実と暮らしてて、実が、人間も人間じゃないものも平等に信じようとしてたってことを知ってるもん。じゃ、行こうか。」
「うん。」
シャールルを抱き抱えて立ち上がると、周囲に水が渦巻き始めた。
体が床から浮かび上がり、シャールルと共に勢いよく水の中に飛び込む。
「う……わ……」
実は顔を歪める。
シャールルの魔力が自分を守ってくれているのが分かる。
それでも、水に触れた全身がビリビリと痺れてくる。
「実、大丈夫?」
シャールルが気遣わしげに実を見上げる。
だが、そんなシャールルも苦しいのを我慢しているようだった。
実は歯を食い縛り、意識を集中させる。
シャールルの魔力の周りに自分の魔力を集めて、少しでも自分とシャールルにかかる負荷を弱める。
「大丈夫……急ごう。」
シャールルの力を借りて、実はひたすらに上を目指す。
進めば進むほどに、体の痺れが増していく。
きっと、少しずつイルシュエーレに近付いている証拠なのだろう。
実は表情を険しくしながらも、遥か向こうに見える湖面を目指した。
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