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虎猫姫は冷徹皇帝と琥珀に惑う
虎猫姫は冷徹皇帝と琥珀に惑う-1
序章
月魄国の西方。
金桂花の香りに包まれた月魄国皇都、天満よりも乾いた風が吹く琥国。
涼やかな銀桂花の香りに満たされたその王都では、月祭が執り行われていた。
人々は、賑やかな音楽と銀桂花酒に酔い、煌々と輝く満月を見上げ微笑む。女神がおわす不変の月に感謝し、その加護を持つ王と我らに益々の祝福を! と、祈り乾杯する。杯を掲げる先は、もちろん月と王宮だ。
高台にある白亜の王宮は、月光を浴び淡い琥珀色に染まっている。そんな王宮の奥。厳かな儀式を終え静けさに包まれた一角に、快活な笑い声が響いた。
「ははは! 王女の姿が見えぬと思ったら、月魄国へ向かっていたか」
そういえば、そんな話をしていたか。側近からの報告に、銀桂花酒を傾け笑うのは琥王。今は月魄国にいる、黒虎の琥珀と、金虎の王女、琥珀の父親だ。二人と瞳の色は違うが、その鋭い目元がよく似ている。
「月祭に合わせ乗り込むとは、琥珀も考えたものだ」
「押し掛ける形で入国されたようですが……よろしいのですか? 国王陛下。王女殿下は王太子ですよ? 後宮へ滞在するとの報せもございます。滞在では済まず、このまま後宮へ入ってしまわれたら……」
「そのつもりであろう。白虎を手に入れるため、どのような策を使おうと問題はない」
「しかし」
尚も言葉を続けようとする側近に、王は眉をひそめた。すると長年仕えている側近は、すっと口を噤んだ。これ以上の言葉を重ねるは悪手。それを理解し、言葉を呑み込むことができるからこそ、男は長年の側近としてここにいる。
「私はまだ玉座を譲るつもりなどない。琥珀が次代を担うまでには時がある。好きにすればいい」
琥国は女も王になれる国だ。だが、女王よりも男王のほうが歓迎される。虎という、猛々しい存在を崇める国風において、より力強い男王が好まれるのは道理。
どんなに雄々しくあろうとも、王太子・琥珀は王女。唯一に近い欠点である、『女』を利点に変え後宮に入り込むのはいい策だ。琥王はそう思う。内心、男の王太子を立てたいと思っている臣下に対しても、自身を認めさせるいい方法だ。
神託の白虎姫を唆し攫うにしても、接触できる場所は後宮のみ。そして、白虎を手に入れるためのもう一つの方法も、後宮の女でなければ取れないもの。
「深く入り込まねば好機は得られぬ。後宮に入り込みすぎた結果、帰国しなかったのなら、あの琥珀はその程度だったというだけのことよ。なに、代わりの琥珀はそのうちまた得られる」
我が後宮には、虎の血を引く妃が幾人もおる。だから心配するなと笑う王に、無言で控える側近は「はっ」と答えて頭を下げた。そして相変わらずな王の冷たい言葉に、ひそかに眉を寄せ思う。
なぜ王は、大切な『琥珀』であるのに、我が子として可愛がることも、金虎として敬うこともしないのかと。もちろん、そんな疑問を口にすることは決してないのだが。
「琥珀がうまく立ち回ったとして、白虎の子が生まれるまで早くとも一年か」
月魄国の皇家も古くは人虎とはいえ、運よく白虎が生まれるとは限らない。白虎は何代かに一人、生まれるか生まれないか。よほど運がよくても、数年かかって授かるかどうかの希少な宝物だ。
「白虎を得るまで数年、琥珀が月華後宮に居つけたとしたら、それは皇帝の寵愛を勝ち取ったということ。そうなってしまえば、戻らぬ可能性のほうが高そうだな」
琥王はボソリと呟く。
脳裏に浮かぶのは、離宮で預かっている月華後宮の前の主のことだ。彼の後宮には妃が溢れていたという。
そんな先代皇帝を退位させ、即位した現皇帝の後宮に妃は少ないと聞く。だが噂はあてにならない。冷徹との評判がありながら、実際は父の命を取れなかった情に脆い男だ。先代と同じく、望まぬが拒みもしない性質かもしれない。
実際、押し掛けられ有耶無耶のうちに琥珀を後宮へ迎え入れているのだ。とはいえ、現在の寵姫、神託の白虎姫――朔月妃・凛花のことも簡単に手放すとは思えない。
「……まあいい。琥珀は一人ではない」
黒虎の琥珀にも、白虎を手に入れろと密命を下してある。
暗く月のない夜に変化できる黒虎なら、闇に紛れて後宮へ忍び込み、白虎姫を攫うこともできるだろう。白虎も金虎も、月がなければただの女でしかないのだから。
「先に白虎を持ち帰った琥珀を褒めてやろう」
王はそんな思い付きを口にする。二人の琥珀と会話をしたことなど、ほとんどないというのに。
二人の琥珀は、琥国にとって久しぶりの『琥珀』だ。
四代前が金虎の女王、三代前が金虎の王と、二代続けて『琥珀』の王だったが、その後三代は人の王が続いている。琥珀たちの父王も人だ。
今の琥国に、『琥珀』の王を知っている者は少ない。だからだろうか。古い伝統を守り、外国との接触を限定している琥国でも、価値観や考え方に変化が起きていた。
目の前にいた『尊い人虎』の存在がなくなったことにより、徐々に『人虎』はお伽噺の中の存在へ変わってしまった。
三代前までの時代においても、実際に人が虎に変化する場面を見た者は多くない。
だが、記録の中にはたしかに虎がいたし、小さな古い国の中では、『人虎の王』が存在することは当たり前だった。王宮衛士の日誌にも、『城壁に昇る虎の影を見た』などの記述が残っている。
しかし、人虎がいるのが当然という前提が、三代続けて人の王が立ったことにより変わったのだ。
人虎の王に仕えた古参は、人虎だけが持つ威圧感や、月の加護としか思えない奇跡を知っている。王の気配があると、常に背筋が伸びる気持ちだったとか。
だが、それを知らない者たちは、王が人でも困ったことはないし、そんな威圧感なんてものがない王の王宮は快適だ。仕事がやりやすい。
眼光鋭く臣下を威圧し、月の加護をもって守護をし、国を導いてきた猛虎がいなくなった王宮は、箍が外れたとまではいかずとも、確実に箍が緩んだ。
昔も賄賂や派閥争いといった、足の引っ張り合いがなかったとは言わない。
だが、王の威光が弱ったことにより、国ではなく利己を優先したり、追求したりする者が増えた。只人らしいこの現象は、いつか玉座まで蝕んでしまうのでは。そんなことを危惧する古参の者もいる中、王宮に生まれたのが二人の琥珀だ。
二人が育てられた場所は、王宮内ではなく離宮。どちらも特別だったからだ。
兄王子の琥珀は、金虎の特徴である琥珀色の瞳を持っていたことから、まだ変化できない赤子の時点で『琥珀』と名付けられた。すぐに優秀な乳母や侍従が選任され、『琥珀』専用の離宮、『琥珀宮』の主となる。王宮にいる父母に会えるのも、季節ごとの儀式でのみと決められた。
琥珀宮は立派な『琥珀』になるための場所である。
幼いころから厳しい教育を施し、詰め込み、『琥珀』の型にはめていく。
乳母も侍従も教師も、『琥珀』を育てた者が将来得られるだろう利と栄誉のため、琥珀に飴を与えることも忘れなかった。
琥珀、五歳の誕生日。次は琥珀色の瞳をした王女が生まれたと、琥珀宮に知らせが届いた。琥珀は妹に会いたい! と心と脚を逸らせ、初めて変化した姿が――黒虎だった。
王宮は大騒ぎとなり、そして『琥珀』の名も、琥珀宮も妹王女のものになった。
琥珀宮を出された琥珀は、名を闇夜に変えられた。闇夜とは月のない、暗い夜のこと。月の女神を奉じる琥国では、月から見捨てられたような存在である黒虎は蔑みの対象だ。
闇夜となった琥珀には、古びた屋敷が与えられた。ここに移るまでの数日間の扱いは、たった五歳の琥珀――闇夜でも『自分は忌み嫌われる存在だ』と理解するには十分だった。
乳母も侍従も教師も、使用人もいない。たまに訪れる王宮の下働きが最低限の世話をしていくだけ。突然変わった境遇に、闇夜は恐れ戸惑い悲しんだ。
けれど、いいこともあった。闇夜になったことで自由を手に入れたのだ。
毎日決められた時刻に起こされ、決められた衣装を身に着け、食事をし、いくつもの授業を受ける。『琥珀』らしくと、好みや考え方、笑い方まで強制され、何一つ選べず与えられるだけの生活とは大違い。
自分の足で屋敷を抜け出して、見たいものを見て、学びたいことを学び、旅人から外国の話を聞く。友人もできた。黒虎であることや出自は秘密にしていたが。
それに、たまに闇夜に同情してくれる王宮の人間もいた。月官もいた。
そのおかげで、成人した時に彫った背中の刺青でさえ、黒虎ではなく、憧れの白虎にも見えるものを選べた。
ただ、名前だけは選べなかったが。
一方、新たに琥珀の名を授けられた王女は、今度こそ『琥珀』であるはずと、より厳しい教育が与えられた。そして期待通り、王女は金虎に変化する。
『琥珀』として厳しいながらも大切に、持ち上げられ育った結果、王女は自信に満ち溢れ、高い矜持を持つ琥珀になった。我儘も琥珀ならばと許され、そのうち傲慢にも見える言動に繋がっていく。
だが、その傲慢ささえも力強い虎の性だと歓迎された。
それに琥珀王女には、『琥珀』の型にはめた教育がなされているので、その我儘も傲慢さも所詮『琥珀』の範囲内でしかない。
本当の意味で我を通すような自由はなく、選択肢もない。
王女は気付かぬうちに、『琥珀』という檻の中の金虎になっていたのだ。
同じ人虎の兄妹でありながら、二人の琥珀は正反対の境遇で育った。一方には与えられ、一方には与えられないものばかり。
しかし、等しく与えられなかったものがあった。愛情だ。
二人にとって、両親は親ではなく国王陛下と王妃殿下。一番身近な乳母でさえ、臣下として仕えていたくらい。そのくらい、『琥珀』とは特別で、既にお伽噺になりつつあった人虎は、子供であっても畏怖の対象だった。
琥国の伝統では、人虎は人よりも尊いもの。そのことは、王を複雑な心持ちにさせた。跡継ぎである琥珀は大切だし、琥珀の親であることは自らが座る王座をより強固にしてくれた。
だが、琥珀が成長していくにつれ、離宮から妙な気配を感じるようになる。追い立てられるような焦燥感というか、畏れのような不思議な感覚だ。
そのうちに、あれは慈しむ我が子というよりも、王座を争う者なのでは? と思ったのだ。だから王も王妃も、必要以上に琥珀にかかわらなかった。
そして今。二人の琥珀が不在の王宮で、琥王は月を見上げ呟く。
「人虎だけが王の資格を持つ時代は、とっくに終わっているのだ」
王は薄紫色の瞳を細め、銀桂花酒を飲み干した。
第一章 月祭と二人の虎の姫
月祭の満月が照らす中、凛花は嫣然と微笑む赤い唇を見つめた。
(琥国の王太子が、まさか王女だったなんて……!)
褐色の肌に、たっぷりとした波打つ金の髪。意思の強そうな琥珀色の瞳。彼女が月に変化の願いをかけたなら、きっと美しく立派な金虎になる。王太子――琥珀王女には、そう思わせるような迫力と華があった。
それに、これは凛花と琥珀王女の二人だけが感じていることだろうが、お互いに、お互いが虎であると確信していた。
どういうわけか、かち合った視線を外せないのだ。満月である今夜は、虎の獣性が高まっている。虎同士、目を逸らせたほうが負けだと本能で理解しているのだろう。凛花はせり上がってくる唸り声を喉の奥に押し込め、代わりに小さな笑い声を溢した。
(ああ。彼女も、私も、たしかに虎だ)
満月の夜に人虎と出会うと、こんなふうに感じるとは。黒虎の琥珀とは、満月の夜に相対したことはないので知らなかった。向かい側で同じく獰猛な笑みを浮かべる王女も、きっと似たようなことを思っているのだろう。
一体どうやって視線を外せばいいのか。見つめ合う二人の顔に苦笑が滲む。
(周囲に睨み合っていると思われるのもまずいし……どうしよう?)
しかし、凛花に注がれる視線は感じない。それもそのはず、王女から視線を外せないのは凛花だけではないようだった。
王太子という身分によるものか、内に秘めた猛獣金虎のものかは分からない。だが今、この場にいる誰もが彼女を見つめずにはいられない。
あれは誰だ、琥国の姫では? 月妃に迎えるのか? 隣り合う者たちの間でそんな囁き声が交わされ、厳かであるはずの月祭会場にざわめきが広がっていく。
そんな時、ドーン、ドーン、と低い太鼓の音が響いた。皆はハッとし口を閉じて、視線を王女から、儀式の舞台へ上がる皇帝・胡紫曄へと向けた。
月華宮内で執り行われる月祭の儀式は短時間で終了する。月祭の本番はこの後、神月殿で行われる皇帝と月妃による儀式だからだ。
もう一度、太鼓がドーンと鳴り紫曄が退場する。次に月妃たちが、序列の高い順に退出していく。今回、最上位の弦月妃は謹慎中なので、まずは暁月妃の赫朱歌が立ち上がり、薄月妃の陸霜珠が続く。最後が朔月妃の虞凛花だ。
上位の二妃が侍女たちを連れ退場していく中、席で順番を待つ凛花には、忍びやかな視線が注がれていた。琥国の王太子、琥珀王女のせいだ。
もし王女が後宮に入ったなら、その位は今いる月妃の中で最上位となるはず。
では、寵姫とはいえ、最下位の月妃である朔月妃の位はどうなるのか。寵愛を受け続けるのか、それとも寵愛は薄れてしまうのか。いや、既に薄れたから、この場に王女がいるのではないか? 視線を向ける者たちは、そんな会話も交わしている。
(はぁ。ヒソヒソ話がよく聞こえてしまうわ)
凛花はそんなことを思い、扇で口元を隠し小さく溜息を吐く。
今夜は満月。しかも一年で一番美しいとされる月祭の満月だ。
どんなに密やかな声でも、距離が離れていても、虎の能力が冴えている今夜は、凛花の耳まで届いてしまう。
(ということは、彼女の耳にも届いているのよね)
まだ席に座ったままの王女をそっと窺うと、その周囲には妙な間ができていた。
参列者は、月妃以外は男性ばかり。誰も彼も挨拶をしたそうにしているが、女性ということで遠慮しているようだ。
(……それだけじゃなくて、王女から感じる威圧感というか、近付き難さを感じているのかも)
これは金虎特有のものなのだろうか。それとも、あの華々しい王女だから感じるものなのか。人の姿でいるのに、その背に大きな金虎が見えるようだ。
同じ虎でも、黒虎の琥珀には感じなかった艶やかな威圧感だ。兄妹なのにこうも雰囲気が違うものかと凛花は思う。
(そういえば、琥珀からは『いい匂い』がしたけど、あれって琥国特有の香だったりして?)
ふと思い出し、凛花は嗅覚を研ぎ澄まして王女の香りを探ってみる。この距離と人が大勢いる場で嗅ぎ分けられるのは満月のおかげだ。年に一度の名月の夜は、変化を抑えるのに気力を使うが、高まっている虎の能力を利用する分には有り難い。
(あの『いい匂い』には、心地よいほのかな甘さを感じた。男性である琥珀にしては甘い香りだったけど……あれ? あの香り……しないな)
王女の香は随分控えめらしい。今夜の凛花でも、嗅ぎ分けるのは困難なくらいだ。
(独特な香りだったから、『琥珀』専用の香かと思ったりもしたんだけど……違ったのね)
どうやら兄妹でも、香の好みは随分違うよう。むしろ香にかんしては、王女の好みは凛花と似ているのかもしれない。
あまり強い香りは虎の嗅覚にはきついので、凛花も基本的に控えめにしている。月が丸い時期は特に控えることもあるのだ。
(こんなところに虎同士の共通点があったのね)
意図せず妙なところで親近感を持ってしまった。凛花はクスリと笑い、退場していく王女の姿を見送った。
そのうちに、順番がきて凛花も退出していく。耳に届く声はもうほとんどない。向かい側の席は、王女だけでなく大半の者が退出した後だ。
「凛花さま……」
麗麗の声が固い。言いたいことは分かっていると、凛花は隣に向かって頷く。
「主上がおっしゃっていた失敗とは、あの艶やかな方――琥国の王太子殿下のことね」
麗麗は眉をきゅっと寄せ、心配そうな顔で凛花を覗き込む。麗麗には、周囲で囁かれていた声は聞こえていない。だが、月と皇帝を称える月祭に、他国の王女が臨席していたのだ。元月官衛士で、まだ後宮の事情に疎い麗麗でも、周囲がどう感じたかは察せられる。
今夜は、同じく月を尊ぶ琥国でも月祭のはず。であるのに、王女が月魄国皇宮の月祭に出席した意味は、紫曄を皇帝として称えるということ。すなわち、後宮に入るという意味ではないか? 麗麗もそう解釈したのだろう。
だからこうして凛花を気遣い、後宮に着くまで周囲の目から守ろうと、大きな背を活かし凛花を隠してくれている。
「ありがとう、麗麗。大丈夫よ」
そして後宮の門をくぐると、先に退出した朱歌と霜珠がそこに待っていた。
「凛花さま。来たか」
「凛花さま!」
霜珠は凛花に駆け寄ると、そっと手を握って言った。
「凛花さま。あの方がいらっしゃった席は月妃の席ではありません。ただの来賓ですわ」
そうだとしても、ただの来賓にはならない。あれがどんな意味になるか霜珠も理解している。だが凛花が気落ちしないようにと、霜珠はいつもの柔らかい笑顔で微笑む。
「凛花さま。あなたはきっと、主上から何か聞いていると思うが……まったく。まさか佳月宮の客人が、あの派手な王女だとは思わなかったよ」
朱歌はニッと笑う。
昨夜、紫曄は『予定外の客人が訪れた』と言い、朱歌の暁月宮から朔月宮へと衛士を派遣させていた。
(なるほど。客人とは王太子――琥珀王女のことだったのね)
しかし宿泊先が佳月宮とは、紫曄が王女を月妃に迎えるのでは? という予想が濃厚になってしまう。
「あら。やはりそうでしたの? 急な客人を招くなら、佳月宮しかないと思っておりましたけど……。凛花さまがありながら、主上は何を考えておいでなのでしょう」
霜珠は軽く眉をひそめる。佳月宮に格上の国の王女を入れたなら、それはもう望月妃にするつもりだと言っているようなものだ。
「あの、主上も昨晩の時点では、琥国の王太子が王女であるとはご存じなかったようです。月祭の潔斎などで忙しかったでしょう? その……予想外だったと、先ほど私に話してくださいました」
本当は「失敗した」と言っていたのだが、言い回しは変えておいた。皇帝の失敗なんて、あまり聞かせないほうがいい。
「まあ。主上が凛花さまに嘘を吐くとは思えませんし、それなら、やはりあの方はお客人ですね」
「フフッ。紫曄さま、琥国にまんまとやられたというわけか。しかし、ただの客人だとしても月妃としては気になるね。私もちょっと探りを入れてみようかな」
月妃としてなんて全く気になっていないだろうに、朱歌はそう言い凛花の心に寄り添ってみせてくれる。
二人は月妃ではあるが、皇帝の寵愛を望み後宮に入ったわけではない。
朱歌は幼馴染みであり、女嫌いと言われていた紫曄に頼まれ、人数合わせとして入ったのみ。霜珠は家族の勘違いによる強い後押しで入ったが、紫曄のことは好みではない。それから霜珠本人はまだ気付いていないが、紫曄の侍従である、兎杜少年から淡い恋心を向けられている。
(ああ、月妃の仲間がこの二人でよかった)
凛花は微笑む。霜珠の、友人のような心遣いが嬉しい。朱歌の、姉のような優しさが心強い。
「霜珠さま。朱歌さまも……」
ホッ……と肩の力が抜けたのが分かった。気付かぬうちに、凛花も不安を感じていたのかもしれない。紫曄から事前に王太子の臨席を聞いていたし、紫曄を信じるとも言った。たしかに信じているが、凛花も王女も人虎だ。
初めて対峙した虎。煌びやかな雰囲気を持つ王女に、凛花の中にいる白虎が少々圧倒されてしまったようだ。
「お二人とも、ありがとうございます。お心遣いのお礼に、お二人をお茶会にお招きしてもよろしいでしょうか。故郷の雲蛍州から季節のお茶が届いているんです」
「ふふ。楽しみにしております、凛花さま」
「いいね。では私も何か楽しめるものを用意しよう」
後宮はしばらく落ち着かないだろう。
(だって『琥国の王太子』が佳月宮に滞在しているんだもの。王太子が王女だということも皆に知れてしまったし……)
紫曄ったら、本当にこれはちょっと面倒な失敗だわ。凛花は少し軽くなった心の中で、そう呟く。
しかし考えてみれば、後宮に入ってからは面倒事が日常だった気もする。そう思えば今さら慌てることはない。
『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』
凛花はその神託のおかげで後宮に入った。
国の端にある雲蛍州で『薬草姫』と呼ばれ、のびのび薬草畑の世話をしていたというのに。皇帝にも後宮にも興味がないのにだ。だが、月華宮の大書庫には興味があった。
月夜に白虎へ変わるという、長年悩んできた自らの体質の謎を解きたい。国一番の書庫になら、何か手掛かりがあるかもしれない。
そう思い、前向きな気持ちで後宮に入ったはいいが、早々に皇帝紫曄に虎化のことを知られ、逆に凛花も不眠という紫曄の秘密を知ってしまった。
お互いの秘密を守るための取り引きが、凛花の『虎猫の抱き枕』だった。紫曄の眠れぬ夜を、ふわふわの虎の体で癒すうちに、熱を分け合うごとに、二人の気持ちも変わっていく。皇帝と月妃ではなく、紫曄と凛花として、共に在りたいと思うようになっていった。
いつか虎化しない体になったら、凛花を望月妃にと望む紫曄に応えたい。そんな気持ちで、寵姫としての責任を果たした星祭。その最中には弦月妃の妨害や、くせ者の月官薬師、碧との出会い。さらには琥国の黒虎、琥珀にも出会い、凛花は人虎の来歴を知った。
そして、見つけた虎化の謎を一つずつ解きながら、二人で愛しさに酔いしれ迎えた月祭。寵姫と呼ばれることを受け止められるようになり、望月妃として紫曄の隣にいたいと思うようになった今、琥国の王太子、琥珀王女が現れた。
(髪の色は違っても、琥珀殿と王女の眼差しはよく似ていた)
琥国の二人の虎は、黒虎と金虎。琥国は人虎の故郷である土地だ。
琥国の琥氏、月魄国の胡氏、凛花が生まれた雲蛍州の虞氏。この三つの一族は、もとは同族。琥国の琥氏から分かれた氏族だと知った。
(琥珀王女の目的はなんなのか……。月祭直前に押しかけ、だまし討ちのようにして後宮への滞在をもぎ取った。この状況だけを見れば、月妃になるつもりよね?)
彼女はただの王女ではない。王太子だ。琥国の次代の王に決まっているのに、どうして月魄国の後宮に入りたいと思うのか。目的が分からない。
とはいえ、寵姫・朔月妃としては少々厄介な事態でも、白虎の凛花としてはまたとない機会だ。
琥珀王女は、ずっと、長い間、人虎の王を戴いてきた国の金虎だ。きっと虎化について、凛花と紫曄の知らないことを知っている。黒虎の琥珀には知らされていない秘密も、きっとだ。
(王女と話す機会を作れたら……)
いや、難しいだろう。相手は格上国の王太子。州侯の娘で、最下位の月妃である朔月妃が、『お茶会をしませんか』などと誘える相手ではない。それに、あちらが凛花をどう思っているのかも分からない。
(私が白虎ということは知っているはず)
珍しい白虎だから気に入らない、珍しいから手に入れたい。それとも、虎の仲間と思ってもらえているか、なんとも思われていないか。
(疎まれていなければいいんだけど……)
「凛花さま」
考えながら歩いていた凛花を、麗麗がそっと手で制止した。
「どうかしたの?」
「暁月宮が少々騒がしいような……」
月魄国の西方。
金桂花の香りに包まれた月魄国皇都、天満よりも乾いた風が吹く琥国。
涼やかな銀桂花の香りに満たされたその王都では、月祭が執り行われていた。
人々は、賑やかな音楽と銀桂花酒に酔い、煌々と輝く満月を見上げ微笑む。女神がおわす不変の月に感謝し、その加護を持つ王と我らに益々の祝福を! と、祈り乾杯する。杯を掲げる先は、もちろん月と王宮だ。
高台にある白亜の王宮は、月光を浴び淡い琥珀色に染まっている。そんな王宮の奥。厳かな儀式を終え静けさに包まれた一角に、快活な笑い声が響いた。
「ははは! 王女の姿が見えぬと思ったら、月魄国へ向かっていたか」
そういえば、そんな話をしていたか。側近からの報告に、銀桂花酒を傾け笑うのは琥王。今は月魄国にいる、黒虎の琥珀と、金虎の王女、琥珀の父親だ。二人と瞳の色は違うが、その鋭い目元がよく似ている。
「月祭に合わせ乗り込むとは、琥珀も考えたものだ」
「押し掛ける形で入国されたようですが……よろしいのですか? 国王陛下。王女殿下は王太子ですよ? 後宮へ滞在するとの報せもございます。滞在では済まず、このまま後宮へ入ってしまわれたら……」
「そのつもりであろう。白虎を手に入れるため、どのような策を使おうと問題はない」
「しかし」
尚も言葉を続けようとする側近に、王は眉をひそめた。すると長年仕えている側近は、すっと口を噤んだ。これ以上の言葉を重ねるは悪手。それを理解し、言葉を呑み込むことができるからこそ、男は長年の側近としてここにいる。
「私はまだ玉座を譲るつもりなどない。琥珀が次代を担うまでには時がある。好きにすればいい」
琥国は女も王になれる国だ。だが、女王よりも男王のほうが歓迎される。虎という、猛々しい存在を崇める国風において、より力強い男王が好まれるのは道理。
どんなに雄々しくあろうとも、王太子・琥珀は王女。唯一に近い欠点である、『女』を利点に変え後宮に入り込むのはいい策だ。琥王はそう思う。内心、男の王太子を立てたいと思っている臣下に対しても、自身を認めさせるいい方法だ。
神託の白虎姫を唆し攫うにしても、接触できる場所は後宮のみ。そして、白虎を手に入れるためのもう一つの方法も、後宮の女でなければ取れないもの。
「深く入り込まねば好機は得られぬ。後宮に入り込みすぎた結果、帰国しなかったのなら、あの琥珀はその程度だったというだけのことよ。なに、代わりの琥珀はそのうちまた得られる」
我が後宮には、虎の血を引く妃が幾人もおる。だから心配するなと笑う王に、無言で控える側近は「はっ」と答えて頭を下げた。そして相変わらずな王の冷たい言葉に、ひそかに眉を寄せ思う。
なぜ王は、大切な『琥珀』であるのに、我が子として可愛がることも、金虎として敬うこともしないのかと。もちろん、そんな疑問を口にすることは決してないのだが。
「琥珀がうまく立ち回ったとして、白虎の子が生まれるまで早くとも一年か」
月魄国の皇家も古くは人虎とはいえ、運よく白虎が生まれるとは限らない。白虎は何代かに一人、生まれるか生まれないか。よほど運がよくても、数年かかって授かるかどうかの希少な宝物だ。
「白虎を得るまで数年、琥珀が月華後宮に居つけたとしたら、それは皇帝の寵愛を勝ち取ったということ。そうなってしまえば、戻らぬ可能性のほうが高そうだな」
琥王はボソリと呟く。
脳裏に浮かぶのは、離宮で預かっている月華後宮の前の主のことだ。彼の後宮には妃が溢れていたという。
そんな先代皇帝を退位させ、即位した現皇帝の後宮に妃は少ないと聞く。だが噂はあてにならない。冷徹との評判がありながら、実際は父の命を取れなかった情に脆い男だ。先代と同じく、望まぬが拒みもしない性質かもしれない。
実際、押し掛けられ有耶無耶のうちに琥珀を後宮へ迎え入れているのだ。とはいえ、現在の寵姫、神託の白虎姫――朔月妃・凛花のことも簡単に手放すとは思えない。
「……まあいい。琥珀は一人ではない」
黒虎の琥珀にも、白虎を手に入れろと密命を下してある。
暗く月のない夜に変化できる黒虎なら、闇に紛れて後宮へ忍び込み、白虎姫を攫うこともできるだろう。白虎も金虎も、月がなければただの女でしかないのだから。
「先に白虎を持ち帰った琥珀を褒めてやろう」
王はそんな思い付きを口にする。二人の琥珀と会話をしたことなど、ほとんどないというのに。
二人の琥珀は、琥国にとって久しぶりの『琥珀』だ。
四代前が金虎の女王、三代前が金虎の王と、二代続けて『琥珀』の王だったが、その後三代は人の王が続いている。琥珀たちの父王も人だ。
今の琥国に、『琥珀』の王を知っている者は少ない。だからだろうか。古い伝統を守り、外国との接触を限定している琥国でも、価値観や考え方に変化が起きていた。
目の前にいた『尊い人虎』の存在がなくなったことにより、徐々に『人虎』はお伽噺の中の存在へ変わってしまった。
三代前までの時代においても、実際に人が虎に変化する場面を見た者は多くない。
だが、記録の中にはたしかに虎がいたし、小さな古い国の中では、『人虎の王』が存在することは当たり前だった。王宮衛士の日誌にも、『城壁に昇る虎の影を見た』などの記述が残っている。
しかし、人虎がいるのが当然という前提が、三代続けて人の王が立ったことにより変わったのだ。
人虎の王に仕えた古参は、人虎だけが持つ威圧感や、月の加護としか思えない奇跡を知っている。王の気配があると、常に背筋が伸びる気持ちだったとか。
だが、それを知らない者たちは、王が人でも困ったことはないし、そんな威圧感なんてものがない王の王宮は快適だ。仕事がやりやすい。
眼光鋭く臣下を威圧し、月の加護をもって守護をし、国を導いてきた猛虎がいなくなった王宮は、箍が外れたとまではいかずとも、確実に箍が緩んだ。
昔も賄賂や派閥争いといった、足の引っ張り合いがなかったとは言わない。
だが、王の威光が弱ったことにより、国ではなく利己を優先したり、追求したりする者が増えた。只人らしいこの現象は、いつか玉座まで蝕んでしまうのでは。そんなことを危惧する古参の者もいる中、王宮に生まれたのが二人の琥珀だ。
二人が育てられた場所は、王宮内ではなく離宮。どちらも特別だったからだ。
兄王子の琥珀は、金虎の特徴である琥珀色の瞳を持っていたことから、まだ変化できない赤子の時点で『琥珀』と名付けられた。すぐに優秀な乳母や侍従が選任され、『琥珀』専用の離宮、『琥珀宮』の主となる。王宮にいる父母に会えるのも、季節ごとの儀式でのみと決められた。
琥珀宮は立派な『琥珀』になるための場所である。
幼いころから厳しい教育を施し、詰め込み、『琥珀』の型にはめていく。
乳母も侍従も教師も、『琥珀』を育てた者が将来得られるだろう利と栄誉のため、琥珀に飴を与えることも忘れなかった。
琥珀、五歳の誕生日。次は琥珀色の瞳をした王女が生まれたと、琥珀宮に知らせが届いた。琥珀は妹に会いたい! と心と脚を逸らせ、初めて変化した姿が――黒虎だった。
王宮は大騒ぎとなり、そして『琥珀』の名も、琥珀宮も妹王女のものになった。
琥珀宮を出された琥珀は、名を闇夜に変えられた。闇夜とは月のない、暗い夜のこと。月の女神を奉じる琥国では、月から見捨てられたような存在である黒虎は蔑みの対象だ。
闇夜となった琥珀には、古びた屋敷が与えられた。ここに移るまでの数日間の扱いは、たった五歳の琥珀――闇夜でも『自分は忌み嫌われる存在だ』と理解するには十分だった。
乳母も侍従も教師も、使用人もいない。たまに訪れる王宮の下働きが最低限の世話をしていくだけ。突然変わった境遇に、闇夜は恐れ戸惑い悲しんだ。
けれど、いいこともあった。闇夜になったことで自由を手に入れたのだ。
毎日決められた時刻に起こされ、決められた衣装を身に着け、食事をし、いくつもの授業を受ける。『琥珀』らしくと、好みや考え方、笑い方まで強制され、何一つ選べず与えられるだけの生活とは大違い。
自分の足で屋敷を抜け出して、見たいものを見て、学びたいことを学び、旅人から外国の話を聞く。友人もできた。黒虎であることや出自は秘密にしていたが。
それに、たまに闇夜に同情してくれる王宮の人間もいた。月官もいた。
そのおかげで、成人した時に彫った背中の刺青でさえ、黒虎ではなく、憧れの白虎にも見えるものを選べた。
ただ、名前だけは選べなかったが。
一方、新たに琥珀の名を授けられた王女は、今度こそ『琥珀』であるはずと、より厳しい教育が与えられた。そして期待通り、王女は金虎に変化する。
『琥珀』として厳しいながらも大切に、持ち上げられ育った結果、王女は自信に満ち溢れ、高い矜持を持つ琥珀になった。我儘も琥珀ならばと許され、そのうち傲慢にも見える言動に繋がっていく。
だが、その傲慢ささえも力強い虎の性だと歓迎された。
それに琥珀王女には、『琥珀』の型にはめた教育がなされているので、その我儘も傲慢さも所詮『琥珀』の範囲内でしかない。
本当の意味で我を通すような自由はなく、選択肢もない。
王女は気付かぬうちに、『琥珀』という檻の中の金虎になっていたのだ。
同じ人虎の兄妹でありながら、二人の琥珀は正反対の境遇で育った。一方には与えられ、一方には与えられないものばかり。
しかし、等しく与えられなかったものがあった。愛情だ。
二人にとって、両親は親ではなく国王陛下と王妃殿下。一番身近な乳母でさえ、臣下として仕えていたくらい。そのくらい、『琥珀』とは特別で、既にお伽噺になりつつあった人虎は、子供であっても畏怖の対象だった。
琥国の伝統では、人虎は人よりも尊いもの。そのことは、王を複雑な心持ちにさせた。跡継ぎである琥珀は大切だし、琥珀の親であることは自らが座る王座をより強固にしてくれた。
だが、琥珀が成長していくにつれ、離宮から妙な気配を感じるようになる。追い立てられるような焦燥感というか、畏れのような不思議な感覚だ。
そのうちに、あれは慈しむ我が子というよりも、王座を争う者なのでは? と思ったのだ。だから王も王妃も、必要以上に琥珀にかかわらなかった。
そして今。二人の琥珀が不在の王宮で、琥王は月を見上げ呟く。
「人虎だけが王の資格を持つ時代は、とっくに終わっているのだ」
王は薄紫色の瞳を細め、銀桂花酒を飲み干した。
第一章 月祭と二人の虎の姫
月祭の満月が照らす中、凛花は嫣然と微笑む赤い唇を見つめた。
(琥国の王太子が、まさか王女だったなんて……!)
褐色の肌に、たっぷりとした波打つ金の髪。意思の強そうな琥珀色の瞳。彼女が月に変化の願いをかけたなら、きっと美しく立派な金虎になる。王太子――琥珀王女には、そう思わせるような迫力と華があった。
それに、これは凛花と琥珀王女の二人だけが感じていることだろうが、お互いに、お互いが虎であると確信していた。
どういうわけか、かち合った視線を外せないのだ。満月である今夜は、虎の獣性が高まっている。虎同士、目を逸らせたほうが負けだと本能で理解しているのだろう。凛花はせり上がってくる唸り声を喉の奥に押し込め、代わりに小さな笑い声を溢した。
(ああ。彼女も、私も、たしかに虎だ)
満月の夜に人虎と出会うと、こんなふうに感じるとは。黒虎の琥珀とは、満月の夜に相対したことはないので知らなかった。向かい側で同じく獰猛な笑みを浮かべる王女も、きっと似たようなことを思っているのだろう。
一体どうやって視線を外せばいいのか。見つめ合う二人の顔に苦笑が滲む。
(周囲に睨み合っていると思われるのもまずいし……どうしよう?)
しかし、凛花に注がれる視線は感じない。それもそのはず、王女から視線を外せないのは凛花だけではないようだった。
王太子という身分によるものか、内に秘めた猛獣金虎のものかは分からない。だが今、この場にいる誰もが彼女を見つめずにはいられない。
あれは誰だ、琥国の姫では? 月妃に迎えるのか? 隣り合う者たちの間でそんな囁き声が交わされ、厳かであるはずの月祭会場にざわめきが広がっていく。
そんな時、ドーン、ドーン、と低い太鼓の音が響いた。皆はハッとし口を閉じて、視線を王女から、儀式の舞台へ上がる皇帝・胡紫曄へと向けた。
月華宮内で執り行われる月祭の儀式は短時間で終了する。月祭の本番はこの後、神月殿で行われる皇帝と月妃による儀式だからだ。
もう一度、太鼓がドーンと鳴り紫曄が退場する。次に月妃たちが、序列の高い順に退出していく。今回、最上位の弦月妃は謹慎中なので、まずは暁月妃の赫朱歌が立ち上がり、薄月妃の陸霜珠が続く。最後が朔月妃の虞凛花だ。
上位の二妃が侍女たちを連れ退場していく中、席で順番を待つ凛花には、忍びやかな視線が注がれていた。琥国の王太子、琥珀王女のせいだ。
もし王女が後宮に入ったなら、その位は今いる月妃の中で最上位となるはず。
では、寵姫とはいえ、最下位の月妃である朔月妃の位はどうなるのか。寵愛を受け続けるのか、それとも寵愛は薄れてしまうのか。いや、既に薄れたから、この場に王女がいるのではないか? 視線を向ける者たちは、そんな会話も交わしている。
(はぁ。ヒソヒソ話がよく聞こえてしまうわ)
凛花はそんなことを思い、扇で口元を隠し小さく溜息を吐く。
今夜は満月。しかも一年で一番美しいとされる月祭の満月だ。
どんなに密やかな声でも、距離が離れていても、虎の能力が冴えている今夜は、凛花の耳まで届いてしまう。
(ということは、彼女の耳にも届いているのよね)
まだ席に座ったままの王女をそっと窺うと、その周囲には妙な間ができていた。
参列者は、月妃以外は男性ばかり。誰も彼も挨拶をしたそうにしているが、女性ということで遠慮しているようだ。
(……それだけじゃなくて、王女から感じる威圧感というか、近付き難さを感じているのかも)
これは金虎特有のものなのだろうか。それとも、あの華々しい王女だから感じるものなのか。人の姿でいるのに、その背に大きな金虎が見えるようだ。
同じ虎でも、黒虎の琥珀には感じなかった艶やかな威圧感だ。兄妹なのにこうも雰囲気が違うものかと凛花は思う。
(そういえば、琥珀からは『いい匂い』がしたけど、あれって琥国特有の香だったりして?)
ふと思い出し、凛花は嗅覚を研ぎ澄まして王女の香りを探ってみる。この距離と人が大勢いる場で嗅ぎ分けられるのは満月のおかげだ。年に一度の名月の夜は、変化を抑えるのに気力を使うが、高まっている虎の能力を利用する分には有り難い。
(あの『いい匂い』には、心地よいほのかな甘さを感じた。男性である琥珀にしては甘い香りだったけど……あれ? あの香り……しないな)
王女の香は随分控えめらしい。今夜の凛花でも、嗅ぎ分けるのは困難なくらいだ。
(独特な香りだったから、『琥珀』専用の香かと思ったりもしたんだけど……違ったのね)
どうやら兄妹でも、香の好みは随分違うよう。むしろ香にかんしては、王女の好みは凛花と似ているのかもしれない。
あまり強い香りは虎の嗅覚にはきついので、凛花も基本的に控えめにしている。月が丸い時期は特に控えることもあるのだ。
(こんなところに虎同士の共通点があったのね)
意図せず妙なところで親近感を持ってしまった。凛花はクスリと笑い、退場していく王女の姿を見送った。
そのうちに、順番がきて凛花も退出していく。耳に届く声はもうほとんどない。向かい側の席は、王女だけでなく大半の者が退出した後だ。
「凛花さま……」
麗麗の声が固い。言いたいことは分かっていると、凛花は隣に向かって頷く。
「主上がおっしゃっていた失敗とは、あの艶やかな方――琥国の王太子殿下のことね」
麗麗は眉をきゅっと寄せ、心配そうな顔で凛花を覗き込む。麗麗には、周囲で囁かれていた声は聞こえていない。だが、月と皇帝を称える月祭に、他国の王女が臨席していたのだ。元月官衛士で、まだ後宮の事情に疎い麗麗でも、周囲がどう感じたかは察せられる。
今夜は、同じく月を尊ぶ琥国でも月祭のはず。であるのに、王女が月魄国皇宮の月祭に出席した意味は、紫曄を皇帝として称えるということ。すなわち、後宮に入るという意味ではないか? 麗麗もそう解釈したのだろう。
だからこうして凛花を気遣い、後宮に着くまで周囲の目から守ろうと、大きな背を活かし凛花を隠してくれている。
「ありがとう、麗麗。大丈夫よ」
そして後宮の門をくぐると、先に退出した朱歌と霜珠がそこに待っていた。
「凛花さま。来たか」
「凛花さま!」
霜珠は凛花に駆け寄ると、そっと手を握って言った。
「凛花さま。あの方がいらっしゃった席は月妃の席ではありません。ただの来賓ですわ」
そうだとしても、ただの来賓にはならない。あれがどんな意味になるか霜珠も理解している。だが凛花が気落ちしないようにと、霜珠はいつもの柔らかい笑顔で微笑む。
「凛花さま。あなたはきっと、主上から何か聞いていると思うが……まったく。まさか佳月宮の客人が、あの派手な王女だとは思わなかったよ」
朱歌はニッと笑う。
昨夜、紫曄は『予定外の客人が訪れた』と言い、朱歌の暁月宮から朔月宮へと衛士を派遣させていた。
(なるほど。客人とは王太子――琥珀王女のことだったのね)
しかし宿泊先が佳月宮とは、紫曄が王女を月妃に迎えるのでは? という予想が濃厚になってしまう。
「あら。やはりそうでしたの? 急な客人を招くなら、佳月宮しかないと思っておりましたけど……。凛花さまがありながら、主上は何を考えておいでなのでしょう」
霜珠は軽く眉をひそめる。佳月宮に格上の国の王女を入れたなら、それはもう望月妃にするつもりだと言っているようなものだ。
「あの、主上も昨晩の時点では、琥国の王太子が王女であるとはご存じなかったようです。月祭の潔斎などで忙しかったでしょう? その……予想外だったと、先ほど私に話してくださいました」
本当は「失敗した」と言っていたのだが、言い回しは変えておいた。皇帝の失敗なんて、あまり聞かせないほうがいい。
「まあ。主上が凛花さまに嘘を吐くとは思えませんし、それなら、やはりあの方はお客人ですね」
「フフッ。紫曄さま、琥国にまんまとやられたというわけか。しかし、ただの客人だとしても月妃としては気になるね。私もちょっと探りを入れてみようかな」
月妃としてなんて全く気になっていないだろうに、朱歌はそう言い凛花の心に寄り添ってみせてくれる。
二人は月妃ではあるが、皇帝の寵愛を望み後宮に入ったわけではない。
朱歌は幼馴染みであり、女嫌いと言われていた紫曄に頼まれ、人数合わせとして入ったのみ。霜珠は家族の勘違いによる強い後押しで入ったが、紫曄のことは好みではない。それから霜珠本人はまだ気付いていないが、紫曄の侍従である、兎杜少年から淡い恋心を向けられている。
(ああ、月妃の仲間がこの二人でよかった)
凛花は微笑む。霜珠の、友人のような心遣いが嬉しい。朱歌の、姉のような優しさが心強い。
「霜珠さま。朱歌さまも……」
ホッ……と肩の力が抜けたのが分かった。気付かぬうちに、凛花も不安を感じていたのかもしれない。紫曄から事前に王太子の臨席を聞いていたし、紫曄を信じるとも言った。たしかに信じているが、凛花も王女も人虎だ。
初めて対峙した虎。煌びやかな雰囲気を持つ王女に、凛花の中にいる白虎が少々圧倒されてしまったようだ。
「お二人とも、ありがとうございます。お心遣いのお礼に、お二人をお茶会にお招きしてもよろしいでしょうか。故郷の雲蛍州から季節のお茶が届いているんです」
「ふふ。楽しみにしております、凛花さま」
「いいね。では私も何か楽しめるものを用意しよう」
後宮はしばらく落ち着かないだろう。
(だって『琥国の王太子』が佳月宮に滞在しているんだもの。王太子が王女だということも皆に知れてしまったし……)
紫曄ったら、本当にこれはちょっと面倒な失敗だわ。凛花は少し軽くなった心の中で、そう呟く。
しかし考えてみれば、後宮に入ってからは面倒事が日常だった気もする。そう思えば今さら慌てることはない。
『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』
凛花はその神託のおかげで後宮に入った。
国の端にある雲蛍州で『薬草姫』と呼ばれ、のびのび薬草畑の世話をしていたというのに。皇帝にも後宮にも興味がないのにだ。だが、月華宮の大書庫には興味があった。
月夜に白虎へ変わるという、長年悩んできた自らの体質の謎を解きたい。国一番の書庫になら、何か手掛かりがあるかもしれない。
そう思い、前向きな気持ちで後宮に入ったはいいが、早々に皇帝紫曄に虎化のことを知られ、逆に凛花も不眠という紫曄の秘密を知ってしまった。
お互いの秘密を守るための取り引きが、凛花の『虎猫の抱き枕』だった。紫曄の眠れぬ夜を、ふわふわの虎の体で癒すうちに、熱を分け合うごとに、二人の気持ちも変わっていく。皇帝と月妃ではなく、紫曄と凛花として、共に在りたいと思うようになっていった。
いつか虎化しない体になったら、凛花を望月妃にと望む紫曄に応えたい。そんな気持ちで、寵姫としての責任を果たした星祭。その最中には弦月妃の妨害や、くせ者の月官薬師、碧との出会い。さらには琥国の黒虎、琥珀にも出会い、凛花は人虎の来歴を知った。
そして、見つけた虎化の謎を一つずつ解きながら、二人で愛しさに酔いしれ迎えた月祭。寵姫と呼ばれることを受け止められるようになり、望月妃として紫曄の隣にいたいと思うようになった今、琥国の王太子、琥珀王女が現れた。
(髪の色は違っても、琥珀殿と王女の眼差しはよく似ていた)
琥国の二人の虎は、黒虎と金虎。琥国は人虎の故郷である土地だ。
琥国の琥氏、月魄国の胡氏、凛花が生まれた雲蛍州の虞氏。この三つの一族は、もとは同族。琥国の琥氏から分かれた氏族だと知った。
(琥珀王女の目的はなんなのか……。月祭直前に押しかけ、だまし討ちのようにして後宮への滞在をもぎ取った。この状況だけを見れば、月妃になるつもりよね?)
彼女はただの王女ではない。王太子だ。琥国の次代の王に決まっているのに、どうして月魄国の後宮に入りたいと思うのか。目的が分からない。
とはいえ、寵姫・朔月妃としては少々厄介な事態でも、白虎の凛花としてはまたとない機会だ。
琥珀王女は、ずっと、長い間、人虎の王を戴いてきた国の金虎だ。きっと虎化について、凛花と紫曄の知らないことを知っている。黒虎の琥珀には知らされていない秘密も、きっとだ。
(王女と話す機会を作れたら……)
いや、難しいだろう。相手は格上国の王太子。州侯の娘で、最下位の月妃である朔月妃が、『お茶会をしませんか』などと誘える相手ではない。それに、あちらが凛花をどう思っているのかも分からない。
(私が白虎ということは知っているはず)
珍しい白虎だから気に入らない、珍しいから手に入れたい。それとも、虎の仲間と思ってもらえているか、なんとも思われていないか。
(疎まれていなければいいんだけど……)
「凛花さま」
考えながら歩いていた凛花を、麗麗がそっと手で制止した。
「どうかしたの?」
「暁月宮が少々騒がしいような……」
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