月華後宮伝

織部ソマリ

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虎猫姫は冷徹皇帝と琥珀に惑う

虎猫姫は冷徹皇帝と琥珀に惑う-1

   序章


 月魄国げっぱくこくの西方。
 金桂花きんけいかの香りに包まれた月魄国皇都こうと天満てんまんよりも乾いた風が吹く琥国ここく
 涼やかな銀桂花ぎんけいかの香りに満たされたその王都では、月祭つきまつりが執り行われていた。
 人々は、賑やかな音楽と銀桂花酒ぎんけいかしゅに酔い、煌々こうこうと輝く満月を見上げ微笑む。女神がおわす不変の月に感謝し、その加護かごを持つ王と我らに益々の祝福を! と、祈り乾杯する。杯を掲げる先は、もちろん月と王宮だ。
 高台にある白亜はくあの王宮は、月光を浴び淡い琥珀色こはくいろに染まっている。そんな王宮の奥。厳かな儀式を終え静けさに包まれた一角に、快活な笑い声が響いた。

「ははは! 王女の姿が見えぬと思ったら、月魄国へ向かっていたか」

 そういえば、そんな話をしていたか。側近からの報告に、銀桂花酒を傾け笑うのは琥王こおう。今は月魄国にいる、黒虎こっこ琥珀こはくと、金虎きんこの王女、琥珀こはくの父親だ。二人と瞳の色は違うが、その鋭い目元がよく似ている。

「月祭に合わせ乗り込むとは、も考えたものだ」
「押し掛ける形で入国されたようですが……よろしいのですか? 国王陛下。王女殿下は王太子ですよ? 後宮へ滞在するとの報せもございます。滞在では済まず、このまま後宮へ入ってしまわれたら……」
「そのつもりであろう。白虎びゃっこを手に入れるため、どのような策を使おうと問題はない」
「しかし」

 尚も言葉を続けようとする側近に、王は眉をひそめた。すると長年仕えている側近は、すっと口を噤んだ。これ以上の言葉を重ねるは悪手。それを理解し、言葉を呑み込むことができるからこそ、男は長年の側近としてここにいる。

「私はまだ玉座を譲るつもりなどない。が次代を担うまでには時がある。好きにすればいい」

 琥国は女も王になれる国だ。だが、女王よりも男王だんおうのほうが歓迎される。虎という、猛々しい存在を崇める国風こくふうにおいて、より力強い男王だんおうが好まれるのは道理。
 どんなに雄々しくあろうとも、王太子・琥珀は王女。唯一に近い欠点である、『女』を利点に変え後宮に入り込むのはいい策だ。琥王はそう思う。内心、男の王太子を立てたいと思っている臣下に対しても、自身を認めさせるいい方法だ。
 神託しんたくの白虎姫をそそのかさらうにしても、接触できる場所は後宮のみ。そして、白虎を手に入れるためのもう一つの方法も、後宮の女でなければ取れないもの。

「深く入り込まねば好機は得られぬ。後宮に入り込みすぎた結果、帰国しなかったのなら、あの琥珀はその程度だったというだけのことよ。なに、代わりの琥珀はそのうちまた得られる」

 我が後宮には、虎の血を引く妃が幾人もおる。だから心配するなと笑う王に、無言で控える側近は「はっ」と答えて頭を下げた。そして相変わらずな王の冷たい言葉に、ひそかに眉を寄せ思う。
 なぜ王は、大切な『琥珀』であるのに、我が子として可愛がることも、金虎として敬うこともしないのかと。もちろん、そんな疑問を口にすることは決してないのだが。

「琥珀がうまく立ち回ったとして、白虎の子が生まれるまで早くとも一年か」

 月魄国の皇家も古くは人虎じんことはいえ、運よく白虎が生まれるとは限らない。白虎は何代かに一人、生まれるか生まれないか。よほど運がよくても、数年かかって授かるかどうかの希少な宝物だ。

「白虎を得るまで数年、琥珀が月華後宮げっかこうきゅうに居つけたとしたら、それは皇帝の寵愛ちょうあいを勝ち取ったということ。そうなってしまえば、戻らぬ可能性のほうが高そうだな」

 琥王はボソリと呟く。
 脳裏に浮かぶのは、離宮で預かっている月華後宮の前の主のことだ。彼の後宮には妃が溢れていたという。
 そんな先代皇帝を退位させ、即位した現皇帝の後宮に妃は少ないと聞く。だが噂はあてにならない。冷徹れいてつとの評判がありながら、実際は父の命を取れなかった情にもろい男だ。先代と同じく、望まぬが拒みもしない性質たちかもしれない。
 実際、押し掛けられ有耶無耶うやむやのうちに琥珀を後宮へ迎え入れているのだ。とはいえ、現在の寵姫ちょうき、神託の白虎姫――朔月妃さくげつひ凛花りんかのことも簡単に手放すとは思えない。

「……まあいい。琥珀は一人ではない」

 黒虎の琥珀にも、白虎を手に入れろと密命を下してある。
 暗く月のない夜に変化できる黒虎なら、闇に紛れて後宮へ忍び込み、白虎姫をさらうこともできるだろう。白虎も金虎も、月がなければただの女でしかないのだから。

「先に白虎を持ち帰ったを褒めてやろう」

 王はそんな思い付きを口にする。二人の琥珀と会話をしたことなど、ほとんどないというのに。


 二人の琥珀は、琥国にとって久しぶりの『琥珀』だ。
 四代前が金虎の女王、三代前が金虎の王と、二代続けて『琥珀』の王だったが、その後三代は人の王が続いている。琥珀たちの父王も人だ。
 今の琥国に、『琥珀』の王を知っている者は少ない。だからだろうか。古い伝統を守り、外国との接触を限定している琥国でも、価値観や考え方に変化が起きていた。
 目の前にいた『尊い人虎』の存在がなくなったことにより、徐々に『人虎』はお伽噺とぎばなしの中の存在へ変わってしまった。
 三代前までの時代においても、実際に人が虎に変化する場面を見た者は多くない。
 だが、記録の中にはたしかに虎がいたし、小さな古い国の中では、『人虎の王』が存在することは当たり前だった。王宮衛士えじの日誌にも、『城壁に昇る虎の影を見た』などの記述が残っている。
 しかし、人虎がいるのが当然という前提が、三代続けて人の王が立ったことにより変わったのだ。
 人虎の王に仕えた古参こさんは、人虎だけが持つ威圧感や、月の加護かごとしか思えない奇跡を知っている。王の気配があると、常に背筋が伸びる気持ちだったとか。
 だが、それを知らない者たちは、王が人でも困ったことはないし、そんな威圧感なんてものがない王の王宮は快適だ。仕事が
 眼光鋭く臣下を威圧し、月の加護かごをもって守護をし、国を導いてきた猛虎もうこがいなくなった王宮は、たがが外れたとまではいかずとも、確実にたがが緩んだ。
 昔も賄賂わいろ派閥はばつ争いといった、足の引っ張り合いがなかったとは言わない。
 だが、王の威光が弱ったことにより、国ではなく利己を優先したり、追求したりする者が増えた。只人ただびとらしいこの現象は、いつか玉座まで蝕んでしまうのでは。そんなことを危惧する古参こさんの者もいる中、王宮に生まれたのが二人の琥珀だ。
 二人が育てられた場所は、王宮内ではなく離宮。どちらもだったからだ。
 兄王子の琥珀は、金虎の特徴である琥珀色の瞳を持っていたことから、まだ変化できない赤子の時点で『琥珀』と名付けられた。すぐに優秀な乳母うば侍従じじゅうが選任され、『琥珀』専用の離宮、『琥珀宮こはくきゅう』の主となる。王宮にいる父母に会えるのも、季節ごとの儀式でのみと決められた。
 琥珀宮は立派な『琥珀』になるための場所である。
 幼いころから厳しい教育を施し、詰め込み、『琥珀』の型にはめていく。
 乳母うば侍従じじゅうも教師も、『琥珀』を育てた者が将来得られるだろう利と栄誉のため、琥珀にを与えることも忘れなかった。
 琥珀、五歳の誕生日。次は琥珀色の瞳をした王女が生まれたと、琥珀宮に知らせが届いた。琥珀は妹に会いたい! と心と脚を逸らせ、初めて変化した姿が――黒虎だった。
 王宮は大騒ぎとなり、そして『琥珀』の名も、琥珀宮も妹王女のものになった。
 琥珀宮を出された琥珀は、名を闇夜あんやに変えられた。闇夜とは月のない、暗い夜のこと。月の女神を奉じる琥国では、月から見捨てられたような存在である黒虎はさげすみの対象だ。
 闇夜となった琥珀には、古びた屋敷やしきが与えられた。ここに移るまでの数日間の扱いは、たった五歳の琥珀――闇夜でも『自分は忌み嫌われる存在だ』と理解するには十分だった。
 乳母うば侍従じじゅうも教師も、使用人もいない。たまに訪れる王宮の下働きが最低限の世話をしていくだけ。突然変わった境遇に、闇夜は恐れ戸惑い悲しんだ。
 けれど、いいこともあった。闇夜になったことで自由を手に入れたのだ。
 毎日決められた時刻に起こされ、決められた衣装を身に着け、食事をし、いくつもの授業を受ける。『琥珀』らしくと、好みや考え方、笑い方まで強制され、何一つ選べず与えられるだけの生活とは大違い。
 自分の足で屋敷やしきを抜け出して、見たいものを見て、学びたいことを学び、旅人から外国の話を聞く。友人もできた。黒虎であることや出自は秘密にしていたが。
 それに、たまに闇夜に同情してくれる王宮の人間もいた。月官げっかんもいた。
 そのおかげで、成人した時に彫った背中の刺青しせいでさえ、黒虎ではなく、憧れの白虎にも見えるものを選べた。
 ただ、名前だけは選べなかったが。


 一方、新たに琥珀の名を授けられた王女は、今度こそ『琥珀』であるはずと、より厳しい教育が与えられた。そして期待通り、王女は金虎に変化する。
『琥珀』として厳しいながらも大切に、持ち上げられ育った結果、王女は自信に満ち溢れ、高い矜持きょうじを持つ琥珀になった。我儘わがままも琥珀ならばと許され、そのうち傲慢ごうまんにも見える言動に繋がっていく。
 だが、その傲慢ごうまんささえも力強い虎のさがだと歓迎された。
 それに琥珀王女には、『琥珀』の型にはめた教育がなされているので、その我儘わがまま傲慢ごうまんさも所詮『琥珀』の範囲内でしかない。
 本当の意味で我を通すような自由はなく、選択肢もない。
 王女は気付かぬうちに、『琥珀』というおりの中の金虎になっていたのだ。
 同じ人虎の兄妹でありながら、二人の琥珀は正反対の境遇で育った。一方には与えられ、一方には与えられないものばかり。
 しかし、等しく与えられなかったものがあった。愛情だ。
 二人にとって、両親は親ではなく国王陛下と王妃殿下。一番身近な乳母うばでさえ、臣下として仕えていたくらい。そのくらい、『琥珀』とは特別で、既にお伽噺とぎばなしになりつつあった人虎は、子供であっても畏怖いふの対象だった。
 琥国の伝統では、人虎は人よりも尊いもの。そのことは、王を複雑な心持ちにさせた。跡継ぎである琥珀は大切だし、琥珀の親であることは自らが座る王座をより強固にしてくれた。
 だが、琥珀が成長していくにつれ、離宮から妙な気配を感じるようになる。追い立てられるような焦燥感というか、畏れのような不思議な感覚だ。
 そのうちに、あれは慈しむ我が子というよりも、王座を争う者なのでは? と思ったのだ。だから王も王妃も、必要以上に琥珀にかかわらなかった。


 そして今。二人の琥珀が不在の王宮で、琥王は月を見上げ呟く。

「人虎だけが王の資格を持つ時代は、とっくに終わっているのだ」 

 王は薄紫色の瞳を細め、銀桂花酒を飲み干した。



   第一章 月祭と二人の虎の姫


 月祭の満月が照らす中、凛花は嫣然えんぜんと微笑む赤い唇を見つめた。

(琥国の王太子が、まさか王女だったなんて……!)

 褐色かっしょくの肌に、たっぷりとした波打つ金の髪。意思の強そうな琥珀色の瞳。彼女が月に変化の願いをかけたなら、きっと美しく立派な金虎になる。王太子――琥珀王女には、そう思わせるような迫力と華があった。
 それに、これは凛花と琥珀王女の二人だけが感じていることだろうが、お互いに、お互いが虎であると確信していた。
 どういうわけか、かち合った視線を外せないのだ。満月である今夜は、虎の獣性が高まっている。虎同士、目を逸らせたほうが負けだと本能で理解しているのだろう。凛花はせり上がってくる唸り声を喉の奥に押し込め、代わりに小さな笑い声を溢した。

(ああ。彼女も、私も、たしかに虎だ)

 満月の夜に人虎と出会うと、こんなふうに感じるとは。黒虎の琥珀とは、満月の夜に相対したことはないので知らなかった。向かい側で同じく獰猛どうもうな笑みを浮かべる王女も、きっと似たようなことを思っているのだろう。
 一体どうやって視線を外せばいいのか。見つめ合う二人の顔に苦笑が滲む。

(周囲に睨み合っていると思われるのもまずいし……どうしよう?)

 しかし、凛花に注がれる視線は感じない。それもそのはず、王女から視線を外せないのは凛花だけではないようだった。
 王太子という身分によるものか、内に秘めた猛獣金虎のものかは分からない。だが今、この場にいる誰もが彼女を見つめずにはいられない。
 あれは誰だ、琥国の姫では? 月妃げっぴに迎えるのか? 隣り合う者たちの間でそんな囁き声が交わされ、厳かであるはずの月祭会場にざわめきが広がっていく。
 そんな時、ドーン、ドーン、と低い太鼓たいこの音が響いた。皆はハッとし口を閉じて、視線を王女から、儀式の舞台へ上がる皇帝・胡紫曄こしゆうへと向けた。
 月華宮内で執り行われる月祭の儀式は短時間で終了する。月祭の本番はこの後、神月殿しんげつでんで行われる皇帝と月妃による儀式だからだ。
 もう一度、太鼓たいこがドーンと鳴り紫曄が退場する。次に月妃たちが、序列の高い順に退出していく。今回、最上位の弦月妃げんげつひは謹慎中なので、まずは暁月妃ぎょうげつひ赫朱歌かくしゅかが立ち上がり、薄月妃はくげつひ陸霜珠りくそうじゅが続く。最後が朔月妃の虞凛花ぐりんかだ。
 上位の二妃が侍女たちを連れ退場していく中、席で順番を待つ凛花には、忍びやかな視線が注がれていた。琥国の王太子、琥珀王女のせいだ。
 もし王女が後宮に入ったなら、その位は今いる月妃の中で最上位となるはず。
 では、寵姫ちょうきとはいえ、最下位の月妃である朔月妃の位はどうなるのか。寵愛ちょうあいを受け続けるのか、それとも寵愛ちょうあいは薄れてしまうのか。いや、既に薄れたから、この場に王女がいるのではないか? 視線を向ける者たちは、そんな会話も交わしている。

(はぁ。ヒソヒソ話がよく聞こえてしまうわ)

 凛花はそんなことを思い、扇で口元を隠し小さく溜息を吐く。
 今夜は満月。しかも一年で一番美しいとされる月祭の満月だ。
 どんなに密やかな声でも、距離が離れていても、虎の能力が冴えている今夜は、凛花の耳まで届いてしまう。

(ということは、彼女の耳にも届いているのよね)

 まだ席に座ったままの王女をそっと窺うと、その周囲には妙な間ができていた。
 参列者は、月妃以外は男性ばかり。誰も彼も挨拶あいさつをしたそうにしているが、女性ということで遠慮しているようだ。

(……それだけじゃなくて、王女から感じる威圧感というか、近付き難さを感じているのかも)

 これは金虎特有のものなのだろうか。それとも、あの華々しい王女だから感じるものなのか。人の姿でいるのに、その背に大きな金虎が見えるようだ。
 同じ虎でも、黒虎の琥珀には感じなかったつややかな威圧感だ。兄妹なのにこうも雰囲気が違うものかと凛花は思う。

(そういえば、琥珀からは『いい匂い』がしたけど、あれって琥国特有のこうだったりして?)

 ふと思い出し、凛花は嗅覚を研ぎ澄まして王女の香りを探ってみる。この距離と人が大勢いる場で嗅ぎ分けられるのは満月のおかげだ。年に一度の名月めいげつの夜は、変化を抑えるのに気力を使うが、高まっている虎の能力を利用する分には有り難い。

(あの『いい匂い』には、心地よいほのかな甘さを感じた。男性である琥珀にしては甘い香りだったけど……あれ? あの香り……しないな)

 王女のこうは随分控えめらしい。今夜の凛花でも、嗅ぎ分けるのは困難なくらいだ。

(独特な香りだったから、『琥珀』専用のこうかと思ったりもしたんだけど……違ったのね)

 どうやら兄妹でも、こうの好みは随分違うよう。むしろこうにかんしては、王女の好みは凛花と似ているのかもしれない。
 あまり強い香りは虎の嗅覚にはきついので、凛花も基本的に控えめにしている。月が丸い時期は特に控えることもあるのだ。

(こんなところに虎同士の共通点があったのね)

 意図せず妙なところで親近感を持ってしまった。凛花はクスリと笑い、退場していく王女の姿を見送った。
 そのうちに、順番がきて凛花も退出していく。耳に届く声はもうほとんどない。向かい側の席は、王女だけでなく大半の者が退出した後だ。

「凛花さま……」

 麗麗れいれいの声が固い。言いたいことは分かっていると、凛花は隣に向かって頷く。

「主上がおっしゃっていた失敗とは、あのつややかな方――琥国の王太子殿下のことね」

 麗麗は眉をきゅっと寄せ、心配そうな顔で凛花を覗き込む。麗麗には、周囲で囁かれていた声は聞こえていない。だが、月と皇帝を称える月祭に、他国の王女が臨席していたのだ。元月官衛士げっかんえじで、まだ後宮の事情に疎い麗麗でも、周囲がどう感じたかは察せられる。
 今夜は、同じく月を尊ぶ琥国でも月祭のはず。であるのに、王女が月魄国皇宮の月祭に出席した意味は、紫曄を皇帝として称えるということ。すなわち、後宮に入るという意味ではないか? 麗麗もそう解釈したのだろう。
 だからこうして凛花を気遣い、後宮に着くまで周囲の目から守ろうと、大きな背を活かし凛花を隠してくれている。

「ありがとう、麗麗。大丈夫よ」

 そして後宮の門をくぐると、先に退出した朱歌と霜珠がそこに待っていた。

「凛花さま。来たか」
「凛花さま!」

 霜珠は凛花に駆け寄ると、そっと手を握って言った。

「凛花さま。あの方がいらっしゃった席は月妃の席ではありません。ただの来賓らいひんですわ」

 そうだとしても、ただの来賓らいひんにはならない。あれがどんな意味になるか霜珠も理解している。だが凛花が気落ちしないようにと、霜珠はいつもの柔らかい笑顔で微笑む。

「凛花さま。あなたはきっと、主上から何か聞いていると思うが……まったく。まさか佳月宮かげつきゅうの客人が、あの派手な王女だとは思わなかったよ」

 朱歌はニッと笑う。
 昨夜、紫曄は『予定外の客人が訪れた』と言い、朱歌の暁月宮ぎょうげつきゅうから朔月宮さくげつきゅうへと衛士えじを派遣させていた。

(なるほど。客人とは王太子――琥珀王女のことだったのね)

 しかし宿泊先が佳月宮とは、紫曄が王女を月妃に迎えるのでは? という予想が濃厚になってしまう。

「あら。やはりそうでしたの? 急な客人を招くなら、佳月宮しかないと思っておりましたけど……。凛花さまがありながら、主上は何を考えておいでなのでしょう」

 霜珠は軽く眉をひそめる。佳月宮に格上の国の王女を入れたなら、それはもう望月妃ぼうげつひにするつもりだと言っているようなものだ。

「あの、主上も昨晩の時点では、琥国の王太子が王女であるとはご存じなかったようです。月祭の潔斎けっさいなどで忙しかったでしょう? その……予想外だったと、先ほど私に話してくださいました」

 本当は「失敗した」と言っていたのだが、言い回しは変えておいた。皇帝の失敗なんて、あまり聞かせないほうがいい。

「まあ。主上が凛花さまに嘘を吐くとは思えませんし、それなら、やはりあの方はお客人ですね」
「フフッ。紫曄さま、琥国にまんまとやられたというわけか。しかし、ただの客人だとしても月妃としては気になるね。私もちょっと探りを入れてみようかな」

 なんて全く気になっていないだろうに、朱歌はそう言い凛花の心に寄り添ってみせてくれる。
 二人は月妃ではあるが、皇帝の寵愛ちょうあいを望み後宮に入ったわけではない。
 朱歌は幼馴染みであり、女嫌いと言われていた紫曄に頼まれ、人数合わせとして入ったのみ。霜珠は家族の勘違いによる強い後押しで入ったが、紫曄のことは好みではない。それから霜珠本人はまだ気付いていないが、紫曄の侍従じじゅうである、兎杜とと少年から淡い恋心を向けられている。

(ああ、月妃の仲間がこの二人でよかった)

 凛花は微笑む。霜珠の、友人のような心遣いが嬉しい。朱歌の、姉のような優しさが心強い。

「霜珠さま。朱歌さまも……」

 ホッ……と肩の力が抜けたのが分かった。気付かぬうちに、凛花も不安を感じていたのかもしれない。紫曄から事前に王太子の臨席を聞いていたし、紫曄を信じるとも言った。たしかに信じているが、凛花も王女も人虎だ。
 初めて対峙した虎。きらびやかな雰囲気を持つ王女に、凛花の中にいる白虎が少々圧倒されてしまったようだ。

「お二人とも、ありがとうございます。お心遣いのお礼に、お二人をお茶会にお招きしてもよろしいでしょうか。故郷の雲蛍州うんけいしゅうから季節のお茶が届いているんです」
「ふふ。楽しみにしております、凛花さま」
「いいね。では私も何か楽しめるものを用意しよう」

 後宮はしばらく落ち着かないだろう。

(だって『琥国の王太子』が佳月宮に滞在しているんだもの。王太子が王女だということも皆に知れてしまったし……)

 紫曄ったら、本当にこれはちょっと面倒な失敗だわ。凛花は少し軽くなった心の中で、そう呟く。
 しかし考えてみれば、後宮に入ってからは面倒事が日常だった気もする。そう思えば今さら慌てることはない。

『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』

 凛花はその神託のおかげで後宮に入った。
 国の端にある雲蛍州で『薬草姫やくそうひめ』と呼ばれ、のびのび薬草畑の世話をしていたというのに。皇帝にも後宮にも興味がないのにだ。だが、月華宮の大書庫には興味があった。
 月夜に白虎へ変わるという、長年悩んできた自らの体質の謎を解きたい。国一番の書庫になら、何か手掛かりがあるかもしれない。
 そう思い、前向きな気持ちで後宮に入ったはいいが、早々に皇帝紫曄に虎化のことを知られ、逆に凛花も不眠という紫曄の秘密を知ってしまった。
 お互いの秘密を守るための取り引きが、凛花の『虎猫とらねこの抱き枕』だった。紫曄の眠れぬ夜を、ふわふわの虎の体で癒すうちに、熱を分け合うごとに、二人の気持ちも変わっていく。皇帝と月妃ではなく、紫曄と凛花として、共に在りたいと思うようになっていった。
 いつか虎化しない体になったら、凛花を望月妃にと望む紫曄に応えたい。そんな気持ちで、寵姫ちょうきとしての責任を果たした星祭ほしまつり。その最中には弦月妃の妨害や、くせ者の月官薬師げっかんくすしへきとの出会い。さらには琥国の黒虎、琥珀にも出会い、凛花は人虎の来歴らいれきを知った。
 そして、見つけた虎化の謎を一つずつ解きながら、二人で愛しさに酔いしれ迎えた月祭。寵姫ちょうきと呼ばれることを受け止められるようになり、望月妃として紫曄の隣にいたいと思うようになった今、琥国の王太子、琥珀王女が現れた。

(髪の色は違っても、琥珀殿と王女の眼差しはよく似ていた)

 琥国の二人の虎は、黒虎と金虎。琥国は人虎の故郷である土地だ。
 琥国の氏、月魄国の氏、凛花が生まれた雲蛍州の氏。この三つの一族は、もとは同族。琥国の琥氏から分かれた氏族だと知った。

(琥珀王女の目的はなんなのか……。月祭直前に押しかけ、だまし討ちのようにして後宮への滞在をもぎ取った。この状況だけを見れば、月妃になるつもりよね?)

 彼女はただの王女ではない。王太子だ。琥国の次代の王に決まっているのに、どうして月魄国の後宮に入りたいと思うのか。目的が分からない。
 とはいえ、寵姫ちょうき・朔月妃としては少々厄介な事態でも、白虎の凛花としてはまたとない機会だ。
 琥珀王女は、ずっと、長い間、人虎の王を戴いてきた国の金虎だ。きっと虎化について、凛花と紫曄の知らないことを知っている。黒虎の琥珀には知らされていない秘密も、きっとだ。

(王女と話す機会を作れたら……)

 いや、難しいだろう。相手は格上国の王太子。州侯しゅうこうの娘で、最下位の月妃である朔月妃が、『お茶会をしませんか』などと誘える相手ではない。それに、あちらが凛花をどう思っているのかも分からない。

(私が白虎ということは知っているはず)

 珍しい白虎だから気に入らない、珍しいから手に入れたい。それとも、虎の仲間と思ってもらえているか、なんとも思われていないか。

(疎まれていなければいいんだけど……)
「凛花さま」

 考えながら歩いていた凛花を、麗麗がそっと手で制止した。

「どうかしたの?」
「暁月宮が少々騒がしいような……」


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