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1.王子様の口説き文句が難解過ぎる

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「すまない。人違いだったようだ」

 低くよく通る声がようやく動き出した耳に届いた。
  視界はおぼろげでこちらを覗き込む彼の人の顔立ちははっきりしない。
 しかしそれでもその才覚と話術でもって人を惹きつける確固たる人物なのだろうと俊は思った。
 貴方ではない、と彼は言った。

 何の関係も無いのに巻き込んだと吐露した男性に俊は怒りすら覚えず、単に諦念を抱いたまま目を閉じた。酷く怠かった。
 数名のささやき声が少しの間鼓膜を震わせ、そして何もかも唐突に消えた。



 しどろもどろの声は空しく響く。
 俊は焦っていた。
 迫り来る陰に怯えながら、必死でその陰を説得していた。

 「ひ、人違いです」

 地味な人生を送ってきました。
 どこにでもいる高校教諭、立花俊の二十八年におよぶ人生はこれにつきる。
 有名な出だしをもじってみても何一つ心躍らない地味さだ。

 身を粉にして働いてきた五年間。
 地味に昇給して地味に昇格もした。
 地味地味尽くしの俊が何処にでもある昼下がり、何故か贅沢を尽くしたカーペットが敷かれた王宮の廊下で、超がつくイケメンの王子様に壁ドンされていた。

 どうやら異世界に転生したらしい。
 それも王子様が選り取り見取りの剣と魔法の世界系乙女ゲームの中に。


 三日ほど前、やけに肌触りが良い布団に包まれて俊は目を覚ました。
 欧州の宗教画のような絵が描かれた天井が目に入り、出た第一声は「へ?」だった。
 疑問符が散乱する頭で恐る恐る起き上がり辺りを見回した。
 アパートの自室の五倍はあるだろう馬鹿でかい部屋、その中央に置かれた天蓋付きのベッドに俊は寝ていた。

「俊様、おはようございます」

 二度目の「へ?」を発する直前にいきなりドアが開いた。
 ギャグ漫画もかくやというほど飛び上がった俊にお構いなく、恭しくもそそくさと頭を垂れた年配の女性が二、三人入ってきた。
 そこからはあっという間だった。

 高速でシルクのパジャマからよく分からない構造の服に着替えさせられ、質問する間もなく小洒落た洋風の朝ご飯を食べさせられ、さあ外で日光でも浴びてきてください! と部屋の外に放り出されたのだ。 呆然としたままこれまた豪華なワインレッドのカーペットの上で俊は自身の衣服を見下ろした。

 王子様。

 印象はまさにそれだった。
 直径一メートルはありそうなシャンデリアの光の粒に照らされながら、俊はひく、と右の口角が上がるのを感じた。

 詰め襟の膝上まである軍服のような上着とスラックスは真っ白で、肩や胸元にある飾りとボタンは金色。本物なのか分からないが蝶の刻印が入った装飾過多の短剣を腰に携えている。

 胸板は薄いし背だって百七十弱しかないし、黒目がちの大きな目と小ぶりな鼻と口は中性的で服に着られている感はいなめないが、俊の装いは王子様然とした王子様のものだった。

 再確認するが俊は並の中の真ん中の中間レベルの公立高校の教師だ。
 服装に馴染みがなさ過ぎる。だが、見覚えはあった。
 追い出された部屋の風景に、ダマスク調のようなカーペットの模様、そして身に纏っている服装に。

 いやまさかそんな。

 ないないと頭に浮かんだ最近流行のライトノベル設定を乾いた笑いで否定する。
 だが俊が今置かれている状況の説明はつかない。

 ともかくしっかり自身の有様を確認しようとお手洗いを探すことにした。
 前方に視線を走らせてみるが、気の遠くなるような長くて広い回廊と煌びやかな装飾を施された扉が並んでいるのが見えるだけだ。
 ならばと後ろを振り向いた途端、何かにぶつかった。

「失礼、大丈夫かい?」

 蜂蜜のような蕩ける美声、そして視界に入った人物にひく、と今度は左の口角が上がった。
 色こそ違うが俊と同じような王子様然とした服装、長身、長い足、ほどよく鍛えられた体、ハリウッドの恋愛映画の主人公のような顔面の男性に見覚えがありすぎた。

 三日前まで生活していた世界でプレイしていた乙女ゲームの攻略対象の一人、蝶国の第三王子である。

 一応弁解するが、俊は特に乙女ゲームは好きではない。
 仕事でむしゃくしゃしていたのでネット通販でゲームを片っ端から買い物籠にいれていたら、その中に紛れ込んでいただけだ。
 深夜に買物なんてするものではないと反省しつつ、興味本位でプレイしただけで、少しときめいたりもしたが別にそんなに好きではない。

 一人を除いて全員攻略したし他のゲームそっちのけで繰り返してプレイしたし続編が無いかと検索したこともあるけれど、別に気に入ってなんていない。

 まあともかくそこで最初に攻略した第三王子に、目の前の男性がもの凄く似ている。
 信じられずにじっとその男性を見ていると、俊の顔の横にとん、と手が置かれ、至近距離のそのご尊顔が迫った。それが全ての始まりだった。





「人違いなもんか。この烏の濡れ羽色に輝く絹のような髪、黒曜石のような瞳。君のような天使を見間違えるはずが無いさ」
「は、はぁ、さいですか……」

 ここ三日ずっと発している「人違いです」の訴えは聞き入れられたためしがない。

 と言うか誰だそれは。
 こちとら記憶の中では無難なだけの灰色の野暮ったいスーツに可も無く不可も無い紺色のネクタイを駆使していた、その辺にわんさかいるサラリーマンでしかないのだが。

 転生したら乙女ゲームの中だった。
 どっかで聞いたことがありすぎる始まりだ。
 だがこの三日でいやという程攻略対象に口説かれては認めざるを得ない。

 この世界に生まれ落ちて育った記憶はない。
 だが周囲の侍女達も皆一様に俊を王子様として扱っているし、字も読めるし言葉も通じる。総括すると異世界に転生し、記憶が蘇った拍子にこれまでの記憶が消えてしまったということになる。
 覚えていないがセオリー通りに行けば不慮の事故に遭ったのだ。

「痛かっただろう? 天国から落ちてきて……君という清らかな天使を逃すなんて神様もどうかしているよ」

 今日も今日とて、スタバの注文もかくやという呪文のような台詞をイケメンが熱っぽく囁いてくる。
 俊は背中を限界まで壁に押しつけ目頭を押さえた。
 君の傷ついた羽根を癒やす権利が欲しいだとかなんとか聞こえてきたが、もう目眩が酷くてそれどころではない。

 二十八歳、男、心がときめくのは異性という属性を持つ俊の転生先が、別に気に入ってなどいなかった乙女ゲームなのは一先ず置いておこう。

 前世に未練が無いと言えば嘘になるが、この三日で転生自体は受け入れられるようになった。
 転生先の王子様が社交界デビューに失敗して以来の引きこもりという設定のお陰か、危惧していたような「受けてきたはずの王子教育」が試されるなんて場面も無かった。
 なにより、王子様と言っても白タイツのカボチャパンツではなかったのは幸いだ。

 だがしかし。
 一つ言いたい。

 なぜヒロインを口説くべき王子様達は俊を口説いてくるのか!?

「君のその目が俺を狂わせるんだ。責任をとっておくれ」

 第八王子のやたら甘い決め顔が迫ってきた。
 つい、と頬に手がかかり俊は白目を剥いた。
 お手洗いは何処ですかの台詞でどうすれば狂わせたりできるのかこちらが知りたいし、狂ってしまったにしても、そちらの裁量でどうにか処理してほしい。
 だが俊の口は、へら、と営業スマイルを作った。相手は上位の王子様だ。失礼があれば手打ちにされてしまう。

「多分あっちですかね!? 広いのも大変ですよね! 有り難うございました! ではでは!」

 壁ドンのために伸ばされた腕の下をそそくさとくぐろうとするも、目にも止まらぬ華麗な所作で引き戻されてしまった。
 王子様は到底真似できないスマートな手つきで俊の横髪を掬い取ると、そこへ口づけを落とした。
 ぶわっと全身が総毛立った。

「だ、だから人違いですからー!!」

 叫ぶやいなや壁づたいに背中で滑り落ち、相手が度肝を抜かれている隙に長い足の間をくぐって逃げ出すと、絨毯の上を全力疾走した。

 自慢ではないが体力は無い。
 だが持てる限りの力をだし、目に入った階段を上へ下へと逃げた。
 何度目かの角を曲がると壁に背をつけ後ろを窺った。

 王子様の姿は無い。
 はー、ともふー、とも言えない発音の息を吐き、俊はその場にへたり込んだ。

 ここ三日、少しでもよろけると逞しい腕が支えに来る。
 長くもない俊の髪が何故か誰かのボタンに引っかかり、困った顔をした王子様が優しく解いてくれる。
 指を怪我して血が出ると絶対誰か見目麗しい王子様がやってきて傷を嘗めようとする……とあげたらキリが無い。
 しかも先刻のようにやたらめったら壁ドンされる。 

「ヒロインは一体何をしてるんだ……」

 王宮を取り囲む広大な庭の花壇は色を無くし、反比例したように色づいた木立からは人恋しくなる秋の気配がしている。
 パワハラに疲れ果てた日本のOLが異世界に飛ばされ、王子様との危険でリスキーでビタースイートでラビリンスなゲーム~貴方の灼熱の瞳に囚われて~が始まるのも秋だった。

 ちなみに危険でリスキー云々はゲームパッケージに載っていた謳い文句であって、俊が創作した文章ではない。断じてない。

 職務怠慢か? 
 あることを思いつき、俊は顔を上げた。

 ヒロインの到着が何らかの理由により遅延、そのせいで攻略対象達が持て余したスパダリ要素をヒロイン以外にも発揮しているのかもしれない。

「ええー……」

 自身の仮説にまたまた目眩を覚え、膝を抱えた。
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