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夫婦鼓
門前
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真咲に続いて門を潜りかけた美葛は思わず足を引っ込めた。
今は隠してある尻尾の毛がぞわぞわぞわっと太るのを感じた。
厳めしい瓦屋根を葺き下ろした棟門の立派さに気後れしたから――、だけではない。敷地一帯に、何やら妖しげな黒いもやもやが漂っているのが見えたのだ。
美葛は二の腕を擦った。もう何度思ったか知れないことをまた思った。都って怖い。生国、常陸国ではこんな薄気味悪いもの見たことがない。
「美葛?」
門の向こうで真咲が振り向いた。
「何してる。行くぞ。もゆらが待ってる」
ただの人である真咲の目にはこの不気味な黒雲が映らないらしい。
くたびれた捼烏帽子の頭を傾げ傾げ、彼は引き返してきた。
「早く来いよ。あの無愛想を待たせるとあれだぞ、またどぎつい言葉が飛んでくるぞ」
「うう、分かってるけど……」
「田舎者扱いされたり、畜生呼ばわりされたり」
「どっちも合ってるけど……」
美葛はきょろきょろと辺りを見回し、小路を行く人のまばらなことを確かめた。爪先立って、真咲の耳元で声を潜めた。
「この屋敷、本当によくないよ。何か、もやもやした黒い雲みたいなのが広がってる」
「また俺には見えない物の話か。多いなあ、都に着いてから」
「そういう土地柄っぽいよ」
暗がりに息を潜めるもの、物陰にひっそり佇むもの、我が物顔で道を塞ぐもの――。常陸国から都に至るまでの長い旅の間に、美葛は人ならざるものたちに何度も行き逢った。呆れたことに、そのすべてを足しても足りないほどの数を、都ではたった一日二日で見ることができた。
「その黒い雲ってあれか、例の消えた鼓の話と関わりがあるのか?」
「知らない。でもよくないってことだけは分かるの。ねえ真咲、もう帰ろう?」
「帰るってどこに。信太の里に? 半年もかかってようやく都に着いたのに?」
俺はな美葛、と真咲は着古した衣の胸を叩いた。
「聞き飽きただろうが、死んだお袋との約束を果たすまで里の土は踏まないと決めた身だ。止めないから、帰りたいなら勝手に帰れ」
「里に帰ろうって話じゃないよ。私だって、立派な狐になろうと決めて修行に来た身なんだから。ただ、この屋敷に入るのは止そうって言ってるの」
「なお悪い。こいつは罪滅ぼしを兼ねて任された仕事だぞ。放って帰れるか。もやもやか何か知らないが辛抱しろ。さっさとあの尼さんに借りた銭を返さないと、約束も修行も何も始まらないぞ。それに、お前だってずっとそのままじゃ嫌だろうに」
尖った耳があれば力なく垂れていたところだった。
しかし今の美葛にはそれすらままならない。
ある尼僧の法力によって、狐の姿に戻れなくされてしまったからだ。
代わりに、美葛は思い切り唇を尖らせた。
「どうして団栗の銭で餅を買ったくらいでこんな目に……。鄙と都じゃ大違いだね」
「鄙でだって罪は罪だけどな。言われただろう、団栗を銭に見せかけることは私鋳銭を拵えたも同然だって」
「しちゅうせん、って何だっけ」
「そりゃあ私に鋳た銭のことだろう。徒罪に当たるらしいぞ」
「ずざい」
「どうかすると死ぬまで獄暮らしだ」
ひとや、の響きの冷めた陰気さに美葛はまた身震いした。よく知らないが、愉快な場所でないことは真咲の険しい顔つきからも間違いない。
なるほど、思い返せば、団栗の銭を掴まされたと知った餅売りは日に焼けた顔を真っ赤にしていた。烏帽子も燃え上がらんばかりに怒っていた。ああまで怒らせるだけの罪を犯してしまったのだなあ、と改めて考えると、さすがに気が滅入る。
まあ何だ、と真咲が俯いた美葛の顔を覗き込んだ。
「何度も言ったけど、頼むからもうあんなことするなよ?」
「あれだけの餅を食べた口でよく言うよね」
「満ち足りて初めて言えることもある。本当、死にそうだったからな。腹が減って」
「飢え死にしそうな真咲を見てられなかったから、だから私は団栗を銭に変えて」
「分かってる分かってる。気を遣わせて悪かったと思ってる。さあほら、切り替えて、早いとこ消えた鼓とやらを見つけ出してやろう。お前の鼻が頼りだぞ」
と、真咲が美葛の肩に大きな手を置いた時だった。
「往来でいちゃいちゃするのは止していただけますか」
冷やかなその声は門柱の陰から聞こえた。
肩で揃えた尼削ぎの髪の、左耳の辺りに挿した白い椿の花が愛らしい。歳の頃なら十ばかりと思しい童女が、うっかり犬の落とし物でも踏んだような、実に不愉快そうな顔でこちらを見ていた。
真咲が手を引っ込めた。美葛も真咲から一歩離れた。何ということもないはずの美葛と真咲のやり取りが、尼僧に仕える娘の目にはどう映ったのだろう、もゆらは、ああそういえばと白々しいほど平坦な声で続けた。
「今頃はちょうど盛りの季節ですものね、狐の。つるみたくてつるみたくて仕方がないのでしょう。でもどうかご辛抱願えませんか。今そこで事に及ばれると連れてきた私が困りますので」
「盛ってなんかない。私、これでもまだ一歳半だよ」
「そんなこと真咲殿はちっとも気にしませんよ」
「おい」
会って二日目にして言いたい放題。もゆらは、眉を寄せた美葛と歯噛みをする真咲が何か言う前に踵を返した。肩越しに振り向いた。罪人を見下す、険しい上にも険しい目つきだった。
「どうぞ中へ。皆様とうにお待ちですので」
今は隠してある尻尾の毛がぞわぞわぞわっと太るのを感じた。
厳めしい瓦屋根を葺き下ろした棟門の立派さに気後れしたから――、だけではない。敷地一帯に、何やら妖しげな黒いもやもやが漂っているのが見えたのだ。
美葛は二の腕を擦った。もう何度思ったか知れないことをまた思った。都って怖い。生国、常陸国ではこんな薄気味悪いもの見たことがない。
「美葛?」
門の向こうで真咲が振り向いた。
「何してる。行くぞ。もゆらが待ってる」
ただの人である真咲の目にはこの不気味な黒雲が映らないらしい。
くたびれた捼烏帽子の頭を傾げ傾げ、彼は引き返してきた。
「早く来いよ。あの無愛想を待たせるとあれだぞ、またどぎつい言葉が飛んでくるぞ」
「うう、分かってるけど……」
「田舎者扱いされたり、畜生呼ばわりされたり」
「どっちも合ってるけど……」
美葛はきょろきょろと辺りを見回し、小路を行く人のまばらなことを確かめた。爪先立って、真咲の耳元で声を潜めた。
「この屋敷、本当によくないよ。何か、もやもやした黒い雲みたいなのが広がってる」
「また俺には見えない物の話か。多いなあ、都に着いてから」
「そういう土地柄っぽいよ」
暗がりに息を潜めるもの、物陰にひっそり佇むもの、我が物顔で道を塞ぐもの――。常陸国から都に至るまでの長い旅の間に、美葛は人ならざるものたちに何度も行き逢った。呆れたことに、そのすべてを足しても足りないほどの数を、都ではたった一日二日で見ることができた。
「その黒い雲ってあれか、例の消えた鼓の話と関わりがあるのか?」
「知らない。でもよくないってことだけは分かるの。ねえ真咲、もう帰ろう?」
「帰るってどこに。信太の里に? 半年もかかってようやく都に着いたのに?」
俺はな美葛、と真咲は着古した衣の胸を叩いた。
「聞き飽きただろうが、死んだお袋との約束を果たすまで里の土は踏まないと決めた身だ。止めないから、帰りたいなら勝手に帰れ」
「里に帰ろうって話じゃないよ。私だって、立派な狐になろうと決めて修行に来た身なんだから。ただ、この屋敷に入るのは止そうって言ってるの」
「なお悪い。こいつは罪滅ぼしを兼ねて任された仕事だぞ。放って帰れるか。もやもやか何か知らないが辛抱しろ。さっさとあの尼さんに借りた銭を返さないと、約束も修行も何も始まらないぞ。それに、お前だってずっとそのままじゃ嫌だろうに」
尖った耳があれば力なく垂れていたところだった。
しかし今の美葛にはそれすらままならない。
ある尼僧の法力によって、狐の姿に戻れなくされてしまったからだ。
代わりに、美葛は思い切り唇を尖らせた。
「どうして団栗の銭で餅を買ったくらいでこんな目に……。鄙と都じゃ大違いだね」
「鄙でだって罪は罪だけどな。言われただろう、団栗を銭に見せかけることは私鋳銭を拵えたも同然だって」
「しちゅうせん、って何だっけ」
「そりゃあ私に鋳た銭のことだろう。徒罪に当たるらしいぞ」
「ずざい」
「どうかすると死ぬまで獄暮らしだ」
ひとや、の響きの冷めた陰気さに美葛はまた身震いした。よく知らないが、愉快な場所でないことは真咲の険しい顔つきからも間違いない。
なるほど、思い返せば、団栗の銭を掴まされたと知った餅売りは日に焼けた顔を真っ赤にしていた。烏帽子も燃え上がらんばかりに怒っていた。ああまで怒らせるだけの罪を犯してしまったのだなあ、と改めて考えると、さすがに気が滅入る。
まあ何だ、と真咲が俯いた美葛の顔を覗き込んだ。
「何度も言ったけど、頼むからもうあんなことするなよ?」
「あれだけの餅を食べた口でよく言うよね」
「満ち足りて初めて言えることもある。本当、死にそうだったからな。腹が減って」
「飢え死にしそうな真咲を見てられなかったから、だから私は団栗を銭に変えて」
「分かってる分かってる。気を遣わせて悪かったと思ってる。さあほら、切り替えて、早いとこ消えた鼓とやらを見つけ出してやろう。お前の鼻が頼りだぞ」
と、真咲が美葛の肩に大きな手を置いた時だった。
「往来でいちゃいちゃするのは止していただけますか」
冷やかなその声は門柱の陰から聞こえた。
肩で揃えた尼削ぎの髪の、左耳の辺りに挿した白い椿の花が愛らしい。歳の頃なら十ばかりと思しい童女が、うっかり犬の落とし物でも踏んだような、実に不愉快そうな顔でこちらを見ていた。
真咲が手を引っ込めた。美葛も真咲から一歩離れた。何ということもないはずの美葛と真咲のやり取りが、尼僧に仕える娘の目にはどう映ったのだろう、もゆらは、ああそういえばと白々しいほど平坦な声で続けた。
「今頃はちょうど盛りの季節ですものね、狐の。つるみたくてつるみたくて仕方がないのでしょう。でもどうかご辛抱願えませんか。今そこで事に及ばれると連れてきた私が困りますので」
「盛ってなんかない。私、これでもまだ一歳半だよ」
「そんなこと真咲殿はちっとも気にしませんよ」
「おい」
会って二日目にして言いたい放題。もゆらは、眉を寄せた美葛と歯噛みをする真咲が何か言う前に踵を返した。肩越しに振り向いた。罪人を見下す、険しい上にも険しい目つきだった。
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