玉の天意・大奥大乱の巻

雪影

文字の大きさ
56 / 71

【第三章】女帝の最期(二)

しおりを挟む
 翌日、今度は将軍家光が春日局のもとをたずねた。
「福、話しは万より聞いた。後生だから薬を飲んでくれ」
 しかし、春日局はかすかに苦笑いを浮かべるだけだった。
「福よ、わしのことを一番よく知っておるのは、誰でもないそなたじゃ。わしから将軍という肩書を取れば、後はなにも残らぬ。万も玉も楽も、そのようなわしを愛してはくれぬ。それでもわしを愛してくれるのは、福そなただけじゃ」
 と将軍は必死の懇願をした。
「まことにもったいのうお言葉、なれど私はもうお側におることかないませぬ。私の体は、私が一番よう知っております。例え薬を飲んだとて、私はもはや病には勝てませぬ。私の生涯の望みは、力なきおなごでも、安堵して生きていける世をつくること。どうか、どうか上様、かような世がおとずれるようお力を……」
 と精一杯声を出していう。
「今一つ申しあげてもようございますか」
「何なりと申せ」
「昨日、万に申そうと思って、ついに申せなかったことにございます。玉のことにございます。あの女は油断なりませぬ。我亡き後、いつの日にか大奥に災いをもたらす時がくるやもしれませぬ。上様、決してあの女に心を許してはなりませぬぞ」
「あいわかった。心に留めておく」
「これでもう安心にございます。しばし休ませてくだされい」
 といって春日局は目を閉じた。
  家光も去り、春日局は再び深い眠りにおちいった。そして不思議な夢を見た。
 
 ……首から写真機をぶら下げた老人は、麟祥院の方角に目をやりながらしばし物思いにふけっていた。
「旦那様、かようなところにおいででございましたか? 探しましたぞ。このようなところで何をしておいでです」
 と使用人らしい男が声をかけた。
「いや何、春日様は今の世にどのような思いを抱いておいでか、ふと考えたのよ」
 とこの冷徹な男にしてみれば、妙に感傷的なことをいいだした。
「わしが将軍職を、朝廷に返上してから早半世紀が過ぎた。栄華盛衰は世ならい。今にして思えば、わしがいかように手をくだそうと、徳川は滅ぶべくして滅んだのだ。鉄道、自動車、戦場には戦車。他にも数えきれないほどの文明の利器、かような時代まで、徳川は生きながらえることはできなかったのだ」
 と老人は年齢のせいもあってか、憂いに満ちた表情を浮かべた。
「まあ、あっしらが若い頃は、鎖国政策は日本国の神代以来連綿と続いてきたものとばかり思っておりました。春日様の時代からと初めて知った時は、本当に仰天いたしました」
 と使用人の男は苦笑しながらいった。
「余が知るかぎり、春日様がお亡くなりになったちょうどその年、中華では明が滅んで清がおこった。その清も昨年滅んで中華民国となった。今一つ幕府と関係をたもっていたオランダは、春日様の時代は西欧一の強国だった。強国だったが故に、他の西欧の国々との競争に勝利して、我が国との交易の利を独占できたのじゃ。キリスト教だけの問題ではない。
 なれど長い歳月の間に、オランダもまた弱体化した。やがてはエゲレス(イギリス)が覇権国となった。我が国は、そのような世界情勢の変転に、まったくついてゆくことができなかった。
 日露戦争とて、我が国の力だけで勝てたのではない。日英同盟があったればこそじゃ。だが日英同盟は、もしかしたら百年遅かったやもしれぬ。
 徳川の世もはるか遠くになった今となり、時折思うのじゃ。まこと鎖国は我が国の歩むべき道だったのかとな。この国の民すべてを、まるで大奥の女たちのように、籠の鳥にしてしまうのが正しきことだったのか否か……」
 老人はいっそう悲し気な表情をうかべた。

 ……春日局は、ようやく夢からさめた。すでに夢の内容のほとんどは忘れていた。そして間もなく容態が急変した。
 将軍家光は、どうやって春日局に薬を飲ませるか思案していた。しかし危篤に陥ったとの報に接し、すぐに枕元に急行する。
「福、しっかりせい!」
 春日局は薄目を開いた。
「上様……食が細うございますなあ。かようなことでは、福は行く末気がかりにございまする」
 これが最後の言葉となった。春日局、本名福享年六十四歳。女傑といえばこれほどの女傑も珍しく、悪女といえば日本史上類まれな悪女であったろう。その運命は本能寺の変、関ヶ原の合戦と日本国の数百年後までも左右する重大事により、つねに変転した。
 彼女の存在なくば、家光のような欠陥人間が将軍として君臨できたか、それさえも怪しい。また家光を取り巻く幕閣の面々も多くが、春日局に幼少の頃より世話になった者ばかりだった。事実上、幕政を操る影の将軍であったといっても過言ではない。日本国のその後さえも、大きく左右したといっても言い過ぎではないかもしれない。春日局の死と共に、大奥にも新たな風が吹こうとしていたのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】 3巻からは戦争編になります。 戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。 ※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...