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牧野成貞の受難
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将軍綱吉の「御成り」は、吉保の屋敷だけではなかった。吉保同様に側近中の側近、側用人で牧野成貞の屋敷にも足をはこんだ。成貞は吉保より十二歳年長で、初老の域に達した老練な政治家だった。
吉保の時と同様、将軍の来訪は数カ月前から知らされていた。そのため成貞もまた屋敷の大改装を行う。
当日はあいにくと小雨の日だった。綱吉は数名の家臣と小姓、それに太刀持ちなどと共に、あまり派手でない衣装で姿をあらわす。将軍一行は屋敷の中へ案内され、渡り廊下を通る。そして新たに新築された離れ家に通された。
この建物は座敷と控えの間の二間しかない。将軍が上座につき、しかるべき儀式がおこなわれた。そして妻のお久里、長女のお安他三人の娘、お安の婿の成時などが将軍に拝謁する。
新たに設けられた離れ家は地味ではあるが、そこから一望できる庭には、趣向が凝らされていた。巻き上げられた簾の向こうには竹が群生しており、それがどこまでも続いているかのような錯覚さえおこさせた。特にこの日は小雨であるがため、竹林がなんともいえぬ風情をかもしだしていた。
やはり吉保の時と同様に、綱吉による儒学の講義が行われ、その後は成貞の三人の娘たちが、琴や笛などにあわせて舞を舞ってみせた。さらに成貞は、この日のために将軍の夜伽の相手の女までも数名用意していた。しかし、綱吉が選んだのはそのいずれでもなかった。
「お久里そなたは残れ。他の者はさがってよいぞ」
その場にいた誰しもが、思わぬ成りゆきにしばし沈黙した。成貞の妻お久里の困惑はもちろんであるが、成貞自身もまた、あまりのことに驚きの色をうかべる。
お久里は、かって綱吉の母桂昌院に侍女として仕えていた。綱吉の脳裏にそのおりのお久里のことが、まだ心に残っていた。とはいえ、お久里はすでに四十半ばである。
「恐れながら、我が妻はこの通り容色も衰えた身なれば、上様の相手をつとめるにはちと不足かと」
成貞は薄ら笑いを浮かべてはいるが、目は笑っていない。しかしこういう時の将軍は執拗だった。
「成貞そなたの忠義は、この綱吉よう存じておる。じき、そなたには新たな領地を与えるつもりでおる。わかっておろうな成貞」
新たな領地と妻を引き換えにせよというのである。ついに成貞は引き下がるより他なかった。
やがて成貞と三人の娘、それに娘婿の成時等が息をこらして事態を見守る中、障子の向こうから、あきらかに尋常ではないお久里の声が聞こえてくる。成貞はじっと拳を握りしめて、この屈辱にたえるより他なかった。
この「御成り」から数日後のことであった。江戸城中奥・休息の間にて、将軍は奥泊まりするわけでもなしに、秋の涼しい夜をあかしていた。
丑の刻(午前三時)ほどのことであった。将軍は己しかいないはずの寝所で、何者かの気配を感じて目をさました。
「気のせいか?」
ふたたび寝床につこうとした将軍は、この時ある異変に気付いた。将軍の寝所の襖には、鶴や亀などの縁起物が描かれている。さらに王朝時代の美しい女の姿なども描かれていた。ところが先刻まで目を閉じていたはずの襖に描かれた女が、いつの間にか目を見開いており、将軍の方を見ていたのである。
「誰かおらぬか!」
将軍はさけんだが、普段ならすぐに姿をあらわすはずの小姓が、この日は一人も姿を見せない。
「お呼びでございますか?」
背後から明らかに女の声がした。しかし、ここに女がいるはずがない。将軍はいよいよ得体の知れない恐怖にかられた。その時だった、突如として何者かが将軍の
口をふさいだ。
「無礼者!」
叫ぼうにもすごい力である。声もほとんどでなかった。女は十二単をまとっていた。何故ここにいるのか? 将軍の寝所には、他の何人も立ち入りできぬはずである。
「許せよ、わらわが復讐をとげるため、そなたの力を貸してほしい」
将軍は呼吸ができず、意識が遠のいていく。そして、由希がまだ生きていた時代らしき世界へと誘われた。
吉保の時と同様、将軍の来訪は数カ月前から知らされていた。そのため成貞もまた屋敷の大改装を行う。
当日はあいにくと小雨の日だった。綱吉は数名の家臣と小姓、それに太刀持ちなどと共に、あまり派手でない衣装で姿をあらわす。将軍一行は屋敷の中へ案内され、渡り廊下を通る。そして新たに新築された離れ家に通された。
この建物は座敷と控えの間の二間しかない。将軍が上座につき、しかるべき儀式がおこなわれた。そして妻のお久里、長女のお安他三人の娘、お安の婿の成時などが将軍に拝謁する。
新たに設けられた離れ家は地味ではあるが、そこから一望できる庭には、趣向が凝らされていた。巻き上げられた簾の向こうには竹が群生しており、それがどこまでも続いているかのような錯覚さえおこさせた。特にこの日は小雨であるがため、竹林がなんともいえぬ風情をかもしだしていた。
やはり吉保の時と同様に、綱吉による儒学の講義が行われ、その後は成貞の三人の娘たちが、琴や笛などにあわせて舞を舞ってみせた。さらに成貞は、この日のために将軍の夜伽の相手の女までも数名用意していた。しかし、綱吉が選んだのはそのいずれでもなかった。
「お久里そなたは残れ。他の者はさがってよいぞ」
その場にいた誰しもが、思わぬ成りゆきにしばし沈黙した。成貞の妻お久里の困惑はもちろんであるが、成貞自身もまた、あまりのことに驚きの色をうかべる。
お久里は、かって綱吉の母桂昌院に侍女として仕えていた。綱吉の脳裏にそのおりのお久里のことが、まだ心に残っていた。とはいえ、お久里はすでに四十半ばである。
「恐れながら、我が妻はこの通り容色も衰えた身なれば、上様の相手をつとめるにはちと不足かと」
成貞は薄ら笑いを浮かべてはいるが、目は笑っていない。しかしこういう時の将軍は執拗だった。
「成貞そなたの忠義は、この綱吉よう存じておる。じき、そなたには新たな領地を与えるつもりでおる。わかっておろうな成貞」
新たな領地と妻を引き換えにせよというのである。ついに成貞は引き下がるより他なかった。
やがて成貞と三人の娘、それに娘婿の成時等が息をこらして事態を見守る中、障子の向こうから、あきらかに尋常ではないお久里の声が聞こえてくる。成貞はじっと拳を握りしめて、この屈辱にたえるより他なかった。
この「御成り」から数日後のことであった。江戸城中奥・休息の間にて、将軍は奥泊まりするわけでもなしに、秋の涼しい夜をあかしていた。
丑の刻(午前三時)ほどのことであった。将軍は己しかいないはずの寝所で、何者かの気配を感じて目をさました。
「気のせいか?」
ふたたび寝床につこうとした将軍は、この時ある異変に気付いた。将軍の寝所の襖には、鶴や亀などの縁起物が描かれている。さらに王朝時代の美しい女の姿なども描かれていた。ところが先刻まで目を閉じていたはずの襖に描かれた女が、いつの間にか目を見開いており、将軍の方を見ていたのである。
「誰かおらぬか!」
将軍はさけんだが、普段ならすぐに姿をあらわすはずの小姓が、この日は一人も姿を見せない。
「お呼びでございますか?」
背後から明らかに女の声がした。しかし、ここに女がいるはずがない。将軍はいよいよ得体の知れない恐怖にかられた。その時だった、突如として何者かが将軍の
口をふさいだ。
「無礼者!」
叫ぼうにもすごい力である。声もほとんどでなかった。女は十二単をまとっていた。何故ここにいるのか? 将軍の寝所には、他の何人も立ち入りできぬはずである。
「許せよ、わらわが復讐をとげるため、そなたの力を貸してほしい」
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