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24.恋は罪悪にして
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アレクシスと出会ったのは、わたくしが騎士となるために鍛錬を始めた数年後のことだった。
「――きみがサラージュ?」
星のような人だと思った。
社交の場での輝かしい笑みや振る舞いを見て太陽と呼ぶ人もいるけれど、そのライトグリーンの瞳の優しくも凪いだ光は星に似ている。蠍の心臓よりもなお輝かしい、天秤に輝く緑の星。
それを告げれば一瞬きょとんとして、あどけない笑みが咲いた。
「星はぼくじゃなくてきみの方だよ。サラージュ――夜闇の守り人の血を引く、美しい星のひと」
まだ大仰な一人称を使いだす前だったせいもあり、その言葉は心根に似合う柔らかな音をしていた。
そのころのわたくしは、いかにして民を守りそして有意義に命を使い切るかばかり考えている子供だった。
まだ婚約を申し入れられてもいなかったので、自分が王太子妃どころか誰かと夫婦になることさえ意識していなかった。
なにせ、騎士になるべく邪魔な髪は貴族の子女としてギリギリ許される範囲で短くしていたし、手のひらだって剣ダコで決して貴族的な優美さとは程遠いものになっていたのだ。いくら顔の造作が母に似ていようが曾祖母譲りの色彩を持っていようが、意味がないほどに。
貴族であればまず好んで選びはしない跳ねっかえりこそが、そのころのサラージュ・ネクタルだった。
それを恥ずかしいとも、悔いることもない。ただ事実として、岩石に含有されたままの鉱石や毛並みの整えられていない野生動物に等しい粗削りな容姿の子供であった自覚があるだけだ。
けれど――アレクシスは、そんなわたくしを宝物のように扱った。
家族にも大切にはされていたけれど、それを上回るような珍重ぶり。真綿で包み、あらゆる穢れから保護するように丁寧に丁寧に囲い込まれ、蝶よ花よと囲われる。
物心がつくかつかないかという齢三つの時に騎士になる決心を固め、その望みを尊重する家族と領民しか知らなかったわたくしにとって、それは未知の愛だった。
わたくしはそんな彼のことが、本当は、怖くて怖くて仕方がなかった。
そんな甘やかな庇護はいらない。
そんなものを与えられては、死ぬときに悔いが残ってしまう。
そんなに、優しくしないで。
わたくしは、命を民のために使い切らなくてはならないのだから。
今思えば、幼子が華やかな幸福の裏にある無数の民の死を直視したが故の強迫観念と言われても仕方がないし、今に至るまで家族がそれを案じていたのだとわかる。
けれど当時のわたくしにとっては、かけがえのない信念であり初期衝動だった。活力だった。
仄暗い、死への憧憬だった。
――そんなわたくしに、彼の放つ星のような光はあまりにも眩しすぎた。
近づくほどにありもしない翼が融け落ちてしまいそうな気持ちになった。
だから、彼からの好意を薄々感じ取りながらも応える気などまるでなかったというのに。
「ぼくの、お嫁さんになってくれませんか」
アレクシスの真っ赤な顔は、今でもよく思い出せる。
花畑の中でいっぱしの大人のように片膝をつき、万感の想いを胸いっぱいに蓄えた甘い声でそれを告げる。それは、理想の王子様というにはあまりに必死さが滲んでいた。『運命』への一世一代のプロポーズだったと知った今ならばその気合の入れようも納得できるが、当時のわたくしにはまるでわからなかった。
だって、彼は王太子だ。
望めばいい。命じればいい。
相手は処刑される予定の聖人でもなければ、遠い国の女王でもない。ただの臣下の娘だ。
巷でいくら自由恋愛が流行ろうが、本人が騎士になろうと奮闘していようが、彼にとってはそんなことはどうにでもなるものだろう。
だというのに、アレクシスがそれを振りかざすことはなかった。
それを誠実というものもいるだろうけれど、この手を掬い取った掌はそんな風に呼ぶにはあまりにも熱く、強かった。
「サラージュが望むなら、領地を離れなくてもいい。騎士になることだって応援する。他に好きな人がいる……っていう、なら……父上のような形でもいい。お願いだ。ぼくをきみの隣に居続けるひとりとして、どうか選んで」
ハレム型ではないアレクシスにとって、『運命』を独占出来ないその提案は塗炭の苦しみであったことは想像に難くない。だが、そんなことを持ち出してまで繋ぎ留めたかったのだろう。
当時のわたくしは当然そんな裏事情など知る由もないけれど、気迫は伝わった。
――星のようだった彼の持つ剥き出しの欲望に、初めて触れたのだ。
(あ、このひと、人間だったんだ)
キラキラ光る星の王子様。童話の中にしか生きられない、穢れなき人。
そんな虚飾が剥がれて顔をのぞかせた彼は、なんてことない一つ年上の男の子だった。
ほんの数回あっただけの人間の日常のためには死ねない人だ。明確に、欲望で動いている。
真綿の愛が欲であることに――わたくしは、安堵した。
まだ、星に報いることすらできていないのだから、これ以上背負うわけにはいかない。
見返りを求めない無償の献身など、わたくしには重すぎる。
けれど。
その想いが欲であるならば。
その魂が英傑でないのならば。
わたくしでも、等価を返せると思った。
恋ではなくとも、愛を。
愛ではなくとも、情を。
――身勝手な話だ。
たしかにそんな関係性を成立させることは、不可能ではないだろう。
ネクタル家は曾祖父と曾祖母の大恋愛をきっかけにしたのか世間に先駆けて恋愛結婚が主流になっているため身近とは言えないが、他の家では家同士の関係を重視して個人の関係性などは後から構築する、なんてことは珍しい話ではない。夫婦関係が恋ではなく家族愛や戦友といったもので構築されることもありふれている。
だがそれは、お互いの感情を擦り合わせることを怠らず、理解しようと歩み寄った先の出来事だ。
相手の想いを端から軽く見積もって、自分の願望にすら蓋をし『恋』と偽ってラベルを貼って。
それで等価になど、なるものか。
すべてを曝け出さなければ悪などと言うつもりはないが、差し出されたものの重みを知ってなお相手を軽んじることは罪だろう。
そんなことをした身で、好きになりました?
今さらながら、自分も同じものを差し出せます?
なんて、傲慢。
ほんとうに、身勝手で、醜悪で、気持ちの悪い生き物だ。――いやになる。
そんなことだから、誰より泣かせたくない人を泣かせるのだ。
傷つけて、負わなくてもいい咎を負わせることになるのだ。
無自覚だったのが自覚しただけならばまだ救いようもあった。けれど、わたくしはもう、しかと理解している。
彼の牙が突き刺さるその瞬間まで、わたくしはアレクシスに恋などしていなかった。
決定的な痛みを与えられ、真綿を突き破られ、そこでようやく恋に落ちたのだと――狼としての貴方に、魅入られたのだと。
理解してしまった。
可哀想なアレクシス。
わたくしなどを星と見間違えてしまったきれいな貴方。
このような女を運命などというのはおやめになって、どうぞ幸せになってくださいな。
けれど、もし。
もしも貴方が、この赤い糸を手放せないというならば。
御自分の手に絡めたままわたくしの糸だけを解こうというのならば。
そのときは。
――つぶやいた声に応えるように、シトラスが香った。
「――きみがサラージュ?」
星のような人だと思った。
社交の場での輝かしい笑みや振る舞いを見て太陽と呼ぶ人もいるけれど、そのライトグリーンの瞳の優しくも凪いだ光は星に似ている。蠍の心臓よりもなお輝かしい、天秤に輝く緑の星。
それを告げれば一瞬きょとんとして、あどけない笑みが咲いた。
「星はぼくじゃなくてきみの方だよ。サラージュ――夜闇の守り人の血を引く、美しい星のひと」
まだ大仰な一人称を使いだす前だったせいもあり、その言葉は心根に似合う柔らかな音をしていた。
そのころのわたくしは、いかにして民を守りそして有意義に命を使い切るかばかり考えている子供だった。
まだ婚約を申し入れられてもいなかったので、自分が王太子妃どころか誰かと夫婦になることさえ意識していなかった。
なにせ、騎士になるべく邪魔な髪は貴族の子女としてギリギリ許される範囲で短くしていたし、手のひらだって剣ダコで決して貴族的な優美さとは程遠いものになっていたのだ。いくら顔の造作が母に似ていようが曾祖母譲りの色彩を持っていようが、意味がないほどに。
貴族であればまず好んで選びはしない跳ねっかえりこそが、そのころのサラージュ・ネクタルだった。
それを恥ずかしいとも、悔いることもない。ただ事実として、岩石に含有されたままの鉱石や毛並みの整えられていない野生動物に等しい粗削りな容姿の子供であった自覚があるだけだ。
けれど――アレクシスは、そんなわたくしを宝物のように扱った。
家族にも大切にはされていたけれど、それを上回るような珍重ぶり。真綿で包み、あらゆる穢れから保護するように丁寧に丁寧に囲い込まれ、蝶よ花よと囲われる。
物心がつくかつかないかという齢三つの時に騎士になる決心を固め、その望みを尊重する家族と領民しか知らなかったわたくしにとって、それは未知の愛だった。
わたくしはそんな彼のことが、本当は、怖くて怖くて仕方がなかった。
そんな甘やかな庇護はいらない。
そんなものを与えられては、死ぬときに悔いが残ってしまう。
そんなに、優しくしないで。
わたくしは、命を民のために使い切らなくてはならないのだから。
今思えば、幼子が華やかな幸福の裏にある無数の民の死を直視したが故の強迫観念と言われても仕方がないし、今に至るまで家族がそれを案じていたのだとわかる。
けれど当時のわたくしにとっては、かけがえのない信念であり初期衝動だった。活力だった。
仄暗い、死への憧憬だった。
――そんなわたくしに、彼の放つ星のような光はあまりにも眩しすぎた。
近づくほどにありもしない翼が融け落ちてしまいそうな気持ちになった。
だから、彼からの好意を薄々感じ取りながらも応える気などまるでなかったというのに。
「ぼくの、お嫁さんになってくれませんか」
アレクシスの真っ赤な顔は、今でもよく思い出せる。
花畑の中でいっぱしの大人のように片膝をつき、万感の想いを胸いっぱいに蓄えた甘い声でそれを告げる。それは、理想の王子様というにはあまりに必死さが滲んでいた。『運命』への一世一代のプロポーズだったと知った今ならばその気合の入れようも納得できるが、当時のわたくしにはまるでわからなかった。
だって、彼は王太子だ。
望めばいい。命じればいい。
相手は処刑される予定の聖人でもなければ、遠い国の女王でもない。ただの臣下の娘だ。
巷でいくら自由恋愛が流行ろうが、本人が騎士になろうと奮闘していようが、彼にとってはそんなことはどうにでもなるものだろう。
だというのに、アレクシスがそれを振りかざすことはなかった。
それを誠実というものもいるだろうけれど、この手を掬い取った掌はそんな風に呼ぶにはあまりにも熱く、強かった。
「サラージュが望むなら、領地を離れなくてもいい。騎士になることだって応援する。他に好きな人がいる……っていう、なら……父上のような形でもいい。お願いだ。ぼくをきみの隣に居続けるひとりとして、どうか選んで」
ハレム型ではないアレクシスにとって、『運命』を独占出来ないその提案は塗炭の苦しみであったことは想像に難くない。だが、そんなことを持ち出してまで繋ぎ留めたかったのだろう。
当時のわたくしは当然そんな裏事情など知る由もないけれど、気迫は伝わった。
――星のようだった彼の持つ剥き出しの欲望に、初めて触れたのだ。
(あ、このひと、人間だったんだ)
キラキラ光る星の王子様。童話の中にしか生きられない、穢れなき人。
そんな虚飾が剥がれて顔をのぞかせた彼は、なんてことない一つ年上の男の子だった。
ほんの数回あっただけの人間の日常のためには死ねない人だ。明確に、欲望で動いている。
真綿の愛が欲であることに――わたくしは、安堵した。
まだ、星に報いることすらできていないのだから、これ以上背負うわけにはいかない。
見返りを求めない無償の献身など、わたくしには重すぎる。
けれど。
その想いが欲であるならば。
その魂が英傑でないのならば。
わたくしでも、等価を返せると思った。
恋ではなくとも、愛を。
愛ではなくとも、情を。
――身勝手な話だ。
たしかにそんな関係性を成立させることは、不可能ではないだろう。
ネクタル家は曾祖父と曾祖母の大恋愛をきっかけにしたのか世間に先駆けて恋愛結婚が主流になっているため身近とは言えないが、他の家では家同士の関係を重視して個人の関係性などは後から構築する、なんてことは珍しい話ではない。夫婦関係が恋ではなく家族愛や戦友といったもので構築されることもありふれている。
だがそれは、お互いの感情を擦り合わせることを怠らず、理解しようと歩み寄った先の出来事だ。
相手の想いを端から軽く見積もって、自分の願望にすら蓋をし『恋』と偽ってラベルを貼って。
それで等価になど、なるものか。
すべてを曝け出さなければ悪などと言うつもりはないが、差し出されたものの重みを知ってなお相手を軽んじることは罪だろう。
そんなことをした身で、好きになりました?
今さらながら、自分も同じものを差し出せます?
なんて、傲慢。
ほんとうに、身勝手で、醜悪で、気持ちの悪い生き物だ。――いやになる。
そんなことだから、誰より泣かせたくない人を泣かせるのだ。
傷つけて、負わなくてもいい咎を負わせることになるのだ。
無自覚だったのが自覚しただけならばまだ救いようもあった。けれど、わたくしはもう、しかと理解している。
彼の牙が突き刺さるその瞬間まで、わたくしはアレクシスに恋などしていなかった。
決定的な痛みを与えられ、真綿を突き破られ、そこでようやく恋に落ちたのだと――狼としての貴方に、魅入られたのだと。
理解してしまった。
可哀想なアレクシス。
わたくしなどを星と見間違えてしまったきれいな貴方。
このような女を運命などというのはおやめになって、どうぞ幸せになってくださいな。
けれど、もし。
もしも貴方が、この赤い糸を手放せないというならば。
御自分の手に絡めたままわたくしの糸だけを解こうというのならば。
そのときは。
――つぶやいた声に応えるように、シトラスが香った。
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