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1章【明日から本気出す(だから今日は寝させて)】
【12】馬鹿と鋏は使い手に技量を問う
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「……モニカ、そろそろ落ち着いたか?」
「……大丈夫。もう大丈夫」
「そうか。じゃあ、そろそろモリヤを起こすぜ?」
モニカが俺の背中に回していた腕を解く。
俺の胸に顔を埋めただじっと時を過ごしていたモニカは、何事も無かったかの様に昨日会ったばかりの時と同じ冷淡な顔つきに戻っていた。
「そうね、そうしましょう。私の脅しは十分に効果を発揮したようだし、これで一先ず落ち着いて話し合いが出来るでしょう」
落ち着いて話し合い、になれば良いが。
モニカの実体験によるモリヤへの脅しは確かにモリヤを恐怖へと導いたのだろうが(未だに小便の水溜まりに突っ伏して目を覚まさないモリヤを見れば一目瞭然だ)、これでモリヤの態度が話し相手として、正確に言うと交渉相手として十全なものになるのかどうかは、俺には甚だ疑問だ。
脅しとしては些か強烈過ぎた感は否めないし、また逆に交渉相手として席に着かせる材料としては不十分だとも思う。
モニカに手を出すことの危険性を知らしめるには十分過ぎる処置だったが、それと交渉に応じるかは完全に別のものなんじゃないかと思えてしまうのだ。
この拉致が周囲にばれて危ないのは間違いなく俺達だ。
モリヤはそれくらいの権力を有している。
周囲を言いくるめる信頼とコネ、そして反感を持つ者、疑問を懐く者を懐柔するだけの財力を保有している。
まともにやり合って俺達に勝ち目は無いし、モリヤがまともにやり合うとも思えない。
この条件を覆すだけの秘策が、モニカには有るのだろうか。
「じゃ、起こすぞ。つーかこの床に広がってるのを何とかしたいな……」
俺はモリヤを中心に拡がる水溜まりを見て顔をしかめる。
「ハルベルト、ちょっと待ちなさい」
俺が一歩踏み出し、モリヤに近付こうとモニカの横を通り過ぎて二歩目を踏み出そうとした時、モニカの一言がそれを制止した。
「ん? どうした?」
「貴方、モリヤを起こす前に剣でモリヤを切りなさい」
「えっ!? 斬る!?」
俺はぎょっとして、横に立つモニカに振り返る。
え、斬るって、マジで、脅しじゃなく錆の付いた剣でモリヤを破傷風に感染させるのか。
本気だったのかよ。
もうそれ脅しじゃなくて犯行予告じゃねーか。
「何をそんなに驚いているのよ。単なる脅しで、私があんな話をする訳がないじゃない」
えぇ……。いや、まあ、確かに、予告して実行するほうがモニカらしいっちゃらしいけどさ。マジで殺すつもりだとは思わなかった。
モリヤ、可哀想に。
モニカに手を出したばかりに犠牲者第一号になるとは。
俺達は俺達で腕の立つ刺客を向けられたのだから、こうなることは当然の報いなのかもしれないが、破傷風なんてエグい死に方をすることになるとはモリヤも思わなかっただろうな。どころか破傷風自体を知らなかったわけだしな。
運の無い奴だ。
「分かった。それじゃあ、早く毒が回るよう、血の気の多い太股辺りを斬るか」
その方がモリヤの苦しみは幾分早く終わるだろう。
どうしても、痛みと恐怖を伴う死が訪れることに変わりはないが。
「貴方、何を言ってるのよ。そんな事したらこの豚が死んじゃうじゃない」
「え? だって斬れって」
「だから、切るのよ」
「え?」
え? 俺何か間違えてる?
何か全然伝わって来ないんだけど。
「はぁ。貴方って本当に駄目ね」
モニカは目を閉じ息を吐くと肩を落とした。
ええぇ。何で俺またがっかりされてんの……? 何を間違えてるの俺。
嘆息した後、モニカは右手の人差し指でモリヤを指差し俺の顔を見上げた。
「斬るんじゃないの。切るの」
「違いが分からねーんだけど……」
「貴方って、本当に馬鹿なのね」
……何かスミマセンね。バカですよ。えぇ。
「殺したら、豚を美味しく食べることも出来ないでしょう?」
え? 殺さないと豚は美味しく食べれないんじゃないか? それはどういう比喩だ?
「分かってない顔ね」
「……はい」
マジで分かんないよ。ちゃんと説明してよ。俺にも分かるようにさ。
「美味しく食べる為には、最高の時期が来るまで、最高の状態になるまで、準備して待つ必要がある。手を加える手間が要るということよ」
「あぁ、成る程。じゃあ、きるって、具体的にどうするんだよ」
「せっかく豚は全裸で居るんだから、膝の辺りをほんのちょっぴり、血が数滴漏れるくらいの浅さで切ってくれたら良いのよ」
ん? ……おう? それは……んん?
「それだと、流石に破傷風にはならないんじゃないか? いや、なるのかもしれないけどさ」
「別に破傷風になんかならなくて良いの
よ。さっきのは単なる脅しなのだから」
「さっきと言ってることが矛盾してるじゃねーかよ。どういう事だよ。ちゃんと教えてくれよ。もう分かんねぇよ……」
俺は両手を上げて文字通りお手上げの意を示す。もう、マジでお手上げだよ。
「貴方ねぇ。朝になったからって、仕事の時間ではなくなったからと言って、考える事を止めては人間は人間でなくなってしまうのよ? 考える事を止めてしまったら、人間を辞めるのと一緒。動物と、獣と同じよ? 獣だって習性と思考を駆使して生きているのだから、ただ生きて繁殖しているだけの菌と同じよ。そう、破傷風のようなね」
あんまりな言われようだ。
別に朝になったからって考えるのを止めてる訳じゃないけど、何を意図して言ってるのか分からないんだよ。
モニカの言い回しがくどいだけなんじゃないか?
別段俺が悪いんじゃないと思うだよなぁ。
「何だか納得はしているけれど、不服は残るという顔をしているわね」
してましたか。以後ばれないように気を付けます。
「まあ良いわ。説明に戻るけれど、えーと、いいえ、やっぱり説明するのが面倒だわ。とっとと剣でモリヤを切りなさい。今はほんの僅かな痛みでも起きるでしょう」
「おう。じゃあ、そうするか」
釈然としないが、確かに痛みで起きない奴はそういないだろ。今回は気絶しただけだしな。
俺は床に転がった剣を軽く拾い上げると、右手だけで持ち、左から右へ、スッ、と一閃を引く。
そのまま手首を返し、剣を腰に提げた鞘へと戻した。
左手で押さえた鞘から、ざりざりと錆が擦れる感触が伝わって来た。
と、モリヤがパッと目を開いた。
「っっ!? あっ、あうっ!? ハッ、あっ、あっ!? い、痛い! 痛っ、あ、あっ?! 膝がっ、膝が切れてるっ!? 血がっ、あっ、血がっ、出てる! あ、あぁ、血が出てる!! あぁっ! ああ! し、死! 死にたくない!! た、助けて! 頼む! あ、あぁいや、お願いします! どうか助けて! 助けてください! 何でも、何でもします! 何でも手伝います!! だからどうか手当てを! 傷口の消毒を! 回復術師を呼んで! あぁ、野良の術師でも構いませんから、どうか! お願い早く! 儂は死にたくない! まだ、まだ死にたくないんです! あぁ、どうしてこんなことになったんだ。手出し何かするんじゃなかった。昨日まで、昨日まで何事も無く、不自由無く生きてこれたのに、どうしてこんな、はっ、あっ、あっ!? あ、さ、寒いっ、身体が寒いっ。な、何か着る物を。着る物をください! 金なら幾らでも用意出来ます! 直ぐに準備させます! 準備しますから! あ、あの、お願いします! え、と、モ、モニカさん、でした……よね? モニカさん、様! モニカ様! どうか、どうか御慈悲を! 何とぞ、何卒慈悲をください! もう貴女に、貴女方には害は加えたりしません、誓います!! 決して!! 決してです!!!! ですから、何か着る物を、消毒薬を、どうか……。あぁ、寒気と熱もある……あぁ、ああぁ、お終いだぁぁ、私は死んでしまうんだ。あぁぁ、こんな奴等に関わったばかりにぃ、ああぁぁぁぁぁ……。嫌だああぁぁぁ。死にたくないいぃ。嫌だああぁぁぁぁ。痛いのは苦しいのは嫌だ。嫌だ、嫌だぁ死にたくないぃ。どうか助けてえぇ助けてくれぇ……何でもするから。何でもしますからぁぁ…………」
……マジか。
目を覚ましたモリヤは落ち着くどころか慌てふためき動転しきっている。
瞳孔は開き額からは汗が吹き出し自身の小便で濡れた髪が顔にべったりと張り付いている。
見ているこちらが恐怖してしまうような怯えた形相で俺とモニカを交互に見遣り、何度も何度も頭を上下させ懇願してくる。
涙と鼻水が垂れ顔中何かしらの液体まみれで、もう人とも分からない程歪んだ醜い顔で自らの死に恐怖している。
人はここまで醜くなるものなのか。
これが死に直面し、死に恐怖した人の姿なのか。
俺はこれまで幾つもの死と相対してきたが、これまでのどの恐怖よりも醜く悍ましい恐怖の姿だと思った。
それほどに自分の死が受け入れられない。自らが死ぬことを想像出来ない。自らの終わりが来ることが、信じられないのだろう。
モリヤは、死にたくない死にたくない、助けてくれ助けてくれ、何でもします何でもします、お願いしますお願いします、どうかどうか、死にたくない、嫌だ。そう繰り返す。
やはり、醜い。
いっそ、本当に殺してしまったほうが良いんじゃないか。
そう思ってしまうほど、醜く生にすがっている姿だった。
俺はそれ以上堪えきれず、モリヤから視線を外しモニカを見た。
「ィっ……!」
思わず変な声を出してしまい、咄嗟に口を閉じ歯を噛み締め声を殺した。
きっと、今の俺も相当醜い顔になってしまっているに違いない。
モリヤほどではないが、下手すれば俺もモリヤと大差無い醜さだろう。
俺すら恐怖した。
モニカの笑顔に。
モニカは満面の笑みを湛えていた。
まるで、幸福に包まれているかの様な、とても満足げな笑みを浮かべていた。
こいつ、こんな顔するのか。
狂ってる。
狂喜とはこういう表情を表す言葉なんだろうと、俺は生まれて初めて痛感した。
ヤバい。ヤバ過ぎる。
こいつの精神状態は絶対にヤバい。
絶対にこの顔は演技じゃない。
演技なんかでこんな表情されてたまるか。
悍ましさではモニカのほうが遥かに上だ。
見るに堪えないどころか、見ていたら此方まで頭がおかしくなりそうだ。
俺まで気が狂ってしまう。
もう部屋から出たい。
投げ出して、逃げ出して、楽になりたい。
辛い。
この職場環境辛過ぎる。
ブラックなんてもんじゃない。
ヤバさで言うならブラックホールレベルだ。
この笑顔に、全ての幸福が呑み込まれてしまいそうだ。
「助けてくれえぇぇ……ああぁぁぁぁ……死にたくないよおぉぉぉ。あぁ、背中が、関節が痛くなってきた。胸も苦しい、息がし辛い。あぁぁ儂は死ぬんだ。死んでしまう。死ぬ。ああぁぁ、畜生、畜生。畜生死にたくない畜生。苦しい。苦しいよぉぉ。ちくしょおぉぉお」
「煩い。豚風情が。そろそろお黙りなさいよ。喚かなくったって、あんたが此処でこのまま死ぬという事実は変わらないのよ。これは決定事項なの。解る? 豚は此処で死ぬの」
「ヒイィぃ嫌だぁぁぁァ。死にたくないよぉぉぉお助けをぉぉ」
ううぅ……辛いぃ……俺まで辛いぃ。
殺すなら早く殺せ。殺さないなら早く終わらせてくれよぉぉ。
俺はもう誰の顔も見ることが出来ず、目をぎゅうぅっと瞑って顔を下ろした。
もう何も見たくない。
本当は両耳だって蓋をしたいくらい辛い。
この空間に居ることがただひたすら辛く苦しい。
まさかこんなことになるとは。
もっと、冷静な、巧みな交渉があるんだろうと思っていたのにこんな辛い現場になるなんて思いもしなかった。
これからも、こんな事が度々起こるのか。
こんな状況をこれから何度も繰り返すのかよ。
そんなの辛過ぎる。苦し過ぎる。
本当に勘弁してくれ……。
「助かりたいなら、それ相応の働きをなさいよ。豚には何が出来るのかしら? 鳴くことかしら? 命乞いをすることかしら? 違うわよね? 自分の価値を、自分の命の価値を、自分の命を、値踏みなさいよ。商人なのでしょう? 自分は価値の有る豚だと証明してみせなさいよ。生きる価値の無い穢らわしい豚には生きる意味なんて無いの。解るわよね? 生きるに足る、生きることで私の為に役に立つと、私の為だけに役に立つことで生きる価値を証明してみせると、そう主張してみせなさいよ。命乞いしか出来ない能無しの豚に生きることは赦さない。私に命を乞うのなら豚の命を救ってあげたくなるだけの存在意義を証明なさい。零れた命を掬ってあげたくなるような、存在理由を私に感じさせてみせなさいよ」
ーーああぁ、俺にも漸く解った。
これは『調教』だ。
モニカは今、家畜を作っている。
人を、家畜にしようとしている。
トラウマを与え、二度と逆らわないように。
一生自分に、自分だけに従順に成るように。
モリヤを調教している。
モリヤを躾ている。
モニカの目的の為に役立つ手駒を造ろうとしている。
モニカの為だけに働く奴隷を生産しようとしている。
さながら衛生的な一匹の豚を飼育するように。
「は、はいっ、分かりました! す、少しだけ時間をください……。そ、存在意義。存在理由。……はぁっ、はっ……。儂の、価値を、生きる価値を証明する……。価値の証明。儂の、価値……。くっ……ふっ。モニカ様に救ってもらうに値する……存在する理由……存在する理由。存在する理由……理由……理由。理由理由理由理由……」
モリヤはヒクヒクと作り笑いで頬を引き攣らせモニカの言葉を呑み込んだ。
それから必死に脳を働かせる。一言一言を発する度に眼球だけが動き、上に下に。左に右に。あっちにこっちに何度も動く。次第にゆっくり俯くと小声で何度も同じ言葉をブツブツと呟く。
今、こいつの頭の中はどうすれば生き延びる事が許されるか、何と答えることがモニカのお気に召すのか、ただそれだけで一杯になっているに違いない。
どうしたらモニカに気に入ってもらえるのか。
何をモニカが望んでいるのか。
ただひたすら、モニカの事を考えているのだろう。
もしかしたらそれは、執着や拘泥といった、恋や憎悪に近い思考なのかもしれない。
モリヤは今、モニカを憎むと同時に強く惹かれ焦がれているのかもしれないと、俺はそう思った。
それがモニカの施している調教の実態なのではないか、と。
それにしても、モニカが施した脅しの効果は抜群だったようだ。
これ程までにモリヤを動転させ、我を失わせることが出来るなんて。
俺が付けた小さな傷の効果もきっと大きいんだろうな。
寒気がするだの背中が関節が痛むだの言っているのは、恐らく素っ裸で長時間過ごした所為で風邪をひいているだけなのに。
破傷風は潜伏期間が数日から数週間と、発症迄にも猶予がある感染症だ。
もし俺が切った傷から菌が感染しているとしても、今直ぐにどうこうなるというものではない。
今こうして冷静さを欠いているからこそ、モリヤは自身が破傷風に感染し発症したのだと、モニカの誤った情報を鵜呑みにして信じ込んでいるに過ぎない。
情報は武器だと、モリヤなんかの商人はよく言うが、正しくその情報を逆手に取られたということなのだろう。
未知の情報、信憑性の高い嘘ほど、身を滅ぼす強力な武器に成ると、そういうことだ。
「……ねえ、何時まで私を待たせるのかしら。駄豚が、この私を」
とん、と、モニカが足を小さく床に叩き付け音を鳴らす。素足のモニカではほんの小さな音しか鳴らなかったが、モリヤの意識をモニカに引き戻すには十分だった。
「あっ、あ、はいっ。モニカ様、あ、はい。お、お待たせして申し訳御座いません。儂の存在する理由、聞いて頂けますか」
バッと顔を上げモニカに顔を見せるモリヤ。
その表情は怯えたようでもあり、また、何かを思い付いた子供のような、僅かな無邪気さを感じさせるものだった。
ついに気が触れたのかもしれないな、と俺は思った。
とうとう心が耐えきれず、壊れてしまったのでないかと。
大の男とは言え、これだけの負荷を心に掛けられては、まともで居続けるのは難しいかもしれない。
俺ですらこの場に居るのが苦しいのだから。
責められる側に居るモリヤの心は最早ぼろぼろになっていても、ちっともおかしくない。
「良いわ。許可します。お話しなさい」
「あ、ありがとう御座います。儂の存在理由は、この町を取り仕切る財力です! 金なら幾らでもあります! 何でも手に入れて御覧に入れます! モニカ様が望むものを、物でも人でも、手に入れて見せましょう! 私が生きていれば、モニカ様の望むものの全てが手に入るのです! どうです! 素晴らしいでしょう!? 私は、私の私財全てを擲ってでも、モニカ様のお力になってみせます! 全てをモニカ様のものに! モニカ様の手の内に! ……ですから、どうか、どうか私めをお救いください! どうか!」
言い終え、勢い良く頭を振り下ろす。
勢いの余りそのまま濡れた床に頭を強くぶつけ止まる。
「駄豚が」
ただそれだけ。
モニカの口から発せられたのは、ただそれだけだった。
「……あ、あぁ、あああぁ……。あああああぁぁぁぁぁぁーー…………」
床に頭を叩き付け突っ伏したままのモリヤが言葉に成らない声を漏らす。
モリヤの言葉はモニカの心を満たすものでは無かった。
それだけの理由。
モリヤの絶望は計り知れない。
その声には、モニカが望む答えを見付けられなかった愚昧な我が身への、モニカの期待に応える言葉に至ることの出来なかった魯鈍な我が身への恨みが込められていた。
最早望みは断たれ、生存の可能性はこの上無く低い。
このまま生を終える。
このまま此処で、何もないぼろ宿の一室で生涯の幕を閉じる。
モリヤには、苦痛にのたうち、恐怖に果てる未来しか視えていないことだろう。
「駄豚ーーあんたの、全てを私に。あんたの命まで全部、この私だけに生涯捧げなさい」
「……っ!?」
モリヤがガバッと顔を振り上げ、焦点の定まらない目でモニカを捉える。
その表情には困惑。
希望や歓喜などは無く、ただ困惑だけが見て取れた。
「モニカ様……。今、何と……」
「二度は言わないわ。聞こえていたでしょう? 望めば得られると思わないことね。豚は豚らしく、汚ならしく、貪欲に、一縷の望みにすがり付きなさい」
モリヤの表情から、次第に困惑の曇りが晴れていくのが分かる。
モリヤは遂に手に入れた。
主が望む答えを。
「あぁ、あああ……! モニカ様、モニカ様ぁ。儂は、わた、私は、貴女様の為に全てを。この身の全てを! 貴女様の為に、この身の全てを使い生きていきます。ですから、ですか」
「ーー違う。私の為、だけ、に。生きると言いなさい」
「は、はいぃっ。モニカ様の為だけに、貴女様の為だけに、私は生きていきます。貴女様の為だけに、生きることを御許しください……」
「そう? じゃあーー」
モニカは一瞬だけ思案するような間を置いて。
「先ずは私の為にお死になさい」
さらっと、究極の要求を突き付けた。
さ、流石にそれは、無理が過ぎるんじゃあ……。
「…………」
……ほら。モリヤが黙った。
調教するにしても、早すぎる。幾ら何でも。
「……お、恐れながら、モニカ様」
「何? 死なないの? なら今直ぐにお死になさい」
は? え、何言ってんの!?
矛盾どころじゃねーよ!
イエスかはいで答えろなんて、そんなの答えれる訳無いじゃねーか。
そんなもん、調教じゃなくて洗脳だ。
いや、それで良いのか?
間違ってないのか……?
「は、はいっ! ですが、今私は両手両足を縛られ、跪くか、横たわることしか出来ません。どうか、後生ですから、縄を切ってください」
おい……それは不味いだろ。
「ハルベルト」
え、マジで? 絶対それは止めたほうが良いって。
調教にしろ洗脳にしろ、早すぎるって。
「早くなさい。この玉無し」
有るよ! 2回思いっきり蹴り上げられたけど、無事だから! モリヤが誤解するようなこと言うの止めて!? 今は二人っきりじゃないからね!?
……あっ。
「……チッ分かったよ。ほら」
ざり、と、もう一度錆の感覚を左手に感じたのは一瞬のこと。
剣を抜い時には、モリヤを捕縛していた縄は切れ、落ち、錆だらけの剣は、モリヤの眼前に、それも錆で殆ど反射することの無い剣の腹がモリヤに向いた状態で、ぼろ宿の床板に深々と刺さっていた。
「おいモリヤのおっさん。てめーで剣引き抜いて見せろよ。それがてめーの存在証明になるんだろ?」
俺はわざとらしく右の頬を吊り上げ蔑みをたっぷり含んだ眼差しをモリヤにくれてやる。
さあ、どうすんだ?
「きっ、貴っ様アァァ!! よくも、よくも儂の邪魔を! 儂の覚悟を……!」
モリヤが吼える。
その咆哮には、ついさっきまで溢れ垂れ流されていた恐怖の姿も、影もない。
しかし、目が本気だ。
相変わらず瞳孔は開きっ放し。今はそれに加え犬の様に口からくっきりと見える歯が、金に光る差し歯が、煌々と輝いている。
「豚はお黙り。力で抜けないなら、頭を使いなさいよ。豚は、この町を仕切る商工ギルドの長。この町を占める、頂点なんでしょう? その頂点である豚が、駄豚でないことを。周りに持て囃され、責任を押し付けられただけの七光りでないことを私に証明しなさい。願ってもない良い好機が訪れたと涎を垂らして、鼻を鳴らして喜びなさいよ。そうでしょう? 私だけの為に、豚の力を全て引き出せる悦びを感じなさい。ねぇ?」
モニカが両の口角をくっと、少しだけ上げると、首を小さく傾げ薄く微笑む。
モリヤは一瞬モニカの瞳を凝視し惚けた。が、次の瞬間には歯を剥き出しににんまり声を出さず笑うと、表情を少しも崩すこと無くブンブンと頭を縦に何度も振った。
……これは、マジでやるぞ。こいつ。
両手を腰に確りと据えると、がに股に脚を開き、右足を後方にずり下げた。
直前まで長時間同じ体勢を続け、半日近く同じ位置で手足を縛られていた人間とは思えない確りとした動き。
恐らく、その動きだけでも関節や筋肉が急な動きに耐えきれず悲鳴を上げたことだろう。
痛みを想像した俺は僅かに眉を寄せてしまった。
……って、脚を引き下げて?
まさか、モリヤこいつーー。
「まっ、待っ……!」
そう、俺が思わず声を上げた時には遅かった。
モリヤは、ずり下げた右脚を半円を描く様に思い切り大外から振り抜くと、そのまま突き刺さった剣の刀身を薙いだ。
「ふぅん……これは予想外ね。駄豚だと思っていたのに、案外気概があるじゃない。見直したわ」
モリヤの右膝から下が、部屋の壁に勢い良く激突し、ぼとりと床に落ちた。
噴き出す血。
血飛沫が天井を、床を、俺を、モニカを、部屋中を赤く濡らした。
モリヤは勢い余ってそのままぐるんと一回転し、濡れている床に足を取られずるっと滑るとそのまま尻餅を突いた。
「っっーー!! モ、モニカ様の、モニカ様の為、だけにいっいぃィィィ!! っはははははははは!! モ、モニカ様! モニカ様ぁ! いかがですかっ!? モニカ様っはははっ!! あははははははははははははははははははははははは!!」
マジでやりやがった。イカれてる。
洗脳どころじゃねぇ。狂ってる。
モニカの名前を叫び高らかに笑い声を上げるモリヤも。
それを腕組みしてにやにやと薄ら笑いを浮かべながら見ているモニカも。
どっちも、共に狂っている。
どうするつもりだモニカ。
笑ってる場合じゃないぞ。
こんな大事になっちまったら、高位の回復術師を呼んで今直ぐに接合治療を施さないと、斬れ飛んだ右脚は壊死して、モリヤ自身も失血死するぞ。
最低でも止血をするために術師を呼ばないと、このままじゃ俺達はギルド長殺しの犯人だ。
「っ……モニカ様!! これが、これがっ、私の覚悟ですっ! モニカ様! どうぞ私に、私めに、貴女だけにお仕えする、役っ……を、お与えください! おそっ、お側に! お側にお仕えすることを御許しください……!」
尻餅を突いたモリヤは斬れた太股を両手でがっちりと掴み、満足そうな笑みを浮かべてモニカを見上げている。
その間もモリヤの鼓動に合わせぴゅっ、ぴゅっ、と筋肉の隙間からてらてらと艶の在る鮮血が飛び出している。
流れている血の量がヤバい。マジで死ぬぞ。そう長くかからず致死量に至る早さで血が漏れている。
どうすんだよモニカ!?
俺がもう一度振り返ると、モニカがモリヤの血飛沫を浴び真っ赤に濡れた顔で、にっこりと笑っていた。
ゾクゾクゥッと俺の背筋に悪寒が走る。
俺は再びモニカに恐怖した。
モニカは、俺のことなど眼中に無いといった様子でゆっくりモリヤに歩み寄ると、小便と血液でびちゃびちゃになった床に膝を付き、ゆっくり右手を伸ばした。
「よぉく、頑張ったわねぇ。偉い偉い。貴方はとっても偉いわ。これで、貴方は私だけの物ね?」
モリヤの頭をゆっくり、ゆぅっくり、撫でるモニカ。
その姿はまるで我が子を慈しむ母親の様で、これが、膝を擦りむいた少年とそれを優しく励ます母親の姿であったなら、さぞかし絵になったことだろう。
しかし現実は、膝から下を自ら断ち斬り剥き出しになった筋肉や血管から血を漏らす肥えきった中年の男と、全身に拷問の跡が残る元貴族で元奴隷であった10代の少女だというのだから、奇妙や異様などという言葉ではまるで足りなかった。
おいおい、そんなことは良いから早くモリヤの治療をしないと、本当に死んじゃうって。
「モニカ様、貴女様に、私の全てを。命までも捧げます」
「ありがとう。実は私、早速貴方にお願いがあるの。良いわよね? 聞き入れてくれるわよね?」
「はい。勿論ですとも。何なりと。喜んでお受け致します。それで、私めは何をしたら貴女に喜んで頂けるのでしょう」
モニカは、モリヤの頭を撫でながら甘えるような声を出した。
モリヤは嬉しそうに目を閉じ、頭を撫でる手の感触を確かめている。
その姿は、もう人には見えなかった。
飼い主と、その従順な畜生。
立派な奴隷の姿が其処に在った。
「先ずは、私と貴方の事をこの町中に、そしてこの町に訪れる全ての商人に報せを出して頂戴。モリヤ・バンヘルンは、所有する一切の権利をこのモニカに譲渡する。と」
…………。
「分かりました。私めの全ては貴女だけの物。何でもお好きにお持ちになってください。直ぐに部下達を使い、報せを出しましょう。他に何か、私に出来ることは御座いませんか?」
…………。
「もう一つ。貴方には辛い御願いになるかもしれないのだけれど。良いかしら」
「はい。喜んで」
「脚の治療を、諦めて頂戴」
はっ!?
「その、失った脚を、私への忠誠の証として残してほしいの。だから、失った脚は諦めて頂戴」
おいおい……。
「おぉ、おおお……。モニカ様、モニカ様モニカ様……それこそ私には至上の喜び……。ああ……このモリヤ、この失った脚に懸けて貴女に終世尽くすと誓います。……ああ、今日はなんと幸福な日であることか。私は今日という日を生涯忘れることは御座いません……」
「ありがとう。今日という日は、私にとっても生涯大事な日となることでしょう。それでは、脚の治療を」
モニカがスッとモリヤの頭から手を離す。
「ああっ……はい。ではモニカ様、私の邸宅へ使いを出して頂けませんか? この町でも1、2を争う回復術師を雇い入れておりますので」
大事な玩具を取り上げられた子供の様にモニカの手を愛しそうに目で追うモリヤ。
既にモニカに心酔していることが、俺にもよく解った。
「ええ、ハルベルト。お願いね」
「……分かった。急いで連れてくる」
そう言い残し、俺は血塗れのまま、部屋を飛び出した。
部屋に二人だけ残すのは、さらにヤバいことが起こるんじゃないかと心配だが、モリヤのあの様子だとモニカに危険が及ぶようなことにはならないだろう
俺は、モリヤが失血で死なないことをただひたすらに祈るばかりだ。
俺はモリヤ邸を目指し、路地を走り抜ける。
……それにしても。
まさかこんな事になるなんて。
昨日の朝、ぼろ宿の床で目覚めた時には想像すらしなかった。いや、こんな事想像出来る訳が無いが。
それが、たった一日でこんな事になっちまうなんて。
あの女はやっぱりヤバい。
いや、それは今更か。
「……大丈夫。もう大丈夫」
「そうか。じゃあ、そろそろモリヤを起こすぜ?」
モニカが俺の背中に回していた腕を解く。
俺の胸に顔を埋めただじっと時を過ごしていたモニカは、何事も無かったかの様に昨日会ったばかりの時と同じ冷淡な顔つきに戻っていた。
「そうね、そうしましょう。私の脅しは十分に効果を発揮したようだし、これで一先ず落ち着いて話し合いが出来るでしょう」
落ち着いて話し合い、になれば良いが。
モニカの実体験によるモリヤへの脅しは確かにモリヤを恐怖へと導いたのだろうが(未だに小便の水溜まりに突っ伏して目を覚まさないモリヤを見れば一目瞭然だ)、これでモリヤの態度が話し相手として、正確に言うと交渉相手として十全なものになるのかどうかは、俺には甚だ疑問だ。
脅しとしては些か強烈過ぎた感は否めないし、また逆に交渉相手として席に着かせる材料としては不十分だとも思う。
モニカに手を出すことの危険性を知らしめるには十分過ぎる処置だったが、それと交渉に応じるかは完全に別のものなんじゃないかと思えてしまうのだ。
この拉致が周囲にばれて危ないのは間違いなく俺達だ。
モリヤはそれくらいの権力を有している。
周囲を言いくるめる信頼とコネ、そして反感を持つ者、疑問を懐く者を懐柔するだけの財力を保有している。
まともにやり合って俺達に勝ち目は無いし、モリヤがまともにやり合うとも思えない。
この条件を覆すだけの秘策が、モニカには有るのだろうか。
「じゃ、起こすぞ。つーかこの床に広がってるのを何とかしたいな……」
俺はモリヤを中心に拡がる水溜まりを見て顔をしかめる。
「ハルベルト、ちょっと待ちなさい」
俺が一歩踏み出し、モリヤに近付こうとモニカの横を通り過ぎて二歩目を踏み出そうとした時、モニカの一言がそれを制止した。
「ん? どうした?」
「貴方、モリヤを起こす前に剣でモリヤを切りなさい」
「えっ!? 斬る!?」
俺はぎょっとして、横に立つモニカに振り返る。
え、斬るって、マジで、脅しじゃなく錆の付いた剣でモリヤを破傷風に感染させるのか。
本気だったのかよ。
もうそれ脅しじゃなくて犯行予告じゃねーか。
「何をそんなに驚いているのよ。単なる脅しで、私があんな話をする訳がないじゃない」
えぇ……。いや、まあ、確かに、予告して実行するほうがモニカらしいっちゃらしいけどさ。マジで殺すつもりだとは思わなかった。
モリヤ、可哀想に。
モニカに手を出したばかりに犠牲者第一号になるとは。
俺達は俺達で腕の立つ刺客を向けられたのだから、こうなることは当然の報いなのかもしれないが、破傷風なんてエグい死に方をすることになるとはモリヤも思わなかっただろうな。どころか破傷風自体を知らなかったわけだしな。
運の無い奴だ。
「分かった。それじゃあ、早く毒が回るよう、血の気の多い太股辺りを斬るか」
その方がモリヤの苦しみは幾分早く終わるだろう。
どうしても、痛みと恐怖を伴う死が訪れることに変わりはないが。
「貴方、何を言ってるのよ。そんな事したらこの豚が死んじゃうじゃない」
「え? だって斬れって」
「だから、切るのよ」
「え?」
え? 俺何か間違えてる?
何か全然伝わって来ないんだけど。
「はぁ。貴方って本当に駄目ね」
モニカは目を閉じ息を吐くと肩を落とした。
ええぇ。何で俺またがっかりされてんの……? 何を間違えてるの俺。
嘆息した後、モニカは右手の人差し指でモリヤを指差し俺の顔を見上げた。
「斬るんじゃないの。切るの」
「違いが分からねーんだけど……」
「貴方って、本当に馬鹿なのね」
……何かスミマセンね。バカですよ。えぇ。
「殺したら、豚を美味しく食べることも出来ないでしょう?」
え? 殺さないと豚は美味しく食べれないんじゃないか? それはどういう比喩だ?
「分かってない顔ね」
「……はい」
マジで分かんないよ。ちゃんと説明してよ。俺にも分かるようにさ。
「美味しく食べる為には、最高の時期が来るまで、最高の状態になるまで、準備して待つ必要がある。手を加える手間が要るということよ」
「あぁ、成る程。じゃあ、きるって、具体的にどうするんだよ」
「せっかく豚は全裸で居るんだから、膝の辺りをほんのちょっぴり、血が数滴漏れるくらいの浅さで切ってくれたら良いのよ」
ん? ……おう? それは……んん?
「それだと、流石に破傷風にはならないんじゃないか? いや、なるのかもしれないけどさ」
「別に破傷風になんかならなくて良いの
よ。さっきのは単なる脅しなのだから」
「さっきと言ってることが矛盾してるじゃねーかよ。どういう事だよ。ちゃんと教えてくれよ。もう分かんねぇよ……」
俺は両手を上げて文字通りお手上げの意を示す。もう、マジでお手上げだよ。
「貴方ねぇ。朝になったからって、仕事の時間ではなくなったからと言って、考える事を止めては人間は人間でなくなってしまうのよ? 考える事を止めてしまったら、人間を辞めるのと一緒。動物と、獣と同じよ? 獣だって習性と思考を駆使して生きているのだから、ただ生きて繁殖しているだけの菌と同じよ。そう、破傷風のようなね」
あんまりな言われようだ。
別に朝になったからって考えるのを止めてる訳じゃないけど、何を意図して言ってるのか分からないんだよ。
モニカの言い回しがくどいだけなんじゃないか?
別段俺が悪いんじゃないと思うだよなぁ。
「何だか納得はしているけれど、不服は残るという顔をしているわね」
してましたか。以後ばれないように気を付けます。
「まあ良いわ。説明に戻るけれど、えーと、いいえ、やっぱり説明するのが面倒だわ。とっとと剣でモリヤを切りなさい。今はほんの僅かな痛みでも起きるでしょう」
「おう。じゃあ、そうするか」
釈然としないが、確かに痛みで起きない奴はそういないだろ。今回は気絶しただけだしな。
俺は床に転がった剣を軽く拾い上げると、右手だけで持ち、左から右へ、スッ、と一閃を引く。
そのまま手首を返し、剣を腰に提げた鞘へと戻した。
左手で押さえた鞘から、ざりざりと錆が擦れる感触が伝わって来た。
と、モリヤがパッと目を開いた。
「っっ!? あっ、あうっ!? ハッ、あっ、あっ!? い、痛い! 痛っ、あ、あっ?! 膝がっ、膝が切れてるっ!? 血がっ、あっ、血がっ、出てる! あ、あぁ、血が出てる!! あぁっ! ああ! し、死! 死にたくない!! た、助けて! 頼む! あ、あぁいや、お願いします! どうか助けて! 助けてください! 何でも、何でもします! 何でも手伝います!! だからどうか手当てを! 傷口の消毒を! 回復術師を呼んで! あぁ、野良の術師でも構いませんから、どうか! お願い早く! 儂は死にたくない! まだ、まだ死にたくないんです! あぁ、どうしてこんなことになったんだ。手出し何かするんじゃなかった。昨日まで、昨日まで何事も無く、不自由無く生きてこれたのに、どうしてこんな、はっ、あっ、あっ!? あ、さ、寒いっ、身体が寒いっ。な、何か着る物を。着る物をください! 金なら幾らでも用意出来ます! 直ぐに準備させます! 準備しますから! あ、あの、お願いします! え、と、モ、モニカさん、でした……よね? モニカさん、様! モニカ様! どうか、どうか御慈悲を! 何とぞ、何卒慈悲をください! もう貴女に、貴女方には害は加えたりしません、誓います!! 決して!! 決してです!!!! ですから、何か着る物を、消毒薬を、どうか……。あぁ、寒気と熱もある……あぁ、ああぁ、お終いだぁぁ、私は死んでしまうんだ。あぁぁ、こんな奴等に関わったばかりにぃ、ああぁぁぁぁぁ……。嫌だああぁぁぁ。死にたくないいぃ。嫌だああぁぁぁぁ。痛いのは苦しいのは嫌だ。嫌だ、嫌だぁ死にたくないぃ。どうか助けてえぇ助けてくれぇ……何でもするから。何でもしますからぁぁ…………」
……マジか。
目を覚ましたモリヤは落ち着くどころか慌てふためき動転しきっている。
瞳孔は開き額からは汗が吹き出し自身の小便で濡れた髪が顔にべったりと張り付いている。
見ているこちらが恐怖してしまうような怯えた形相で俺とモニカを交互に見遣り、何度も何度も頭を上下させ懇願してくる。
涙と鼻水が垂れ顔中何かしらの液体まみれで、もう人とも分からない程歪んだ醜い顔で自らの死に恐怖している。
人はここまで醜くなるものなのか。
これが死に直面し、死に恐怖した人の姿なのか。
俺はこれまで幾つもの死と相対してきたが、これまでのどの恐怖よりも醜く悍ましい恐怖の姿だと思った。
それほどに自分の死が受け入れられない。自らが死ぬことを想像出来ない。自らの終わりが来ることが、信じられないのだろう。
モリヤは、死にたくない死にたくない、助けてくれ助けてくれ、何でもします何でもします、お願いしますお願いします、どうかどうか、死にたくない、嫌だ。そう繰り返す。
やはり、醜い。
いっそ、本当に殺してしまったほうが良いんじゃないか。
そう思ってしまうほど、醜く生にすがっている姿だった。
俺はそれ以上堪えきれず、モリヤから視線を外しモニカを見た。
「ィっ……!」
思わず変な声を出してしまい、咄嗟に口を閉じ歯を噛み締め声を殺した。
きっと、今の俺も相当醜い顔になってしまっているに違いない。
モリヤほどではないが、下手すれば俺もモリヤと大差無い醜さだろう。
俺すら恐怖した。
モニカの笑顔に。
モニカは満面の笑みを湛えていた。
まるで、幸福に包まれているかの様な、とても満足げな笑みを浮かべていた。
こいつ、こんな顔するのか。
狂ってる。
狂喜とはこういう表情を表す言葉なんだろうと、俺は生まれて初めて痛感した。
ヤバい。ヤバ過ぎる。
こいつの精神状態は絶対にヤバい。
絶対にこの顔は演技じゃない。
演技なんかでこんな表情されてたまるか。
悍ましさではモニカのほうが遥かに上だ。
見るに堪えないどころか、見ていたら此方まで頭がおかしくなりそうだ。
俺まで気が狂ってしまう。
もう部屋から出たい。
投げ出して、逃げ出して、楽になりたい。
辛い。
この職場環境辛過ぎる。
ブラックなんてもんじゃない。
ヤバさで言うならブラックホールレベルだ。
この笑顔に、全ての幸福が呑み込まれてしまいそうだ。
「助けてくれえぇぇ……ああぁぁぁぁ……死にたくないよおぉぉぉ。あぁ、背中が、関節が痛くなってきた。胸も苦しい、息がし辛い。あぁぁ儂は死ぬんだ。死んでしまう。死ぬ。ああぁぁ、畜生、畜生。畜生死にたくない畜生。苦しい。苦しいよぉぉ。ちくしょおぉぉお」
「煩い。豚風情が。そろそろお黙りなさいよ。喚かなくったって、あんたが此処でこのまま死ぬという事実は変わらないのよ。これは決定事項なの。解る? 豚は此処で死ぬの」
「ヒイィぃ嫌だぁぁぁァ。死にたくないよぉぉぉお助けをぉぉ」
ううぅ……辛いぃ……俺まで辛いぃ。
殺すなら早く殺せ。殺さないなら早く終わらせてくれよぉぉ。
俺はもう誰の顔も見ることが出来ず、目をぎゅうぅっと瞑って顔を下ろした。
もう何も見たくない。
本当は両耳だって蓋をしたいくらい辛い。
この空間に居ることがただひたすら辛く苦しい。
まさかこんなことになるとは。
もっと、冷静な、巧みな交渉があるんだろうと思っていたのにこんな辛い現場になるなんて思いもしなかった。
これからも、こんな事が度々起こるのか。
こんな状況をこれから何度も繰り返すのかよ。
そんなの辛過ぎる。苦し過ぎる。
本当に勘弁してくれ……。
「助かりたいなら、それ相応の働きをなさいよ。豚には何が出来るのかしら? 鳴くことかしら? 命乞いをすることかしら? 違うわよね? 自分の価値を、自分の命の価値を、自分の命を、値踏みなさいよ。商人なのでしょう? 自分は価値の有る豚だと証明してみせなさいよ。生きる価値の無い穢らわしい豚には生きる意味なんて無いの。解るわよね? 生きるに足る、生きることで私の為に役に立つと、私の為だけに役に立つことで生きる価値を証明してみせると、そう主張してみせなさいよ。命乞いしか出来ない能無しの豚に生きることは赦さない。私に命を乞うのなら豚の命を救ってあげたくなるだけの存在意義を証明なさい。零れた命を掬ってあげたくなるような、存在理由を私に感じさせてみせなさいよ」
ーーああぁ、俺にも漸く解った。
これは『調教』だ。
モニカは今、家畜を作っている。
人を、家畜にしようとしている。
トラウマを与え、二度と逆らわないように。
一生自分に、自分だけに従順に成るように。
モリヤを調教している。
モリヤを躾ている。
モニカの目的の為に役立つ手駒を造ろうとしている。
モニカの為だけに働く奴隷を生産しようとしている。
さながら衛生的な一匹の豚を飼育するように。
「は、はいっ、分かりました! す、少しだけ時間をください……。そ、存在意義。存在理由。……はぁっ、はっ……。儂の、価値を、生きる価値を証明する……。価値の証明。儂の、価値……。くっ……ふっ。モニカ様に救ってもらうに値する……存在する理由……存在する理由。存在する理由……理由……理由。理由理由理由理由……」
モリヤはヒクヒクと作り笑いで頬を引き攣らせモニカの言葉を呑み込んだ。
それから必死に脳を働かせる。一言一言を発する度に眼球だけが動き、上に下に。左に右に。あっちにこっちに何度も動く。次第にゆっくり俯くと小声で何度も同じ言葉をブツブツと呟く。
今、こいつの頭の中はどうすれば生き延びる事が許されるか、何と答えることがモニカのお気に召すのか、ただそれだけで一杯になっているに違いない。
どうしたらモニカに気に入ってもらえるのか。
何をモニカが望んでいるのか。
ただひたすら、モニカの事を考えているのだろう。
もしかしたらそれは、執着や拘泥といった、恋や憎悪に近い思考なのかもしれない。
モリヤは今、モニカを憎むと同時に強く惹かれ焦がれているのかもしれないと、俺はそう思った。
それがモニカの施している調教の実態なのではないか、と。
それにしても、モニカが施した脅しの効果は抜群だったようだ。
これ程までにモリヤを動転させ、我を失わせることが出来るなんて。
俺が付けた小さな傷の効果もきっと大きいんだろうな。
寒気がするだの背中が関節が痛むだの言っているのは、恐らく素っ裸で長時間過ごした所為で風邪をひいているだけなのに。
破傷風は潜伏期間が数日から数週間と、発症迄にも猶予がある感染症だ。
もし俺が切った傷から菌が感染しているとしても、今直ぐにどうこうなるというものではない。
今こうして冷静さを欠いているからこそ、モリヤは自身が破傷風に感染し発症したのだと、モニカの誤った情報を鵜呑みにして信じ込んでいるに過ぎない。
情報は武器だと、モリヤなんかの商人はよく言うが、正しくその情報を逆手に取られたということなのだろう。
未知の情報、信憑性の高い嘘ほど、身を滅ぼす強力な武器に成ると、そういうことだ。
「……ねえ、何時まで私を待たせるのかしら。駄豚が、この私を」
とん、と、モニカが足を小さく床に叩き付け音を鳴らす。素足のモニカではほんの小さな音しか鳴らなかったが、モリヤの意識をモニカに引き戻すには十分だった。
「あっ、あ、はいっ。モニカ様、あ、はい。お、お待たせして申し訳御座いません。儂の存在する理由、聞いて頂けますか」
バッと顔を上げモニカに顔を見せるモリヤ。
その表情は怯えたようでもあり、また、何かを思い付いた子供のような、僅かな無邪気さを感じさせるものだった。
ついに気が触れたのかもしれないな、と俺は思った。
とうとう心が耐えきれず、壊れてしまったのでないかと。
大の男とは言え、これだけの負荷を心に掛けられては、まともで居続けるのは難しいかもしれない。
俺ですらこの場に居るのが苦しいのだから。
責められる側に居るモリヤの心は最早ぼろぼろになっていても、ちっともおかしくない。
「良いわ。許可します。お話しなさい」
「あ、ありがとう御座います。儂の存在理由は、この町を取り仕切る財力です! 金なら幾らでもあります! 何でも手に入れて御覧に入れます! モニカ様が望むものを、物でも人でも、手に入れて見せましょう! 私が生きていれば、モニカ様の望むものの全てが手に入るのです! どうです! 素晴らしいでしょう!? 私は、私の私財全てを擲ってでも、モニカ様のお力になってみせます! 全てをモニカ様のものに! モニカ様の手の内に! ……ですから、どうか、どうか私めをお救いください! どうか!」
言い終え、勢い良く頭を振り下ろす。
勢いの余りそのまま濡れた床に頭を強くぶつけ止まる。
「駄豚が」
ただそれだけ。
モニカの口から発せられたのは、ただそれだけだった。
「……あ、あぁ、あああぁ……。あああああぁぁぁぁぁぁーー…………」
床に頭を叩き付け突っ伏したままのモリヤが言葉に成らない声を漏らす。
モリヤの言葉はモニカの心を満たすものでは無かった。
それだけの理由。
モリヤの絶望は計り知れない。
その声には、モニカが望む答えを見付けられなかった愚昧な我が身への、モニカの期待に応える言葉に至ることの出来なかった魯鈍な我が身への恨みが込められていた。
最早望みは断たれ、生存の可能性はこの上無く低い。
このまま生を終える。
このまま此処で、何もないぼろ宿の一室で生涯の幕を閉じる。
モリヤには、苦痛にのたうち、恐怖に果てる未来しか視えていないことだろう。
「駄豚ーーあんたの、全てを私に。あんたの命まで全部、この私だけに生涯捧げなさい」
「……っ!?」
モリヤがガバッと顔を振り上げ、焦点の定まらない目でモニカを捉える。
その表情には困惑。
希望や歓喜などは無く、ただ困惑だけが見て取れた。
「モニカ様……。今、何と……」
「二度は言わないわ。聞こえていたでしょう? 望めば得られると思わないことね。豚は豚らしく、汚ならしく、貪欲に、一縷の望みにすがり付きなさい」
モリヤの表情から、次第に困惑の曇りが晴れていくのが分かる。
モリヤは遂に手に入れた。
主が望む答えを。
「あぁ、あああ……! モニカ様、モニカ様ぁ。儂は、わた、私は、貴女様の為に全てを。この身の全てを! 貴女様の為に、この身の全てを使い生きていきます。ですから、ですか」
「ーー違う。私の為、だけ、に。生きると言いなさい」
「は、はいぃっ。モニカ様の為だけに、貴女様の為だけに、私は生きていきます。貴女様の為だけに、生きることを御許しください……」
「そう? じゃあーー」
モニカは一瞬だけ思案するような間を置いて。
「先ずは私の為にお死になさい」
さらっと、究極の要求を突き付けた。
さ、流石にそれは、無理が過ぎるんじゃあ……。
「…………」
……ほら。モリヤが黙った。
調教するにしても、早すぎる。幾ら何でも。
「……お、恐れながら、モニカ様」
「何? 死なないの? なら今直ぐにお死になさい」
は? え、何言ってんの!?
矛盾どころじゃねーよ!
イエスかはいで答えろなんて、そんなの答えれる訳無いじゃねーか。
そんなもん、調教じゃなくて洗脳だ。
いや、それで良いのか?
間違ってないのか……?
「は、はいっ! ですが、今私は両手両足を縛られ、跪くか、横たわることしか出来ません。どうか、後生ですから、縄を切ってください」
おい……それは不味いだろ。
「ハルベルト」
え、マジで? 絶対それは止めたほうが良いって。
調教にしろ洗脳にしろ、早すぎるって。
「早くなさい。この玉無し」
有るよ! 2回思いっきり蹴り上げられたけど、無事だから! モリヤが誤解するようなこと言うの止めて!? 今は二人っきりじゃないからね!?
……あっ。
「……チッ分かったよ。ほら」
ざり、と、もう一度錆の感覚を左手に感じたのは一瞬のこと。
剣を抜い時には、モリヤを捕縛していた縄は切れ、落ち、錆だらけの剣は、モリヤの眼前に、それも錆で殆ど反射することの無い剣の腹がモリヤに向いた状態で、ぼろ宿の床板に深々と刺さっていた。
「おいモリヤのおっさん。てめーで剣引き抜いて見せろよ。それがてめーの存在証明になるんだろ?」
俺はわざとらしく右の頬を吊り上げ蔑みをたっぷり含んだ眼差しをモリヤにくれてやる。
さあ、どうすんだ?
「きっ、貴っ様アァァ!! よくも、よくも儂の邪魔を! 儂の覚悟を……!」
モリヤが吼える。
その咆哮には、ついさっきまで溢れ垂れ流されていた恐怖の姿も、影もない。
しかし、目が本気だ。
相変わらず瞳孔は開きっ放し。今はそれに加え犬の様に口からくっきりと見える歯が、金に光る差し歯が、煌々と輝いている。
「豚はお黙り。力で抜けないなら、頭を使いなさいよ。豚は、この町を仕切る商工ギルドの長。この町を占める、頂点なんでしょう? その頂点である豚が、駄豚でないことを。周りに持て囃され、責任を押し付けられただけの七光りでないことを私に証明しなさい。願ってもない良い好機が訪れたと涎を垂らして、鼻を鳴らして喜びなさいよ。そうでしょう? 私だけの為に、豚の力を全て引き出せる悦びを感じなさい。ねぇ?」
モニカが両の口角をくっと、少しだけ上げると、首を小さく傾げ薄く微笑む。
モリヤは一瞬モニカの瞳を凝視し惚けた。が、次の瞬間には歯を剥き出しににんまり声を出さず笑うと、表情を少しも崩すこと無くブンブンと頭を縦に何度も振った。
……これは、マジでやるぞ。こいつ。
両手を腰に確りと据えると、がに股に脚を開き、右足を後方にずり下げた。
直前まで長時間同じ体勢を続け、半日近く同じ位置で手足を縛られていた人間とは思えない確りとした動き。
恐らく、その動きだけでも関節や筋肉が急な動きに耐えきれず悲鳴を上げたことだろう。
痛みを想像した俺は僅かに眉を寄せてしまった。
……って、脚を引き下げて?
まさか、モリヤこいつーー。
「まっ、待っ……!」
そう、俺が思わず声を上げた時には遅かった。
モリヤは、ずり下げた右脚を半円を描く様に思い切り大外から振り抜くと、そのまま突き刺さった剣の刀身を薙いだ。
「ふぅん……これは予想外ね。駄豚だと思っていたのに、案外気概があるじゃない。見直したわ」
モリヤの右膝から下が、部屋の壁に勢い良く激突し、ぼとりと床に落ちた。
噴き出す血。
血飛沫が天井を、床を、俺を、モニカを、部屋中を赤く濡らした。
モリヤは勢い余ってそのままぐるんと一回転し、濡れている床に足を取られずるっと滑るとそのまま尻餅を突いた。
「っっーー!! モ、モニカ様の、モニカ様の為、だけにいっいぃィィィ!! っはははははははは!! モ、モニカ様! モニカ様ぁ! いかがですかっ!? モニカ様っはははっ!! あははははははははははははははははははははははは!!」
マジでやりやがった。イカれてる。
洗脳どころじゃねぇ。狂ってる。
モニカの名前を叫び高らかに笑い声を上げるモリヤも。
それを腕組みしてにやにやと薄ら笑いを浮かべながら見ているモニカも。
どっちも、共に狂っている。
どうするつもりだモニカ。
笑ってる場合じゃないぞ。
こんな大事になっちまったら、高位の回復術師を呼んで今直ぐに接合治療を施さないと、斬れ飛んだ右脚は壊死して、モリヤ自身も失血死するぞ。
最低でも止血をするために術師を呼ばないと、このままじゃ俺達はギルド長殺しの犯人だ。
「っ……モニカ様!! これが、これがっ、私の覚悟ですっ! モニカ様! どうぞ私に、私めに、貴女だけにお仕えする、役っ……を、お与えください! おそっ、お側に! お側にお仕えすることを御許しください……!」
尻餅を突いたモリヤは斬れた太股を両手でがっちりと掴み、満足そうな笑みを浮かべてモニカを見上げている。
その間もモリヤの鼓動に合わせぴゅっ、ぴゅっ、と筋肉の隙間からてらてらと艶の在る鮮血が飛び出している。
流れている血の量がヤバい。マジで死ぬぞ。そう長くかからず致死量に至る早さで血が漏れている。
どうすんだよモニカ!?
俺がもう一度振り返ると、モニカがモリヤの血飛沫を浴び真っ赤に濡れた顔で、にっこりと笑っていた。
ゾクゾクゥッと俺の背筋に悪寒が走る。
俺は再びモニカに恐怖した。
モニカは、俺のことなど眼中に無いといった様子でゆっくりモリヤに歩み寄ると、小便と血液でびちゃびちゃになった床に膝を付き、ゆっくり右手を伸ばした。
「よぉく、頑張ったわねぇ。偉い偉い。貴方はとっても偉いわ。これで、貴方は私だけの物ね?」
モリヤの頭をゆっくり、ゆぅっくり、撫でるモニカ。
その姿はまるで我が子を慈しむ母親の様で、これが、膝を擦りむいた少年とそれを優しく励ます母親の姿であったなら、さぞかし絵になったことだろう。
しかし現実は、膝から下を自ら断ち斬り剥き出しになった筋肉や血管から血を漏らす肥えきった中年の男と、全身に拷問の跡が残る元貴族で元奴隷であった10代の少女だというのだから、奇妙や異様などという言葉ではまるで足りなかった。
おいおい、そんなことは良いから早くモリヤの治療をしないと、本当に死んじゃうって。
「モニカ様、貴女様に、私の全てを。命までも捧げます」
「ありがとう。実は私、早速貴方にお願いがあるの。良いわよね? 聞き入れてくれるわよね?」
「はい。勿論ですとも。何なりと。喜んでお受け致します。それで、私めは何をしたら貴女に喜んで頂けるのでしょう」
モニカは、モリヤの頭を撫でながら甘えるような声を出した。
モリヤは嬉しそうに目を閉じ、頭を撫でる手の感触を確かめている。
その姿は、もう人には見えなかった。
飼い主と、その従順な畜生。
立派な奴隷の姿が其処に在った。
「先ずは、私と貴方の事をこの町中に、そしてこの町に訪れる全ての商人に報せを出して頂戴。モリヤ・バンヘルンは、所有する一切の権利をこのモニカに譲渡する。と」
…………。
「分かりました。私めの全ては貴女だけの物。何でもお好きにお持ちになってください。直ぐに部下達を使い、報せを出しましょう。他に何か、私に出来ることは御座いませんか?」
…………。
「もう一つ。貴方には辛い御願いになるかもしれないのだけれど。良いかしら」
「はい。喜んで」
「脚の治療を、諦めて頂戴」
はっ!?
「その、失った脚を、私への忠誠の証として残してほしいの。だから、失った脚は諦めて頂戴」
おいおい……。
「おぉ、おおお……。モニカ様、モニカ様モニカ様……それこそ私には至上の喜び……。ああ……このモリヤ、この失った脚に懸けて貴女に終世尽くすと誓います。……ああ、今日はなんと幸福な日であることか。私は今日という日を生涯忘れることは御座いません……」
「ありがとう。今日という日は、私にとっても生涯大事な日となることでしょう。それでは、脚の治療を」
モニカがスッとモリヤの頭から手を離す。
「ああっ……はい。ではモニカ様、私の邸宅へ使いを出して頂けませんか? この町でも1、2を争う回復術師を雇い入れておりますので」
大事な玩具を取り上げられた子供の様にモニカの手を愛しそうに目で追うモリヤ。
既にモニカに心酔していることが、俺にもよく解った。
「ええ、ハルベルト。お願いね」
「……分かった。急いで連れてくる」
そう言い残し、俺は血塗れのまま、部屋を飛び出した。
部屋に二人だけ残すのは、さらにヤバいことが起こるんじゃないかと心配だが、モリヤのあの様子だとモニカに危険が及ぶようなことにはならないだろう
俺は、モリヤが失血で死なないことをただひたすらに祈るばかりだ。
俺はモリヤ邸を目指し、路地を走り抜ける。
……それにしても。
まさかこんな事になるなんて。
昨日の朝、ぼろ宿の床で目覚めた時には想像すらしなかった。いや、こんな事想像出来る訳が無いが。
それが、たった一日でこんな事になっちまうなんて。
あの女はやっぱりヤバい。
いや、それは今更か。
応援ありがとうございます!
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