上 下
12 / 14

信念と祈念の闘争

しおりを挟む


 エストレデルで唯一の王城は、太陽の光を受けて輝いていた。
 大きく開かれたバルコニーは、王族が登り人々に姿を見せるための場所である。そこから人々のいる広場までの距離は長く、上と下はお互いの顔など見えはしない。
 だが式典の際、バルコニーの下には、自分たちの国を治める王を一目みたい、祝福したいと多くの人が集う。
 この日だけは、その相手が違った。
 人々は伝説の聖女の姿を一目見ようと、広場に集まっている。
 主に聖女の容姿などに関して、様々な憶測が飛び交う様子は、とても戦争前の人の姿とは思えない。
 賑やかな歓迎と祝福。
 それを受ける聖女本人は、無表情に広場を眺めていた。式典が始まるまで彼女の出番は無い。待機のための部屋の窓から外を眺めているのだが、その視線は普段の彼女よりも数段冷ややかなものである。
 民衆には、処刑の事は知らされていない。
 華やかな衣装に身を包んだその肩には、ビルハが乗っている。赤い目は、心配そうに香里を見ていた。
 不意に扉がノックされ、香里は扉を振り返る。返事をする前に、ホルトが中に入ってきた。
「時間だよ」
 ホルトが差し出した手をすり抜け、香里は部屋を出る。香里の手は身体の前で重ねられたまま動かない。ホルトはあからさまな溜息を吐くと、彼女の前を歩き始めた。



………………



 太陽がちょうど頂点に差し掛かろうかという頃、3人は牢屋で手の自由を奪われ、処刑場となる広場へと連行された。
 とはいえ処刑は宣戦布告より後に行われるため、式典の間は広場への出入り口で待機する事になる。遙かに高い場所にバルコニーがあり、処刑が行われる場所を大きく取って、区切られた先に民衆がいた。
 結局昨晩、ニーナとアルバートが現れる事は無かった。脱出の打ち合わせなど、当然ながら全く何もしていない。
 完全にぶっつけ本番。臨機応変に行き当たりばったり。
 開始の時刻を知らせる鐘が鳴る。それが止んだ頃、王族の登場を飾るファンファーレが辺りに響いた。民衆の歓声が城を揺らす。
 空を見れば、幾つもの飛行艇が飛んでいた。それを見たジンガは首を傾げる。
 式典の時に飛行艇が上空を旋回する意味はあるのだろうか?
 その疑問が解決するより先に、後ろで人の呻き声が聞こえて身を竦める。
 振り返れば、自分たちを王都に送った戦闘員2人が、見張りの騎士を縛り上げている所だった。そばにいる2人の騎士は、紅烏の内通者だろうか。彼らを手伝っている。
「今のうちに上に行くでやんす!」
「上?」
「お頭が派手な登場をぶちかます間に、あんたらが聖女様を救いだすでがんす」
「つったって、城の中に騎士はまだ残ってるだろ?」
「心配ご無用、でやんす」
「騎士団のお偉いさんが、全員に城から出るように指示してくれたでがんす」
 つまり、城の中はもぬけの殻。
 騎士団長は王族の傍で護衛に当たるため、彼らの指揮まで目は届かない。
「まさか、そのお偉いさんって……」
「アルバート・ヴェルツェン第2師団長、って言ってたでやんす」
「騎士団のナンバー2のお人でがんす。どうやって仲間にしたでがんすか?」
 ラカーシャとミィメーリィが同時にため息をつき、ジンガは口を開けたまま呆然としていた。
「いや……確かにかなり上の方の人だろうとは思ってたが…」
「あの感じで事実上の第2位にいられる騎士団の内情が信じられない」
「……ま、まぁ、そんな事より」
「聖女様をお助けするでやんす!」
「聖女様をお助けするでがんす!」
 気を取り直したジンガの台詞が、2人の戦闘員に奪われる。
 何とも言えない空気を作りつつも、3人は彼らの先導に従って走った。


………………



 バルコニーから見える景色は、壮観と言えよう。それでも彼女の視線には何の感情もこもらない。
 香里はぼんやりと景色を眺めていた。ただここに立っているだけで、式典の進行は騎士団長や国王によりなされていく。
 ずっと聞こえていた飛行艇の駆動音が、少しずつ近づいている事に気づいた。正面を向いていた顔が上を向く。
 赤く彩られた飛行艇が、無数に空を飛び回っていた。そのうちの一つから何かが飛び出す。香里の目には、丸いおもちゃの飛行機のように見えた。
 それが城のバルコニーめがけて落ちてくる。周囲の人々がそれに気づいて逃げようとする中、香里は微動だにせずそれを見つめ続けた。
「ちょ……カオリちゃん!!」
 ホルトが駆け寄ろうとする前に、飛行機がバルコニーに擦るギリギリの位置を通り過ぎる。突風が辺りに吹き、何かがバルコニーに降り立った。
 香里の頭に、何か固いものが押し当てられる。それが銃口である事には気づかなかったが、覚えのある匂いが、それを持つ人物を連想させた。
「……ブーツで垂直落下はするもんじゃないねぇ」
「ピオニアさん!」
 ピオニアは香里の身体を押さえ込むフリをして、彼女の肩を励ますように叩く。それだけで、こめかみに移動した銃口も、彼女の作戦の内だと香里には信じられた。
「しぶとい上にしつこいなぁ……」
「お褒めに与り光栄ですよ」
 さらに背中の方から聞こえた声に、香里は安堵で膝から力が抜けそうになる。ウェルディスはピオニアと背中合わせに立ち、彼らを包囲する騎士たちを牽制していた。
「下手に動くと、聖女様の頭が吹き飛びますよ?」
「何せあたしらは、魔族の味方の紅烏だからねぇ」
 兜を纏う騎士達や、香里が背を向けているホルトの表情は解らないが、彼らは少なからず動揺している。
 騎士の輪が、ある人物の登場により崩れた。
 一際細かい装飾の甲冑。堂々とした姿の騎士は、僅かな怒りだけを滲ませて紅烏の頭領を見つめる。
「……随分派手なご登場だな。今まで逃げ回っていた割には」
「主役は良いところを持ってってナンボさ。……もっとも、それはあたしじゃないけどね」
 タイミングを見計らったかのように、城の中へ繋がる通路が乱暴に開かれた。騎士達の悲鳴があっという間に香里達の元へと近づき、大きな桃色の塊が香里の前に飛び出してくると香里の足下にすりよる。
「……ニーナ…」
 ニーナは自分の正面にいる騎士達を威嚇すると、香里の足下に座り込んだ。しっぽが揺れる度に励ますように香里の足に触れる。
 彼女が開いた通り道を、凝った細工の甲冑を纏った男がのんびりと歩いてきた。異様な状況をものともせず、聖女を守る虎の頭を撫でる。
「いつの間に虎使いになった?アルバート」
 名前を呼ばれた騎士は、上司に向き直った。ボサボサの焦げ茶色の髪や無精髭は、騎士団長とほぼ同格を示す甲冑とは合わない。しかしながら人の良さそうな雰囲気を持っており、それと整った顔立ちが不自然さを巧く打ち消しているようにすら感じられた。
「つい先日、運命的な出会いを果たしてな。……お前が強硬手段に出てくれたおかげで助かった」
 アルバートは手に持っていた紙の束を、ジュリアスに突きつける。それを見たジュリアスの表情は厳しく冷たいものに変わった。
「暗殺計画まで紙面に書き起こしちまうなんて、とんだ几帳面もあったもんだな」
「……それをどこで?」
「聞くか?自分が保管してた場所くらい覚えてるだろ」
 突きつけた紙の束を自分の前に戻すと、アルバートは数枚めくり、書かれた言葉を読み上げた。
「始祖ウィルスの人間に対する投薬実験。日付は5年前。受けたのは……ヘラ・アレグレット」
「……え…?」
 隻眼の騎士の困惑したような声が聞こえる。それを振り返る事なく、アルバートは続けた。
「この始祖ウィルスってのは、魔族を魔物化させる病気の原因となったもんだな。それを見つけた研究者達が、ベインディア公爵家……現在では騎士団長のお抱えになったわけだ」
「その研究によれば、始祖ウィルスは感染後の発症は早いが、空気中での生存時間が極端に短い。死体は砂に変わっちまうんだ。見つかったのも奇跡に近い」
「まぁそのウィルスが人間にどんな効果をもたらすか……そんな実験だったわけだ。結果は……彼女は異形の化け物に変わり、帰ってきた息子の手で殺された」
 息子の左目を抉り、瀕死の重傷まで追い込んだ事まで記録されている。
「……ここからは俺の推測だが」
 アルバートはホルトの方を向いた。
「実験に協力した彼女は、大事な一人息子の騎士学校卒業祝いのために、金が欲しかったんだろう。……自分が化け物に変えられる事なんか少しも知らなかったに違いない」
「違う!!」
 ホルトは叫ぶと、2人の許に駆け寄る。
「あれは事故だったって、家は研究所の近くだったし、だから!」
「言っただろう。ウィルスの生存時間は短いって」
 彼の右目が睨むようにピオニアを向いた。対するピオニアも冷ややかな態度で続ける。
「ウィルスが生存したままアンタの家に辿り着くのは不可能だ。……何より、周囲に家があったのに、集合住宅のアンタの母親だけ感染するなんてどんな偶然だい?」
 ホルトは小さく嘘だ、と繰り返しながら、ジュリアスを向いた。彼は変わらず正面のアルバートを睨んでいる。
「さぞや都合が良かっただろう。騎士学校を首席で卒業してて、剣も頭脳も申し分無い。母子家庭で母親さえいなくなれば身寄りも無い。そこで自分に心酔させてしまえば、なんとも都合の良い優秀な部下の完成だな」
 ジュリアスは何も言わない。しかし沈黙が、アルバートの言葉を肯定しているように香里には思えた。
 それはホルトも同じだったのかもしれない。彼は放心しているような様子で、ジュリアスを見ている。救いを求めるように。
「こんな荒っぽい手段を使ったのも、魔物にやられちまう部下ならいらない……ってな所か?」
「………参ったな。墓まで持っていくつもりの所までお見通しとは」
 乾いた笑いとは裏腹に、笑顔は穏やかなものだった。小さないたずらがバレてしまったかのような反応である。
 それに対し、ホルトの反応は大きな落胆だった。そしてあまりの内容に、聞いていた周囲の騎士達にも動揺が及んでいる。
「……お前があそこに行ったなら、目的はそこではないのだろう?」
「あぁそうだとも」
 アルバートはにっこりと笑って紙の束を丸めた。
「12年前の事もしっかり調べさせてもらったさ」
「やはり、そこか」
「お前……というよりかベインディア公爵家か。人間至上主義で魔族は滅ぼすべきだと長い事言ってきたのは有名な所だ」
 王族に近しい家系であるからなのか、その思考は長らく徹底していた。
 元より王都に暮らす貴族には、魔族を差別する傾向が根強い。だが家畜のように魔族を利用する貴族がいれば、ベインディアのように近くに置くのもおぞましいと思う貴族もいるため、魔族根絶の意志が浸透しているかといえばそんな事は無い。
「魔族の血を引いてる人間も当然疎ましい。……12年前の事件は、実験と邪魔者の排除を兼ねていた」
 当時、グレイ・ベルシスは魔族の集落などにも流通ルートを持っていた。商売を任せていた仲間には魔族も多く、つまりは王都に魔族が入る原因と言えなくもない。
「グレイは始祖ウィルスの研究者があんたの元に下った事を知ったから始末された」
 始祖ウィルスの存在を公にされる事が、当時のベインディアにはこの上なく不都合だった。
 彼らは魔族を見分ける用途に利用できないかという名目で、始祖ウィルスを研究していた。しかし中途半端に事実が公になれば、国家の転覆など考えてもいない事を疑われ、公爵家の立場が危うくなる。
 おそらくはグレイ・ベルシスもその情報を得た時、似たような不信感を持ったのだろう。『魔族固有の病気』を研究している者が『人間至上主義』の公爵家に出入りしている事を、不思議に思うなと言う方が難しい。
「あの頃は人間しか入れないって条件も外部にはあまり知れ渡って無かったからな。騎士団への志願者の中で、外見に特徴の出ていない魔族のハーフを2人、薬を飲ませて派遣すれば良い」
 家から出てきた魔物を事情を知る者だけで始末すれば、死体は砂に還り残らない。あとは目撃証言などを握りつぶしてしまえば、全ては闇に葬る事が出来る。
「誤算は、一人息子が生きていた事くらいじゃないか?」
「もうちょっとで処刑されるトコだったけどな」
 耳慣れた声に、香里は思わず振り返る。
 動揺している騎士達をかき分けながら、捕らえられていた仲間達が話の中心へと近づいてきた。
「ジンガさん!ラカーシャさん!みぃちゃん!」
 3人が近くに来た所で、ピオニアは香里を解放した。ミィメーリィがまっさきに香里に駆け寄り抱きつく。ラカーシャも香里の無事な姿を見て僅かに笑みを浮かべた。
「……これも君の仕業か。アルバート」
「あぁ。……俺は、長い事あんたが黒幕である可能性を否定してきたよ。同期のよしみでな」
 だが、調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、ジュリアスが黒幕であれば納得のいく事柄ばかりが出てきた。
「あんたの人となりは知ってるつもりだった……正直な事を言えば、悲しいさ」
「……私も悲しいよ」
 ジュリアスは口元に僅かに笑みを浮かべ、目を伏せる。
「君の事は数少ない友人の1人だと思ってきた。……君が人間で良かったと、心から思ったものだ」
「……俺が魔族だったら、そもそも友情が成立していないとは思わないかね」
「あぁ、それもそうだな」
 さらりと肯定すると、ジュリアスは懐から小さな機械を取り出した。
 それを合図にしたように、辺りに歌が響きわたる。周囲を見渡すが、それがどこから聞こえてくるのかは解らない。
 その場にいた全員が音の出所を探した。
「あ、あれか!?」
 上を見ていた騎士の1人が声を上げる。つられて顔を上げれば、城の屋根に腰掛け、水色の翼を広げて歌う有翼人の姿があった。美しい歌声と現実離れした容姿に、事を緊張しながら見守っていた人々も思わずため息を漏らす。
「……リュー…」
 リュシエルはひたすらに歌っていた。人々の反応など見向きもしない。ざわめきは歌を聴くために引いていく。
「有翼人……!」
 ジュリアスは機械を作動させるべく手を動かしたが……何も起こらない。
 香里の耳には、以前あの機械を使われた時と同じ音が届いていたが、側にいるラカーシャにもミィメーリィにも、変化は起こらなかった。
 その様子に焦ったのはジュリアスである。何の意味もなさなくなった機械と周囲を何度も見比べ、スイッチを入れ直しているようだったが、状況は何も変わらなかった。
「何故……っ!?」
「アンタ、馬鹿だねぇ。持ってきたのは薬の詳細やアンタの暗殺計画だけじゃ無かったって事さ」
 つまり、機械の設計図なども同時に持ち去る事に成功していたのである。
「それをうちの優秀なスタッフが解析して、あの子の歌唱力で無効化してもらってるわけさ」
「あぁ、ついででしたから、研究所に残っていた他の試作品も破壊させていただきました」
 それを肯定するように、紅烏の戦闘員2人も頭領の後ろでにんまり笑っていた。
「魔族を判別して虐殺、しかも魔物にしちまえば良心の呵責もなくなるなんてぶっとんだやり方、全くよく思いついたもんだと思うね」
 ピオニアの嫌味にも、ジュリアスが動じる様子は無い。口元には薄い笑みすら浮かんでいる。
「……ぶっとんだ、か。確かに常識は逸脱しているだろう。だがこの不毛な、未来永劫続く争いを断ち切るには、どちらかを滅ぼすしか道は無いだろう!」
 ジュリアスが合図すると、騎士達が慌ただしく動き出した。
 彼らは一度城内へ引っ込むと、大きな機械を押しながら戻ってくる。その形状は、ジュリアスが持っていた物を何十倍かに大きくしたものだった。
 それからして用途は明らかである。
「……またえらいのが出てきたな…」
「あの小娘の歌で、防げるものなら防いでみるが良い!」
 叫ぶと同時に、合図の手が上がった。
 そして一瞬と間を置かず、轟音が辺りに響きわたる。何か大きな物が落下したような音。
 それは余韻を残しながら過ぎ去った。
 誰も、様子が変わらない。予想と違う状況にジュリアスは顔を歪める。機械を大きな槍が深々と貫いていた。見事に中心部を撃ち抜いている。これではもうまともに動く事は無いだろう。細かな破片こそ飛び散っているが、周囲の人々が怪我をした様子は無い。
 大きな羽ばたきと共に、槍の持ち主が姿を現した。鷲を思わせる大きな翼と、それに見劣りしない逞しい身体。機械に深々と突き立った槍を引き抜くと、それを手に堂々と歩いてきた。
「怪しいと思ったので壊してしまったが、問題無かったか?」
「大丈夫。むしろグッジョブ」
 ピオニアが親指を立てると、ロクセルドは静かに頷く。
 ジュリアスは思いがけない展開に、聖女の周囲に集まる者達を呆然と見つめていた。
「……何故…」
 呟いた瞬間、彼の手から機械が叩き落とされた。
 それに気づいた時には、機械は地面に落ち、具足に踏みつぶされている。
 隻眼の騎士は、自身の足の先と砕けた欠片を見つめていた。いつの間にか歌は止み、静寂が場に流れる。
「……とても嬉しかった」
 ホルトは顔を上げる事無く、ぽつりと呟いた。僅かな間を置いて、続ける。
「何の不自由無くのほほんと騎士になってく連中がうらやましかったし、憎かった」
 娼婦だった母親は、彼が生まれたのを機に仕事を変えた。
 母親が娼婦だから、を言い訳にしない為に、ホルトに出来る限り良い教育をし、それが叶うだけの資金を稼ぐために朝も夜も働いていた。
 その背中を見て育ったホルトもまた、母親の身分をダシにされないよう、生まれの不利を言い訳にしないよう、努力を重ねてきた。
 学校を卒業して配属先も決まって、やっと母親の苦労に報いる事が出来ると安堵していた。
 首席卒業の副賞と花束を手に家に帰れば、待っていたのは母親のお気に入りのワンピースを着た化け物だった。髪型や面影に母の姿がわずかに残っていた事が、ホルトの判断の妨げになったのは間違いない。
 化け物は少年の剣によって砂に返ったが、彼は左目と、たった1人の家族を失った。
 心身喪失状態の彼を励ましたのは、他でもないジュリアスだった。毎日のように訪れては慰め、励まし、自分を肯定する彼を、ホルトは次第に信じるようになっていった。
「片目の不利も克服して、貴方の直属になれた時……初めて報われた気がした」
 騎士団長は変わらぬ表情で、部下の独白を見つめている。
「……バカバカしい……本当にバカバカしい……!!」
 走る銀の一閃を、ジュリアスは自らの剣で難なく受け止めた。
 うっすら涙の滲んだ瞳は、深い憎しみを以て彼を睨みつけている。
「さぞや愉快だっただろうな!あっさり信じてくれたんだから!!」
 押し返されるより先にホルトは剣を引き、首を狙って剣を振るも、ジュリアスは難なく対応した。
「……あぁ、お前は素晴らしい部下だった」
 軽々とその剣を退け、逆に首へと突きつける。
「私としても理想的だった……こんな事さえ起きなければ、一生仕えてもらいたかったくらいだ」
「ふざけんな!」
 力任せの一撃が、ホルトの首から切っ先をそらした。
 ジンガの大剣が、続けざまに下段から振りあげられる。それをジュリアスは後ろに下がる事で避け、切っ先を自分に向ける青年を見た。
「てめぇが酷ぇ目に合わせておいて謝罪も無しか!だから貴族なんて連中は嫌いなんだよ!」
 怒りを隠さないジンガを、ジュリアスは冷ややかな眼で見ている。
「……真の平和のためには、犠牲も必要になるだろう。聖女と魔王、太古から定められているという戦争の未来さえなければ、こんな事をする必要など無かっただろう」
「俺は難しい事を理解出来る頭は持ってねぇ。真の平和だなんて言われてもよく解んねぇ。ただ、どっちも実現が難しい話だとは思う」
 共存を選び戦争を拒絶し、平和に暮らしていく事。
 片方を根絶して戦争をそもそも起こらなくし、平和に暮らしていく事。
 どちらが易いかと言われ、そうそう結論の出る内容ではない。
「ただ、……誰も殺されないのが一番良い。……少なくとも俺は、平和のためなら誰かが死んで良いなんて思う奴にはなりたくない!!」
「……理解されない事は、こちらも承知の上だ。しかし私は、自分が間違っているとは思わない」
 ジュリアスは騎士達を一瞥した。困惑していた彼らは、騎士団長の視線を受けて思わずと言った様子で姿勢を正す。
「人間の栄光を、魔族の断絶を望む者は、私に従え!」
 その宣言に、騎士達の一部は迷い無く声を上げた。
 大半の視線はジュリアスと香里の間を行き来している。
「迷ってる奴は戦うな。どさくさに紛れた襲撃が無いように陛下を守れ! あいつに従えないと思う奴だけこっちについてこい!」
 アルバートが騎士達に叫ぶと、別の一団が声を上げた。
 騎士達は3つに別れ、慌ただしく王族を護衛する包囲が出来上がる。
「あ、あの…」
「無用な殺生はするな、ってトコかい?まぁ陛下の御前だからねぇ」
 香里の頭を、ピオニアが優しく撫でた。抱きついていたミィメーリィが離れて構える。
「相手次第だな。若干自棄になってるようだし」
「ジンガがやる気満々だし、あいつが親玉を相手してる間に他のが寄らないようにするだけで十分だろう」
 背負っていた槍を抜くラカーシャの隣に、ロクセルドとリュシエルが並んだ。
「あまり手荒い事をせずに済めば、それが一番なのだが」
「そうね。あまり怖くない人が戦ってくれれば良いのだけど」
 のんびりとしたリュシエルの発言に、人の姿に戻ったニーナが感心した様子でため息をついた。
「ねーちゃん結構無茶言うなぁ」
「ある程度迫力が無いと、騎士なんて仕事も難しいはずですがねぇ」
 くすくす笑いながら、ウェルディスは剣に手をかける。
 和やかな空気は次第に緊張していき、対立する双方が睨みあった。
 穏やかとは言い難い静寂が流れる。

 しばらくの間を置き、唐突に響いた金属音を合図に、騎士達が一斉に動き出した。
 ジンガの大剣とジュリアスの剣が、真っ向からぶつかり合う。騎士団長に加勢せんと動いた騎士の剣を、ホルトが叩き落とした。襲ってくる刃を難なく避け、お返しとばかりに柄を兜に叩きこむ。
 アルバートに従う騎士が、ジュリアスに従う騎士とぶつかりあった。アルバートの手勢の方が少ないが、そこは彼が加わる事で補っている。
 香里を取り返そうと迫る騎士を、ラカーシャの槍が阻んだ。そこにロクセルドが加わり、壁まで投げ飛ばす。
 敵に襲いかかろうとして避けられ、勢い余った者が何人かバルコニーから落ちていった。慌ててリュシエルが歌うと、風が落ちていく彼らの落下を緩める。敵味方の区別を付けている余裕は無かったようだ。
「足下注意しないと落ちちゃうみたいだよ?」
 そう言いながら、ニーナは自分に向かって走ってきた騎士の頭の上を軽々と飛び越える。ついでに頭を蹴りとばして転ばせた。戦っている騎士たちの合間を縫い、故意かは不明だが相打ちを誘発させている。結果的に彼女はほとんど攻撃していないが、騎士達の志気は順調に削がれていた。
 味方が減っている事には気づいているだろうが、ジュリアスの様子は変わらない。冷静にジンガの剣を受け止め、仲間の援護を無駄の無い動きで避けている。
 一方ジンガの方は、相手の強さを実感し、やや気圧されている様子であった。
 相手の剣に対して、防御が遅れる事も少なくない。致命傷を負っていないだけ、善戦しているといえるだろう。
「力の差は歴然。諦めるなら早い方が良い……だが、君は首を縦には振らないだろうな」
「当たり前だろ!」
「そうだろう。目の前にいるのは親の仇なのだから」
「……それだけじゃねぇ」
 剣を握り直し、相手を睨んだ。再び灯った闘志がジュリアスを貫く。
「お前を止めないと……仲間が酷ぇ目に遭う。これ以上お前の好きには…絶対させねぇよ!」
 僅かに笑みを浮かべると、ジュリアスはジンガに倣い、自らの構えを正した。
 一瞬の間を置いて、再び打ち合う。
 得物の大きさの差がありながら、2人の一撃の重みはほぼ同等、僅かにジュリアスの方が勝っている様子だった。
 僅かな隙をついてくる相手に対し、多少の傷を受けても攻撃を続ける。傷の数は増えていくが、それは相手にも同じ事が言えた。
 ジンガが痛みに緩む握りを正そうとした瞬間を、相手は見逃さない。
 一撃で、大剣が弾かれ石畳に突き刺さった。振り返る隙すら与えずに、追撃が襲いかかる。
 間一髪で避けるが、とても回収する隙は無い。
 状況に気づいたホルトが間に入ろうとするも、騎士がそれを阻む。
「ジンガ!」
 声に振り返り、飛んできた物を反射的に掴んだ。投げた相手は、自身に襲いかかってきた騎士を蹴りとばしている。
 礼を言うよりも先に、襲ってきた刃を鞘で受け止めた。相手が剣を引く一瞬に鞘から抜き放ち、次の一撃を防ぐ。
 見よう見まねで構えるジンガに、ジュリアスは哀れみに近い視線を向けた。
「慣れない武器で私に勝てると?」
「だが取りに行かせちゃくれないんだろ?あとは自分の記憶頼りだ」
 ジュリアスの一撃をどうにか避ける。すぐさま反撃に転じるが、間合いを把握しきれていないのために空振りに終わった。
 応酬を続けるうちに、徐々に間合いを掴んでいく。時には、騎士団で最も実力の高い男に、危ういと思わせるほどの反撃を見せつけた。
 異様とも言える成長の速さ。
 それは相手をしている男が最も感じている事だろう。とても慣れていない武器とは思えない。幾つもの才能を目にしてきた彼の記憶の中で、もっとも優秀である事は否定出来なかった。
 ジンガの方は死線の中での成長を自覚していない。ただ目の前の騎士に勝つためだけに、剣を振っている。
 彼が忌避し否定しつづけた才能は、ここに来て誰の目にも明らかに花開いた。
 動揺を収めるべく一歩後退したジュリアスに対し、ジンガは迷わず踏み込む。予想外の行動に息を飲んだ。ジンガはジュリアスが手を休めた時には必ず自分の体勢を立て直していたと彼は記憶している。
 その一瞬の迷いの分、回避も防御も間に合わない。
 ジンガの剣が、腹部を抉り斬り払う。ジュリアスは受け身を取る事も無く、地面に大の字に倒れた。
 甲冑が体重を負って音を立てる。決着を知らせるように響き、戦っていた者が皆、手を止めた。
「……見事だ」
 口を突いて出た言葉に対し、青年の視線は冷ややかなものである。
「誉められても嬉しかねーよ」
「……そうか」
 口元に僅かに笑みを浮かべると、ゆっくりと起きあがった。剣は地面に落としたまま、戦う手を止めた面々を見渡す。
 香里はジュリアスの傍らにひざまずいた。治癒を祈ろうとする前に、相手がそれを手で制止する。
「私よりも……他の者に」
「ですが……」
「私のこれは、貴女の意志を無視した報いです。……どうか他の者を先に」
 ジンガに視線を向けると、無言で頷き手振りで移動を促した。しばらく俯いた後、香里はバルコニーの端で倒れている騎士に向かって走っていく。
「……私は、間違っていない。それは今も思っている。だが、……聖女が望まないのなら……世界も望んでいないのだと、気づく事が出来れば良かった……」
 懸命に治癒を祈る聖女の姿を、騎士は優しい眼で見ていた。彼女は感謝の言葉に手を振って応え、また別の者を癒すために走っていく。
「世界も望んでいない、ねぇ」
 ジンガは香里の背中を見つめ、小さくため息を吐いた。
「そんなでっかいもんが背中についてるとは思えねぇけどな。あれ見てたら」
 石畳に躓いて転び、ピオニアに助け起こされている。
「ただのちょっと優しいお嬢さんじゃねぇか」
 肩を叩かれ、ジンガは振り返った。ラカーシャがジンガの武器を手に立っている。
 ジンガは血に濡れた刃を自分の衣服で軽く拭い、持ち主に返した。代わりに大剣を受け取る。
「助かった」
「……その場しのぎになりゃ十分と思ったが、すげぇもん見た気分だよ」
「そりゃどうも」
 ラカーシャは剣を改めて見てから、鞘に納めた。
「……最期に良いものが見られて良かった」
 呟き、彼は目を伏せる。
 僅かにざわつき始めた空気が、すぐに静寂へと変わった。
 異端を拒絶する静寂の中を、固い足音が進む。その歩みを進めるごとに言葉は消え、冷たい沈黙が流れた。
 先ほどまでいなかったはずの長い髪の少女が立っている。赤い髪に黒いメッシュが入った特徴的な色合いの少女は、冷たい空気を纏っていた。
 香里は彼女の服装に首を傾げる。普段の騎士の甲冑は着けておらず、鮮やかな赤のドレスに黒いマントを羽織っていた。
 エンリカはジュリアスの姿を見つけると、彼に向かってまっすぐに歩いていく。ジュリアスの方は側近の遅い来訪を訝っている様子だ。
「エンリカ、私は……」
 全て言い終わる前に、炸裂するような音がそれを遮る。
 エンリカの手に握られた剣は血に塗れ、その切っ先が抉った首からは血が溢れだした。
「役立たず」
 少女の冷ややかな言葉の後、男は再び床に倒れる。香里が駆け寄り治癒を祈るが、その傷が塞がる様子は無い。
「てめぇ、何しやがる!」
「トドメも刺せない弱虫が吠えないでくれる?」
 エンリカの冷ややかな態度に、香里は戸惑いを彼女に向ける。目が合った瞬間、彼女の腹部を衝撃が打った。受けた勢いのまま床を転がり、痛みに呻く。
「カオリ!」
 仲間が駆け寄ってくる中、桃色の虎がエンリカに向かって飛びかかった。エンリカはそれを難なく避け、ニーナを睨む。
「お腹蹴ったくらいでうるさいわねぇ。大体、貴女は魔族でしょ?」
「魔族だけど、聖女さまに乱暴する奴はゆるさない!」
 ニーナの全身の毛は逆立ち、傍目にも明らかな殺気を溢れさせている。対するエンリカの態度は変わらない。
「おい、カオリはあいつ知ってるのかい?」
「あの人は、騎士団長さんの側近の、エンリカさんです」
 ピオニアの問いに、香里は息を荒らげながらも簡潔に答えた。
「側近?ならなんで今まで出てこなかったんだ?」
「出てこれなかったんだよ!こいつ魔族だ!」
 ニーナが獣の唸りを上げながら叫ぶ。事の成り行きを呆然と見ていた王や、動揺を隠しきれない騎士たちも含む全員の視線が、エンリカに向いた。
「あら良く解ったわね。まだ名乗っても無いのに」
「お前からイヤな臭いがぷんぷんしてる。木花人……それも毒草の」
「……あらあら。……なら、私が何者かも理解できそうな所よね?」
 マントが風にはためく。宣戦布告の放送のために用意された機器を掴み、エンリカは遙か下方の広場を見た。
「聞け、不遇なる同胞よ!!我らの自由の為に我はここに立つ!」
 広場には戸惑いが見てとれる。バルコニーの混乱が把握できていないだけに、エンリカの言葉はさらにそれを助長した。
「我は魔王!エンリカ・エクシャール!!」
 一瞬、水を打ったように静かになる。
 徐々に恐怖が浸透していき、ざわめきが広がっていく。
「同胞よ、今こそ我らに勝利を!長き安寧にあぐらをかく人間共を、根絶やしにしようじゃないか!!」
 雄叫びは、広場ではなくその周囲から巻き起こった。
 魔族らしき者が、広場の出入り口を塞いでいる。おそらくは城も囲まれていることだろう。
「騎士団!全力で陛下を守れ!!伝令、広場の警備まで走って伝えろ!!全力で魔族の進入を食い止めろ!!!!」
「紅烏!戦闘部隊をかき集めてきな!騎士団の援護!!急げ!!」
 指令官二人の声が交差した。ウェルディスは空を飛び回る飛行艇に合図を送る。ほどなく一つが下降を始めた。阻もうとしているらしい有翼人達の姿を見て、ロクセルドとリュシエルが飛び立つ。
 2人に阻まれ、有翼人達は好機を伺うように旋回し始めた。その間に降りてきた小型の飛行艇は、バルコニーの正面で浮いたまま静止する。
「陛下を先に!」
 アルバートは戸惑う王族達を、開いた搭乗口に押し込んだ。
「下手な事するんじゃないよ?良いね!」
 ピオニアが伝令と共に操縦士に念を押すと、青ざめた彼は何度も首を縦に振る。定員ギリギリのため、彼らだけを乗せて上昇を始めた。阻もうとする有翼人は、リュシエルとロクセルドがどうにか食い止めている。
「貴女、魔族の味方じゃなかったの?」
「いんや、あたしは戦いを望まない者の味方さ」
「ふぅん……でも貴女の仲間には魔族がいるでしょ?」
「あたしを裏切るような奴は、最初から艇には乗せてないよ」
 騎士達は次々城内へ消えていった。指揮官であるアルバートも、ジンガ達に香里を任せて、現場の指揮を執るべく走っていく。
 上空を舞う飛行艇から、小型の艇が次々に飛び出して広場めがけて降りてきた。処刑場となるはずだった広場に着地して人々を乗せると、再び空へ飛び上がり母艦の飛行艇を目指す。魔王側の有翼人達は、紅烏のメンバーらしき有翼人達が食い止めていた。
 その様子を見ていたエンリカは、小さく舌打ちすると香里の方に視線をおろした。小さくなり震えている香里との間には、ジンガ達が立ち塞がっている。
「あーあー、良いわね聖女様。守ってくれるナイトがいっぱいいて」
 エンリカが手を動かすだけで、香里を守る輪が反応し狭まった。
「どいつもこいつも面倒くさい奴ばーっかり。……この人間至上主義のお貴族様もね」
 恨みの籠もった声と共に、ジュリアスの亡骸の頭を踏みつける。
 ジンガがエンリカに切りかかった。大剣は空を払い、エンリカは冷ややかな嘲笑をジンガに向ける。
「どうしたの?親の仇でしょ?怒る事ないじゃない」
 ジンガは何も答えず、大剣を構え直した。その視線は真っ直ぐエンリカを睨んでいる。
「貴方たちからしたら、こいつ極悪人じゃない」
「その極悪人を、自分の都合の良いように利用してきた魔王様がよく言うな」
 ホルトの指摘で、香里の脳裏にジュリアスの言葉が蘇った。今は壊れて動かない装置の残骸を振り返る。
『エンリカは優秀で助かる』
 背筋を冷たいものが伝い、思わず目の前のジンガの外套を掴んだ。視線だけが香里を振り返り、すぐに正面のエンリカに戻る。
「だって仕方ないでしょ?絶対勝ちたいんだもの」
 利用できるものは全て利用するものだろうと、エンリカは笑っていた。
「他の魔王みたいな無様な負け方、私はしない。私は人間を滅ぼす。魔族も、馬鹿ならいらない」
 私が必要とする者だけ、生きていれば良い。
 会話の背景では、次々に飛行艇が救出作業を進めている。騎士団が突破した包囲網の穴からも避難が進められ、広場の人口は半分ほどまで減っていた。
「何で、そうまでして……」
「貴女には言っても解らないわよ」
 見下した調子で、エンリカは言う。香里はその嘲笑を、何も返せずに見つめた。
「守られてるのが当たり前で、1人じゃ何も出来ない。誰にも彼にも可愛がられてる。……毎日きっと楽しいんじゃない?」
 答えずに俯く様子に、エンリカは歪んだ笑顔をますます深める。俯いた香里の表情は、不安すら無い空虚へと変わっていたが、それに気づく者は無い。
「ま、伝承の聖女なんか、それぐらい無能で丁度良いのかもしれないわね」
 血に塗れた剣が、天に向かって掲げられた。切っ先から漆黒の靄へと瓦解していく。靄は空中で剣から形を変え、全く異なる姿の武器を再び作り上げた。
 死神が持つような、巨大な鎌。漆黒のマントのシルエットからしても、エンリカの姿はまさしく死神のように見えた事だろう。対峙する面々は、鎌の放つ異様な気配を察知し、ますます守りを固めた。
「何したって無駄よ」
 ぽつりと呟き、エンリカは鎌を振った。
 真一文字を描いた軌道上には何も無いが、それを合図にしたように、漆黒の衝撃波が香里達を正面から襲う。
 前方向からの凄まじい圧力に、堪えきれずにほとんどが壁に叩きつけられた。
 香里も例外ではなく、痛みでその場にうずくまる。自分に近づいてくる足音に、僅かに顔を上げた。足音の主の姿が、前に立ちふさがる人の足に隠される。
 見慣れた姿。荒い呼吸が複数聞こえてくる。
 顔を上げる気力は無いが、香里は必死に治癒を祈った。自分を庇ってくれる仲間を僅かに癒す。しかし負った傷からすれば十分ではないのは明らかだった。
 隣で立ち上がる気配がして、そちらに視線を移す。自分よりも幼い少女が立ち上がっていた。
 その姿が、うっすら発光している。
「みぃちゃん……?」
 よく見れば視線は虚ろに宙を泳いでいた。光だけが強くなっていく。
 様子がおかしい事に気づいた仲間が声をかけようとした瞬間、光が強く瞬いた。
 光が止んだ後には、一頭の獣がちょこんと座っている。
 重力を感じさせない体毛。淡い水色のそれは、ふわふわと風になびいている。犬のように垂れた長い耳も長い尾も、柔らかな体毛に覆われていた。頭には赤い宝石のようなものが付いている。澄んだ青の瞳で、まっすぐにエンリカを見つめていた。
「古代種……!」
 エンリカは焦ったような声で言うと、迷わず鎌を振りかぶる。ミィメーリィが変身した獣はすぐさま正面に躍り出た。放たれた黒の衝撃波を、水色の障壁がかき消す。澄んだ鳴き声が響きわたった。
「頭領!」
 横から聞こえた声に振り返ると、紅烏の小型飛行艇が空中で止まっている。広場を見ると、もう人の姿は無い様子だった。
 ピオニアは迷わず香里を抱き起こし、人の姿に戻ったニーナに渡す。ラカーシャがすぐその脇を支え、飛行艇に入った。
 エンリカは飛行艇に攻撃を加えようとするが、ミィメーリィの障壁が全てを阻む。その間にも飛行艇は到着し、仲間を乗せては飛び立っていく。
「ミィメーリィ!」
 最後まで残っていたジンガが叫ぶと、ミィメーリィは最後に放たれた衝撃波をエンリカに打ち返した。
 彼女がそれに呻いている間に、ミィメーリィは飛行艇の搭乗口で待つジンガに飛びかかる。ジンガにぶつかる前に、その姿が元の少女の姿へと戻った。受け止めると、素早く身を翻し扉を閉める。
「出してくれ!」
 叫ぶより早く、飛行艇が空に向かって上昇を始めた。体勢を崩しそうになりながらも、ジンガはミィメーリィを座席に運ぶ。気絶した彼女は、あっさりと座席に収まった。小さな寝息を立てている。
「……大したもんだな、全く」
 彼女の隣に座るピオニアが、メガネと帽子を外してやり、その頭を撫でた。ジンガも座席から身を乗り出し、それに倣う。
 小型飛行艇が本隊に合流しても、彼女は眠ったままだった。


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ちゃぼ茶のショートショート 「無邪気な子供」

SF / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

約束。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:4

夜の闇を少しだけ、深く

ホラー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

王は月夜に優しく囁く

BL / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:28

世界最強の四大精霊〜貴族の貧乏くじは精霊に愛される〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:10

炎帝の真実

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:4

性病女

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

交番を見張る男

ホラー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

処理中です...