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朝まだき、蔵の奥に入ると、すでに源十の姿があった。肩に布を掛け、湯気の立つ搾り機の前に、どっしりと腰を据えている。静寂の中に、木が軋む音と水の滴る音だけがあった。すでに桶には仕込みから取り出したもろみが入れられ、布で包まれている。
「来たか」
「ああ。俺も、最初の一滴を見届けたくてな」
「見るだけじゃねぇ、飲んでもらう。……これが“還山”の最初の息だ」
源十はそう言い、搾り口の木栓をゆっくりと抜いた。ぬるりと音がして、白濁した液体がひとすじ、細く、慎重に落ちていく。蔵の空気が、張り詰めた糸のように静まった。
一滴、二滴、やがて細い流れが盃に溜まっていく。湯気のように立ちのぼる、甘い米の香り。静かに盃を受け取り、私は口に含んだ。
舌に、丸みがある。濃すぎず、軽すぎず、仄かに果実のような酸味すら感じられた。米の旨味がすっと消えて、後には淡い余韻だけが残る。
「……悪くない」
「よせやい、顔が緩んでるぜ、佐竹様」
「これなら出せる。いや、もっと高く売ってもいい味だ」
「そいつぁ嬉しいねぇ。三十年やってて、こういう瞬間があるからやめられねぇんだよ」
そこへ沙夜が飛び込んできた。手には小さな木札と墨壺。
「味、どうだった!?」
「試してみろ」
「え、あたしも?」
「お前が一番最初に動いた女だ。蔵に命を入れたのは、俺じゃなくて、お前だ」
「……なにそれ、ずるいねぇ。そんなこと言われたら、緊張するじゃないか」
沙夜は盃を受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。一口、二口、目を閉じて――そして、ぱちりと目を開けた。
「……これ、いける。いや、いけすぎる。米の香りが口に残らないのに、飲みごたえがある。あたしの舌、嘘ついてないよね?」
「ついてない。正解だ」
「よっし……! じゃあ、ラベルを仕上げる!」
「ラベル?」
「そうさ。“還山”って名前、書いて出すんだよ。町の連中が見て、“お、これか”って一目で分かるように。商売はね、味だけじゃダメなの。“顔”が要るのさ」
「字はお前が書くのか?」
「筆はある。墨もある。あとは……魂込めるだけさ」
彼女は勢いよく地面に座り込み、膝の上に札を置いた。筆を濡らし、墨をなじませ、一気に書き下ろす。迷いのない一筆だった。
乾きかけた墨の黒が、朝の光にきらりと光った。
私はそれを手に取った。
還山。山に還ると書いて、“かんざん”。名が生きていた。手触りの良い杉の木札、墨のにおい、紙ではなく木に書いたことで、温もりが残る。
「振舞いに間に合いそうだな」
「間に合わせるさ。っていうか、もう町中がうずうずしてるよ。あんたが水汲みに頭を下げた話も、屋根直した話も、みんな知ってる。話題はできてるんだ。あとは、“味”だけだ」
「じゃあ、俺たちに残されたことは、もう決まっているな」
「そう。最高の形で、あの場に出す。それだけだよ」
源十は黙って、また搾りの続きを始めた。布の間から、さらさらと酒が流れ出す音がした。そこに雑味はなく、ただ、誠実な米の声があった。
「庄三は?」
「町の振舞いの場所を手配してる。噂じゃ、“大黒堂”の前で、特設の屋台を作るとか。通りのど真ん中さ。目立つこと間違いなし」
「大黒堂か。……縁起がいいな」
「あたしらにぴったりだと思ってさ。元手代と元家老、しかも酒蔵。これ以上ない復活劇だよ」
「劇じゃなく、現実にする」
「そのために、いまここにいる。違うかい?」
私は返事をせずに、搾り機に近づいた。まだ残りのもろみが、布の中で熱を抱えていた。手を添えると、ほのかに温かかった。生きていた。米が、蔵が、町が、生きていた。
「もうひとつ言っておくけどさ」
沙夜の声が少しだけ低くなった。
「あたしは、あんたの名前でこの蔵を立て直そうなんて、一度も思ってないよ。あたしが賭けたのは、“あんた自身”だ」
「……何が言いたい」
「つまり、ここまで来てもしまた逃げたら、あたしがぶっ殺すって話さ」
「そうならんように、動いてるつもりだがな」
「ふふ、ならいいんだけどさ。あんた、つい前まで墓みたいな顔してたからね」
「そう見えたか」
「そりゃもう。今の方がずっといい」
搾り終えた酒を小瓶に詰めると、沙夜が丁寧に布で口を縛った。その手つきに、ほんの僅かな震えが見えた。
「……緊張してるのか?」
「するに決まってんでしょ。あたしらの全部が、この一瓶に詰まってるんだから」
「だったら、震えてもいい。伝わるさ」
「そっか。じゃあ、震えたまま行くよ」
振舞いまで、あと三日。町の祭りは徐々に熱を帯びてきていた。屋台の準備、通りの飾り付け、町の子供たちの遊戯練習――すべてが浮足立っていた。
だが、私たちは浮かれなかった。地に足をつけて、一歩ずつ仕込みを進めた。焦りも、不安も、すべて酒に込めた。
その夜、源十がふと、こんなことを言った。
「この酒が売れたらな、一升分だけ、昔の女に送りてぇ」
「女?」
「もう嫁いじまってる。とっくに縁は切れてるさ。でもよ、あいつが一度だけ言ったんだ。“お前の酒は、優しい”ってな」
「……いい言葉だ」
「酒ってのは、味だけじゃねぇんだよ。匂い、温度、思い出、そして――感情だ」
「なら、この蔵の酒は、何を込めた?」
「決まってんだろ、“生き直す”って感情さ」
「それなら、間違いない」
「ん?」
「売れるぞ。絶対にな」
「来たか」
「ああ。俺も、最初の一滴を見届けたくてな」
「見るだけじゃねぇ、飲んでもらう。……これが“還山”の最初の息だ」
源十はそう言い、搾り口の木栓をゆっくりと抜いた。ぬるりと音がして、白濁した液体がひとすじ、細く、慎重に落ちていく。蔵の空気が、張り詰めた糸のように静まった。
一滴、二滴、やがて細い流れが盃に溜まっていく。湯気のように立ちのぼる、甘い米の香り。静かに盃を受け取り、私は口に含んだ。
舌に、丸みがある。濃すぎず、軽すぎず、仄かに果実のような酸味すら感じられた。米の旨味がすっと消えて、後には淡い余韻だけが残る。
「……悪くない」
「よせやい、顔が緩んでるぜ、佐竹様」
「これなら出せる。いや、もっと高く売ってもいい味だ」
「そいつぁ嬉しいねぇ。三十年やってて、こういう瞬間があるからやめられねぇんだよ」
そこへ沙夜が飛び込んできた。手には小さな木札と墨壺。
「味、どうだった!?」
「試してみろ」
「え、あたしも?」
「お前が一番最初に動いた女だ。蔵に命を入れたのは、俺じゃなくて、お前だ」
「……なにそれ、ずるいねぇ。そんなこと言われたら、緊張するじゃないか」
沙夜は盃を受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。一口、二口、目を閉じて――そして、ぱちりと目を開けた。
「……これ、いける。いや、いけすぎる。米の香りが口に残らないのに、飲みごたえがある。あたしの舌、嘘ついてないよね?」
「ついてない。正解だ」
「よっし……! じゃあ、ラベルを仕上げる!」
「ラベル?」
「そうさ。“還山”って名前、書いて出すんだよ。町の連中が見て、“お、これか”って一目で分かるように。商売はね、味だけじゃダメなの。“顔”が要るのさ」
「字はお前が書くのか?」
「筆はある。墨もある。あとは……魂込めるだけさ」
彼女は勢いよく地面に座り込み、膝の上に札を置いた。筆を濡らし、墨をなじませ、一気に書き下ろす。迷いのない一筆だった。
乾きかけた墨の黒が、朝の光にきらりと光った。
私はそれを手に取った。
還山。山に還ると書いて、“かんざん”。名が生きていた。手触りの良い杉の木札、墨のにおい、紙ではなく木に書いたことで、温もりが残る。
「振舞いに間に合いそうだな」
「間に合わせるさ。っていうか、もう町中がうずうずしてるよ。あんたが水汲みに頭を下げた話も、屋根直した話も、みんな知ってる。話題はできてるんだ。あとは、“味”だけだ」
「じゃあ、俺たちに残されたことは、もう決まっているな」
「そう。最高の形で、あの場に出す。それだけだよ」
源十は黙って、また搾りの続きを始めた。布の間から、さらさらと酒が流れ出す音がした。そこに雑味はなく、ただ、誠実な米の声があった。
「庄三は?」
「町の振舞いの場所を手配してる。噂じゃ、“大黒堂”の前で、特設の屋台を作るとか。通りのど真ん中さ。目立つこと間違いなし」
「大黒堂か。……縁起がいいな」
「あたしらにぴったりだと思ってさ。元手代と元家老、しかも酒蔵。これ以上ない復活劇だよ」
「劇じゃなく、現実にする」
「そのために、いまここにいる。違うかい?」
私は返事をせずに、搾り機に近づいた。まだ残りのもろみが、布の中で熱を抱えていた。手を添えると、ほのかに温かかった。生きていた。米が、蔵が、町が、生きていた。
「もうひとつ言っておくけどさ」
沙夜の声が少しだけ低くなった。
「あたしは、あんたの名前でこの蔵を立て直そうなんて、一度も思ってないよ。あたしが賭けたのは、“あんた自身”だ」
「……何が言いたい」
「つまり、ここまで来てもしまた逃げたら、あたしがぶっ殺すって話さ」
「そうならんように、動いてるつもりだがな」
「ふふ、ならいいんだけどさ。あんた、つい前まで墓みたいな顔してたからね」
「そう見えたか」
「そりゃもう。今の方がずっといい」
搾り終えた酒を小瓶に詰めると、沙夜が丁寧に布で口を縛った。その手つきに、ほんの僅かな震えが見えた。
「……緊張してるのか?」
「するに決まってんでしょ。あたしらの全部が、この一瓶に詰まってるんだから」
「だったら、震えてもいい。伝わるさ」
「そっか。じゃあ、震えたまま行くよ」
振舞いまで、あと三日。町の祭りは徐々に熱を帯びてきていた。屋台の準備、通りの飾り付け、町の子供たちの遊戯練習――すべてが浮足立っていた。
だが、私たちは浮かれなかった。地に足をつけて、一歩ずつ仕込みを進めた。焦りも、不安も、すべて酒に込めた。
その夜、源十がふと、こんなことを言った。
「この酒が売れたらな、一升分だけ、昔の女に送りてぇ」
「女?」
「もう嫁いじまってる。とっくに縁は切れてるさ。でもよ、あいつが一度だけ言ったんだ。“お前の酒は、優しい”ってな」
「……いい言葉だ」
「酒ってのは、味だけじゃねぇんだよ。匂い、温度、思い出、そして――感情だ」
「なら、この蔵の酒は、何を込めた?」
「決まってんだろ、“生き直す”って感情さ」
「それなら、間違いない」
「ん?」
「売れるぞ。絶対にな」
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