左遷された筆頭家老、城下の酒蔵で再起を図る~戦国の地方都市を支配した“酒”と経済と女たち~

☆ほしい

文字の大きさ
7 / 31

しおりを挟む
 朝まだき、蔵の奥に入ると、すでに源十の姿があった。肩に布を掛け、湯気の立つ搾り機の前に、どっしりと腰を据えている。静寂の中に、木が軋む音と水の滴る音だけがあった。すでに桶には仕込みから取り出したもろみが入れられ、布で包まれている。

「来たか」

「ああ。俺も、最初の一滴を見届けたくてな」

「見るだけじゃねぇ、飲んでもらう。……これが“還山”の最初の息だ」

 源十はそう言い、搾り口の木栓をゆっくりと抜いた。ぬるりと音がして、白濁した液体がひとすじ、細く、慎重に落ちていく。蔵の空気が、張り詰めた糸のように静まった。

 一滴、二滴、やがて細い流れが盃に溜まっていく。湯気のように立ちのぼる、甘い米の香り。静かに盃を受け取り、私は口に含んだ。

 舌に、丸みがある。濃すぎず、軽すぎず、仄かに果実のような酸味すら感じられた。米の旨味がすっと消えて、後には淡い余韻だけが残る。

「……悪くない」

「よせやい、顔が緩んでるぜ、佐竹様」

「これなら出せる。いや、もっと高く売ってもいい味だ」

「そいつぁ嬉しいねぇ。三十年やってて、こういう瞬間があるからやめられねぇんだよ」

 そこへ沙夜が飛び込んできた。手には小さな木札と墨壺。

「味、どうだった!?」

「試してみろ」

「え、あたしも?」

「お前が一番最初に動いた女だ。蔵に命を入れたのは、俺じゃなくて、お前だ」

「……なにそれ、ずるいねぇ。そんなこと言われたら、緊張するじゃないか」

 沙夜は盃を受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。一口、二口、目を閉じて――そして、ぱちりと目を開けた。

「……これ、いける。いや、いけすぎる。米の香りが口に残らないのに、飲みごたえがある。あたしの舌、嘘ついてないよね?」

「ついてない。正解だ」

「よっし……! じゃあ、ラベルを仕上げる!」

「ラベル?」

「そうさ。“還山”って名前、書いて出すんだよ。町の連中が見て、“お、これか”って一目で分かるように。商売はね、味だけじゃダメなの。“顔”が要るのさ」

「字はお前が書くのか?」

「筆はある。墨もある。あとは……魂込めるだけさ」

 彼女は勢いよく地面に座り込み、膝の上に札を置いた。筆を濡らし、墨をなじませ、一気に書き下ろす。迷いのない一筆だった。

 乾きかけた墨の黒が、朝の光にきらりと光った。

 私はそれを手に取った。

 還山。山に還ると書いて、“かんざん”。名が生きていた。手触りの良い杉の木札、墨のにおい、紙ではなく木に書いたことで、温もりが残る。

「振舞いに間に合いそうだな」

「間に合わせるさ。っていうか、もう町中がうずうずしてるよ。あんたが水汲みに頭を下げた話も、屋根直した話も、みんな知ってる。話題はできてるんだ。あとは、“味”だけだ」

「じゃあ、俺たちに残されたことは、もう決まっているな」

「そう。最高の形で、あの場に出す。それだけだよ」

 源十は黙って、また搾りの続きを始めた。布の間から、さらさらと酒が流れ出す音がした。そこに雑味はなく、ただ、誠実な米の声があった。

「庄三は?」

「町の振舞いの場所を手配してる。噂じゃ、“大黒堂”の前で、特設の屋台を作るとか。通りのど真ん中さ。目立つこと間違いなし」

「大黒堂か。……縁起がいいな」

「あたしらにぴったりだと思ってさ。元手代と元家老、しかも酒蔵。これ以上ない復活劇だよ」

「劇じゃなく、現実にする」

「そのために、いまここにいる。違うかい?」

 私は返事をせずに、搾り機に近づいた。まだ残りのもろみが、布の中で熱を抱えていた。手を添えると、ほのかに温かかった。生きていた。米が、蔵が、町が、生きていた。

「もうひとつ言っておくけどさ」

 沙夜の声が少しだけ低くなった。

「あたしは、あんたの名前でこの蔵を立て直そうなんて、一度も思ってないよ。あたしが賭けたのは、“あんた自身”だ」

「……何が言いたい」

「つまり、ここまで来てもしまた逃げたら、あたしがぶっ殺すって話さ」

「そうならんように、動いてるつもりだがな」

「ふふ、ならいいんだけどさ。あんた、つい前まで墓みたいな顔してたからね」

「そう見えたか」

「そりゃもう。今の方がずっといい」

 搾り終えた酒を小瓶に詰めると、沙夜が丁寧に布で口を縛った。その手つきに、ほんの僅かな震えが見えた。

「……緊張してるのか?」

「するに決まってんでしょ。あたしらの全部が、この一瓶に詰まってるんだから」

「だったら、震えてもいい。伝わるさ」

「そっか。じゃあ、震えたまま行くよ」

 振舞いまで、あと三日。町の祭りは徐々に熱を帯びてきていた。屋台の準備、通りの飾り付け、町の子供たちの遊戯練習――すべてが浮足立っていた。

 だが、私たちは浮かれなかった。地に足をつけて、一歩ずつ仕込みを進めた。焦りも、不安も、すべて酒に込めた。

 その夜、源十がふと、こんなことを言った。

「この酒が売れたらな、一升分だけ、昔の女に送りてぇ」

「女?」

「もう嫁いじまってる。とっくに縁は切れてるさ。でもよ、あいつが一度だけ言ったんだ。“お前の酒は、優しい”ってな」

「……いい言葉だ」

「酒ってのは、味だけじゃねぇんだよ。匂い、温度、思い出、そして――感情だ」

「なら、この蔵の酒は、何を込めた?」

「決まってんだろ、“生き直す”って感情さ」

「それなら、間違いない」

「ん?」

「売れるぞ。絶対にな」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

【読者賞受賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

☆ほしい
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞受賞(ポイント最上位作品)】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...