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翌朝、湧き水を汲みに出た帰り道、町の辻で見知った顔に声を掛けられた。名をお甲という、年老いた女将で、かつては大野町一の茶屋を営んでいた女傑だ。私がまだ家老だった頃、一度だけ城に呼び寄せ、町人組合の調整役として起用したことがある。
「佐竹様、お戻りとはね。……まったく、噂どおりになさっているとは驚きましたよ」
「蔵の再建だ。水が必要でな、日課になった」
「ふふ、昔の殿様然としたお顔とは違うようですな。顔つきが、町の男になってきた」
「皮肉に聞こえるな」
「褒めてますよ。あたしの歳になるとね、上に立つ男の顔なんて、飾りより汚れの方をよく見るんです。……あんた、いまの方が断然、いい顔をしてる」
「ありがたいが、それはただの泥の色かもしれん」
「泥だろうが灰だろうが、塗れた者にしか見えぬ景色があるってもんです」
お甲はそう言って、少し目を細めた。
「町の振舞い、茶屋も出すんですよ。あんたの酒、楽しみにしてます」
「味が落ちていれば、遠慮なく吐き捨ててくれ」
「それはもう、遠慮なくね」
肩をすくめて笑ったその顔は、かつての茶屋の看板娘の片鱗を、わずかに残していた。
蔵に戻ると、源十がなにやら香のようなものを焚いていた。焦げた匂いに鼻をしかめながら近づくと、桶の周囲を囲むように米糠が撒かれている。
「なんだこれは」
「虫除けだ。温度が上がってきてる。気を抜けばすぐ雑菌が湧くぞ」
「香の焚きすぎで酔いそうだ」
「これくらい我慢しろ。今の時期が一番不安定なんだよ」
「なら、それをなんとか安定させるのが、お前の役目だろう」
「へっ、言ってくれるじゃねぇか」
源十は肩をすくめて笑ったが、その手は真剣だった。布巾を丁寧に水に浸し、桶の縁を拭いていく。まるで赤子を扱うような手つきだった。
沙夜はといえば、町の出入りに精を出していた。空き樽の買い付け、米商人との交渉、竹材の手配――そのどれもが金のかかる話だったが、彼女は一文も無駄にせず、驚くほどの手際で処理していった。
「そういえば庄三が、“味見役”を用意しようって言ってたよ」
昼下がり、米の選別をしていた沙夜が言った。
「味見役?」
「町の連中に小さな杯で飲ませて、感想を聞くって。あんたの名前は出さずに、“新しい蔵の試作品”ってことでさ」
「……反応を見るには悪くない方法だ」
「でしょ。あいつ、こう見えて町人の目線ってやつをよく知ってる。蔵の味は蔵の人間だけで決めちゃいけないって、あたしも思う」
「客の舌が、最終的な裁定者だ。尤もだ」
「でしょでしょ。じゃあ、あんたの分も含めて準備しておくよ。振舞いの前に、町で一度“味の揺さぶり”をかけるの」
「揺さぶり……言葉の選び方が、実に商人らしいな」
「……ほめてる?」
「ああ、ほめてる」
その晩、蔵の前で小さな焚き火を囲み、私は久々に燗酒を啜った。まだ蔵の酒は出せない。源十の許しも出ていない。だから市中の安酒を使った。味は薄く、香りは弱い。それでも火を通したことで、舌の上で僅かに甘みが転がった。
「……これでも飲めるんだから、人間は贅沢な生き物だ」
「ん? なんか言った?」
沙夜が草履を鳴らして隣に腰を下ろした。足元には竹皮で包んだ焼き芋が置かれていた。
「今日、利兵衛が来てたよ。振舞いの場所の下見だって。ついでに蔵の中を覗いてって、“よくここまで持ち直した”ってさ」
「口は悪いが、見る目はある男だ」
「でも、ひとつ言ってた。“見せ方が肝だ”って。どんなにいい酒でも、出し方で印象は変わるってさ」
「それも尤もだ。ならば、振舞いには一工夫が必要になる」
「“あんたらしい”見せ方、ってのを考えてみたら?」
「俺らしい、か」
「うん。あたしも考えてみるけど、やっぱりその蔵の顔って、杜氏でも手代でもなくて、“あんた”なんだと思う」
「俺はまだ、顔に泥を塗っている最中だがな」
「それでも顔は顔さ。泥も、血も、汗も、全部まるごと晒して生きてくれりゃ、それでいいんだよ」
「……その言葉、町に響くといいがな」
「響かせるのさ。響くまで、ぶつけてやるんだよ」
沙夜の目が焚き火の揺らめきに照らされて、まるで灯明のように光っていた。
「源十が、明日の朝に一滴搾るって言ってた。ほんの試し絞りだけど、香りがもう“立ってる”って」
「……ついに、か」
「うん。ようやくだね。あの冷たい蔵が、今じゃあったかいもん。あたし、あの味噌壺の埃を初めて見たときのこと、今でも思い出すよ。あんたの、あの顔も」
「どんな顔だった」
「さあね。でも、あたしには“ひとりで死ににきた男”に見えた。……違ったらごめん」
「……違わんよ」
「そっか。でも、今は?」
「今は――少なくとも、まだ死んでいない」
「じゃあ、生きてくれてありがと」
沙夜の声はいつになく小さく、それが逆に強く響いた。
「おい、芋、焦げてるぞ」
「うわっ、あーあ、また焦がしちゃった」
「火加減を見るのは得意だったんじゃないのか」
「火鉢と焚き火は違うの。あんたこそ、黙って見てるからだよ」
「人のせいにするな」
「うるさい」
そうして、夜は静かに更けていった。焚き火の残り火が赤く灯り、蔵の瓦に反射していた。奥では源十が酒母の調整に最後の手を入れているはずだ。明日には一滴。最初の一滴。すべては、そこから始まる。
「佐竹様、お戻りとはね。……まったく、噂どおりになさっているとは驚きましたよ」
「蔵の再建だ。水が必要でな、日課になった」
「ふふ、昔の殿様然としたお顔とは違うようですな。顔つきが、町の男になってきた」
「皮肉に聞こえるな」
「褒めてますよ。あたしの歳になるとね、上に立つ男の顔なんて、飾りより汚れの方をよく見るんです。……あんた、いまの方が断然、いい顔をしてる」
「ありがたいが、それはただの泥の色かもしれん」
「泥だろうが灰だろうが、塗れた者にしか見えぬ景色があるってもんです」
お甲はそう言って、少し目を細めた。
「町の振舞い、茶屋も出すんですよ。あんたの酒、楽しみにしてます」
「味が落ちていれば、遠慮なく吐き捨ててくれ」
「それはもう、遠慮なくね」
肩をすくめて笑ったその顔は、かつての茶屋の看板娘の片鱗を、わずかに残していた。
蔵に戻ると、源十がなにやら香のようなものを焚いていた。焦げた匂いに鼻をしかめながら近づくと、桶の周囲を囲むように米糠が撒かれている。
「なんだこれは」
「虫除けだ。温度が上がってきてる。気を抜けばすぐ雑菌が湧くぞ」
「香の焚きすぎで酔いそうだ」
「これくらい我慢しろ。今の時期が一番不安定なんだよ」
「なら、それをなんとか安定させるのが、お前の役目だろう」
「へっ、言ってくれるじゃねぇか」
源十は肩をすくめて笑ったが、その手は真剣だった。布巾を丁寧に水に浸し、桶の縁を拭いていく。まるで赤子を扱うような手つきだった。
沙夜はといえば、町の出入りに精を出していた。空き樽の買い付け、米商人との交渉、竹材の手配――そのどれもが金のかかる話だったが、彼女は一文も無駄にせず、驚くほどの手際で処理していった。
「そういえば庄三が、“味見役”を用意しようって言ってたよ」
昼下がり、米の選別をしていた沙夜が言った。
「味見役?」
「町の連中に小さな杯で飲ませて、感想を聞くって。あんたの名前は出さずに、“新しい蔵の試作品”ってことでさ」
「……反応を見るには悪くない方法だ」
「でしょ。あいつ、こう見えて町人の目線ってやつをよく知ってる。蔵の味は蔵の人間だけで決めちゃいけないって、あたしも思う」
「客の舌が、最終的な裁定者だ。尤もだ」
「でしょでしょ。じゃあ、あんたの分も含めて準備しておくよ。振舞いの前に、町で一度“味の揺さぶり”をかけるの」
「揺さぶり……言葉の選び方が、実に商人らしいな」
「……ほめてる?」
「ああ、ほめてる」
その晩、蔵の前で小さな焚き火を囲み、私は久々に燗酒を啜った。まだ蔵の酒は出せない。源十の許しも出ていない。だから市中の安酒を使った。味は薄く、香りは弱い。それでも火を通したことで、舌の上で僅かに甘みが転がった。
「……これでも飲めるんだから、人間は贅沢な生き物だ」
「ん? なんか言った?」
沙夜が草履を鳴らして隣に腰を下ろした。足元には竹皮で包んだ焼き芋が置かれていた。
「今日、利兵衛が来てたよ。振舞いの場所の下見だって。ついでに蔵の中を覗いてって、“よくここまで持ち直した”ってさ」
「口は悪いが、見る目はある男だ」
「でも、ひとつ言ってた。“見せ方が肝だ”って。どんなにいい酒でも、出し方で印象は変わるってさ」
「それも尤もだ。ならば、振舞いには一工夫が必要になる」
「“あんたらしい”見せ方、ってのを考えてみたら?」
「俺らしい、か」
「うん。あたしも考えてみるけど、やっぱりその蔵の顔って、杜氏でも手代でもなくて、“あんた”なんだと思う」
「俺はまだ、顔に泥を塗っている最中だがな」
「それでも顔は顔さ。泥も、血も、汗も、全部まるごと晒して生きてくれりゃ、それでいいんだよ」
「……その言葉、町に響くといいがな」
「響かせるのさ。響くまで、ぶつけてやるんだよ」
沙夜の目が焚き火の揺らめきに照らされて、まるで灯明のように光っていた。
「源十が、明日の朝に一滴搾るって言ってた。ほんの試し絞りだけど、香りがもう“立ってる”って」
「……ついに、か」
「うん。ようやくだね。あの冷たい蔵が、今じゃあったかいもん。あたし、あの味噌壺の埃を初めて見たときのこと、今でも思い出すよ。あんたの、あの顔も」
「どんな顔だった」
「さあね。でも、あたしには“ひとりで死ににきた男”に見えた。……違ったらごめん」
「……違わんよ」
「そっか。でも、今は?」
「今は――少なくとも、まだ死んでいない」
「じゃあ、生きてくれてありがと」
沙夜の声はいつになく小さく、それが逆に強く響いた。
「おい、芋、焦げてるぞ」
「うわっ、あーあ、また焦がしちゃった」
「火加減を見るのは得意だったんじゃないのか」
「火鉢と焚き火は違うの。あんたこそ、黙って見てるからだよ」
「人のせいにするな」
「うるさい」
そうして、夜は静かに更けていった。焚き火の残り火が赤く灯り、蔵の瓦に反射していた。奥では源十が酒母の調整に最後の手を入れているはずだ。明日には一滴。最初の一滴。すべては、そこから始まる。
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