左遷された筆頭家老、城下の酒蔵で再起を図る~戦国の地方都市を支配した“酒”と経済と女たち~

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 翌朝、蔵の木戸を開けると、まだ朝靄の残る空気に米の匂いが混じっていた。仕込みの支度はすでに始まっており、源十が桶に水を張りながら鼻歌を歌っている。無愛想な顔に似合わぬ調子の外れた節だったが、それを指摘しても「気にすんな」の一言で返されるのが分かっていたので、黙って背後を通り過ぎた。

「西の“梅屋”、どうだった」

「ん。あいつ、頑固だがな……うまいもんは分かってる。香りで唸った。一本、試しに置いてきた」

「それで?」

「帰り際、見送りにまで出てきやがった。次は“仕込みの時期を教えてほしい”とさ。笑えたぜ」

「成功だな」

「そいつぁ酒の功績だ。俺じゃねぇ」

 源十はそう言って、桶に浸けた麹袋を丁寧に撫でていた。蔵の中に立ち込めるのは蒸し上がる湯気と、発酵途中の米の発する甘い香り。静かな気配の中に、確かに“生きている”音が混じっている。

 沙夜は奥で帳簿を広げたまま、薄墨の筆を走らせていた。昨日持ち込まれた米が予定より三升少なかったことにぶつぶつ文句を言っていたが、それを問屋に確認する前に代替の仕入れ先を既に三つ書き出しているあたり、抜かりはなかった。

「庄三は?」

「東の酒場回ってる。例の“川久”が追加の三升、入ったってさ。今日は別の“花屋”にも顔を出すって」

「“花屋”か。あそこは……酒と花を抱き合わせる店だったな」

「そう。華やかな女将が取り仕切ってる。人目を引く立地だし、女客も多い。還山の“香り”が届くには、ちょうどいい場所だと思う」

「商売の顔にはもってこいだな」

「その分、見た目にもうるさいよ。酒の瓶の形、ラベルの字、注ぎ方、ぜんぶに口出す」

「ならば、一升瓶ではなく五合瓶で仕立てろ。手に取りやすい形のほうが印象がいい」

「わかった。字はあたしが書く」

 沙夜がそう言って立ち上がり、帳簿の端に走り書きするように「花屋用・五合瓶」そう記した。

「で、佐竹様。北の“役所”の方、話は進んでる?」

「今朝、旧知の役人から返事が来た。“お茶請けに試したい”そうだ」

「お茶請け、ねえ……まあ、酒を飲まぬ奴には、まず香りからだ」

「そのための香り酒だ。源十、あの薄仕込みの分、瓶詰めしておけ」

「ったく……まだ飲みごろじゃねぇがな。鼻にかけりゃ黙る連中なら、それで十分か」

「黙らせるのが目的だ。口を開けば、こちらの不利になる」

「へっ、策士だなあ、まったく」

「昔はな」

「いまもだよ」

 笑いながら、沙夜が戻っていった。筆を構え、紙の端からぐいと一文字目を書き始める。その腕の動きが、以前よりもなめらかになっている気がした。

 昼前になって、庄三が戻ってきた。髪は乱れていたが、顔色は上々。帯の中には店主たちの名刺札が五、六枚、折り重なって差し込まれている。

「ただいま戻りましたーっと。花屋、通った。女将、笑った。あれは脈あり」

「商談の話だ」

「もちろんさ。瓶の形にはうるさかったが、味は気に入ってた。“こんな酒、久しぶり”だってさ。薄仕込みが功を奏した」

「よし。三日後に再訪して、定期納品の契約に持ち込め」

「それがさ、なんと向こうから“定期納品できるのか”って聞かれた。もう一押しってとこだ」

「上出来だ。で、こっちは?」

「東の方も問題なし。“川久”は追加で五升。客にウケてる。“あっさりしてるのに香る”ってさ」

「伝わっているならいい」

 蔵の中では源十が仕込み桶を見つめ、麹の温度を測っていた。黙って手を入れ、少し眉をひそめてから火鉢の炭を足していく。やり方は粗いが、腕は確かだった。

「佐竹様、このまま行けば、来月末には十の酒場に還山が並ぶよ」

「並ばせるだけで終わらせるな。“残る”酒にしろ」

「そのつもりでいる。でも、“残す”ためには、もう一手がいる」

「何だ」

「祭り。還山の名を使った、酒の祭りだよ」

「祭り?」

「あたしたちが動いているのは、点でしかない。でも、町全体を動かすには、“面”が要る。その面を広げるには、祭りが一番早い。名を売り、味を試させ、人を集める」

「自分たちで?」

「そう。町の連中に声をかけて、協賛させる。呑み屋も花屋も酒場も巻き込んで、蔵を中心に一日限りの“還山まつり”をやるのさ」

「なるほど……人の流れを作るということか」

「そう。還山を“飲む”だけの酒から、“集まる”酒に変えるのさ」

「だが、資金は?」

「それも協賛。あとは、初の“限定酒”を造って、“還山祭り限定”って打ち出す。欲を煽って、買わせる」

「……いけるか?」

「やるしかない。動き出した以上、次を打たなきゃ飲まれる」

「動け。庄三、町の連中に話を回れ。源十、仕込みは三日以内に香りを仕上げろ。沙夜、お前は全体の帳を組め」

「へい!」

「了解!」

「言われなくてもやるさ!」

 その日、蔵の中はいつにも増して熱気に包まれた。誰もが忙しく、それでいて笑っていた。湯気と酒の香りと、土の湿り気が、なぜか心地よく感じた。
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