左遷された筆頭家老、城下の酒蔵で再起を図る~戦国の地方都市を支配した“酒”と経済と女たち~

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数週間後。俺たちの迅速な対応が功を奏し、北の村々からは疫病も飢えも、嘘のように消え去っていた。それどころか、俺たちが持ち込んだ味噌や醤油の製法、そして効率的な農法を学んだ村人たちによって、以前よりも活気に満ちた場所に生まれ変わりつつあった。

村々には、俺や還山衆への感謝を示す石碑が建てられ、子どもたちは、『還山』の歌を口ずさみながら遊んでいた。

この知らせは、当然、殿の耳にも入った。殿は、俺を城に呼び出すと、手放しでその功績を称えた。

「見事だ、貞吉! そなたは、一滴の血も流さず、戦に勝つのと同じ、いや、それ以上のことを成し遂げた! これこそ、まことの政よ!」

「もったいなきお言葉にございます」

「して、褒美は何が良い? 望むものを申してみよ。加増か? それとも、新たな役職か?」

俺は、静かに首を振った。

「私が望むものは、ただ一つ。この越前が、民が笑って暮らせる、豊かな国であり続けること。そのために、私に、もう一つだけ、新たな商いを始めるお許しをいただきたいのです」

「ほう、まだ何か企んでおるのか。面白い。申してみよ」

「はい。それは、『学問所』の設立にございます」

俺の言葉に、殿は目を丸くした。

「学問所、だと……? 寺子屋のようなものか?」

「いえ、もっと大きなものです。身分を問わず、誰もが読み、書き、算術を学べる場所。そして、優秀な者には、医学、薬学、天文学、そして……この国の外にある、広大な世界の知識を教えるのです」

「な……! それは、もはや国を担う人材を育てる機関ではないか!」

「その通りにございます。国を富ませるのは、銭や物だけではありませぬ。最終的には、『人』でございます。豊かな知識を持つ民が増えれば、この国は、これから先、百年、二百年と安泰でしょう。そして、その学問所を、還山衆が全面的に支援するのです。商人たちが、国の未来に、直接投資をする。これこそが、新しい国の形だと、私は信じます」

俺の壮大な構想に、殿は、もはや感嘆の言葉もなかった。ただ、深く、深く頷くと、こう言った。

「……好きにせよ、貞吉。この越前は、もはや、そなたの思うがままだ」

こうして、俺は、国を動かす経済システム、情報網、そして教育機関まで、そのすべてを掌握することになった。左遷された、ただの家老だった俺が、だ。

蔵に戻ると、源十が、黒く、とろりとした液体を入れた小皿を、無言で差し出してきた。鼻を近づけると、焦げたような、それでいて香ばしく、食欲をそそる匂いがした。

「……醤油か」

「ああ。試作の一番搾りだ。なめてみろ」

俺は、指先につけて、そっと口に含んだ。

瞬間、口の中に、複雑で、しかし驚くほどに調和のとれた旨味が広がった。塩辛さの中に、米からくる微かな甘みと、麹がもたらす深いコクがある。これは……うまい。ただの調味料ではない。料理の味を、何段階にも引き上げる力を持っていた。

「……これはいけるぞ、源十!」

「へっ、そうだろうよ。誰が造ったと思ってやがる」

「沙夜! すぐにこれを商品化するぞ! 名は、『還山・紫(むらさき)』だ! まずは、城下の料亭から売り込みをかけろ! これを使えば、店の格が上がると、大きく宣伝するんだ!」

「はい、お任せを!」

沙夜が、目を輝かせて駆け出していく。その背中を見送りながら、庄三がにやりと笑った。

「佐竹様、そういや、例の噂の件ですがね」

「ああ、隣国への噂か。何か、面白い反応でもあったか?」

「面白いなんてもんじゃありませんぜ。越前の豊かな暮らしと、還山衆の噂を聞きつけて、隣国の腕利きの職人や、商売に行き詰まった商人たちが、こぞって越前に移り住みたいと、密かに人を寄越してきてるんです」

「……ほう」

「どうします? 受け入れますかい?」

「無論だ。門戸は常に開いておけ。だが、条件がある。この越前のために働く気概のある者だけを受け入れろ。ただ銭を儲けたいだけの者は、追い返せ」

「へい、承知いたしました。いやはや、佐竹様の手のひらの上で、国が転がってるようですな!」

俺は、ただ静かに笑った。転がしているつもりはない。流れを作り、導いているだけだ。より豊かで、より大きな海へと。

そんなある日、俺が越前会館で商人たちと新たな港の設計について議論していると、一人の役人が慌てて駆け込んできた。

「筆頭殿! 蟄居中の松永様が、屋敷で……!」

俺は、その言葉を聞いて、すべてを察した。

松永の屋敷を訪れると、部屋はきれいに片付けられ、中央には、一枚の書き置きを残して、彼が自刃した後があった。書き置きには、震える文字で、こう記されていた。

『完敗であった。だが、この国を思う心、偽りではなかった。越前の未来、頼んだぞ、佐竹貞吉』

俺は、黙ってその亡骸に手を合わせた。敵ではあったが、彼もまた、彼なりのやり方で、この国を愛した男だったのだろう。その死を、無駄にはしない。

松永の死は、旧体制の完全な終わりと、俺が作る新時代の本格的な幕開けを、誰の目にも明らかにした。もはや、俺のやることに、異を唱える者は、この越前には一人もいなくなった。

学問所『明倫堂』は、還山衆の全面的な支援のもと、瞬く間に完成した。入学を希望する子どもたちが、身分を問わず、列をなして門をくぐる。その輝くような瞳を見ていると、俺の胸にも熱いものがこみ上げてきた。この子たちが、次の越前を、そして、次の日本を、作っていくのだ。

そして、ついにその日がやってきた。『越前丸』が、初めての交易を終え、南蛮の珍しい品々と、莫大な利益を積んで、港へと帰ってきたのだ。

港は、再び数万の民で埋め尽くされ、その歓声は天を衝くようだった。船から降りてきた船乗りたちが、誇らしげに胸を張り、見慣れぬ果物や織物を、集まった人々に投げてよこす。

俺は、丘の上の蔵から、その光景を眺めていた。隣には、いつものように、沙夜と庄三、そして源十がいる。

「……始まったな」

俺が呟くと、沙夜がこくりと頷いた。

「ええ。本当の、始まりね」

俺たちの酒が、船に乗り、海を渡り、国境を越える。そして、富と、知識と、新しい文化を、この国にもたらす。

左遷された家老が始めた静かな革命は、今や、この国そのものの形を、大きく、そして確かなものへと変えようとしていた。

ふと、庄三が空を見上げて言った。

「そういや、佐竹様。あの後、帝からの使いはどうなったんで?」

そういえば、そんな話もあったな、と俺は思い出した。あの祝宴の日、見聞き役が慌てて駆け込んできた、あの知らせだ。越前の再建に夢中になるあまり、すっかり頭から抜け落ちていた。

「ああ、そのことか。どうやら、俺が造った『還山・天頂』が、公家を通じて帝の元に献上されたらしい。それをたいそうお気に召したとかで、一度、顔を見たいということだった」

「へえっ! 帝に!? そりゃ、とんでもねえことじゃねえですか! なんで黙ってたんです!?」

庄三が、目を剥いて驚いている。

「断ったからだ」

「はあ!? 断った!? 帝のご命令を!?」

「勅命ではない。ただの、お召しだ。それに、今の俺には、京に上がるよりも、この町でやるべきことがある。越前丸の船出、明倫堂の開校……。どれも、俺がいなくては、始まらんことばかりだったからな」

俺は、平然と答えた。

「『今は、越前の民のために働くことこそが、帝への最大の忠義と信じます。いずれ、この越前が、日ノ本一の豊かな国となった暁には、その土産を携え、必ずや参内いたします』。そう、返上しておいた」

俺の言葉に、三人は、もはや呆れるのを通り越して、腹を抱えて笑い出した。

「はっはっは! さすがは佐竹様だ! 言うことが違うぜ!」

「もう! ほんとに、心臓に悪い人ね! でも、そういうところ、嫌いじゃないわ!」

「へっ。帝より、目の前の麹の方が、よっぽど大事だ」

そうだ。俺たちの居場所は、ここだ。この蔵で、この仲間たちと、最高の酒を造り、この国を豊かにしていく。それ以上の誉れなど、俺には必要なかった。
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