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第1話 智に働けば角が立つ異世界
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智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。しかし、どうやら吾輩は、詩や画を作る前に、住む世界そのものを引越してしまったようである。
気がつくと、吾輩は鬱蒼とした杉林の中に寝転んでいた。
背中には湿った苔の感触がある。見上げれば、見たこともない極彩色の鳥が、けたたましい鳴き声を上げて飛び去っていく。空の青さは、まるで西洋の油絵の具をチューブから直接搾り出したように、毒々しいまでに鮮やかだ。武蔵野の雑木林のような、淡白な趣というものがない。
「これは一体、どうした訳だ」
起き上がろうとして、吾輩は己の身体の異変に気づいた。軽い。まるで重力が半分になったかのように、すっと腰が浮く。長年、書斎の机にしがみついて培った猫背も、心なしか伸びやかである。持病の胃弱も、神経衰弱も、どこかへ消し飛んでしまったらしい。
結構なことだ、と言いたいところだが、どうも具合が悪い。
眼前の虚空に、奇妙なものが浮いているからだ。
それは、透明な硝子板のようなものであった。長方形の枠の中に、白い光で文字が書かれている。誰かが幻燈の機械でも使って、空中に文字を映写しているのかしらん、と疑ってみたが、映写機も見当たらないし、幕もない。その硝子板は、吾輩の視線に合わせてゆらゆらとついてくる。実に鬱陶しい。
そこに書かれている文言を読んで、吾輩は失笑した。
『氏名:ナツメ・ソウセキ
職業:大賢者
階梯:九十九
体力:九九九九
魔力:九九九九』
「……馬鹿馬鹿しい」
思わず声が出た。人間というものは、何かにつけてレッテルを貼りたがる生き物である。学校へ行けば席次をつけられ、役所へ行けば等級で分けられ、牛鍋屋へ行けば肉の質で値段を決められる。だが、これはいささか度が過ぎているのではないか。
個人の徳行や才覚を、あろうことか算術の数字ごときで計ろうとは、無粋の極みである。しかも「大賢者」とは恐れ入る。吾輩はただの教師であり、少しばかり筆を動かす書生に過ぎない。それを九十九などという、百にも満たない中途半端な数字で格付けされる覚えはない。
「ええい、邪魔だ。消え失せろ」
手で払いのけようとしたが、硝子板は蜃気楼のようにすり抜けるだけで、手応えがない。吾輩は嘆息した。どうやらこの世界は、吾輩のような旧弊な人間に、無理やり「数字」という名の着物を着せようとしているらしい。文明開化もここまで来れば、いっそ滑稽である。
吾輩は杖を拾い上げた。いつの間にか手元にあった、樫の木のような立派な杖だ。これも「大賢者」の持ち物だというのだろう。ステッキ代わりにこれをついて、とにかく歩き出すことにした。
道らしきものはない。ただ、草を分け入って進む。
草枕の旅路といきたいところだが、風流を解さない連中が、さっそくお出ましになった。
ガサガサと笹薮が揺れ、飛び出してきたのは、二尺ばかりの小男である。いや、男と呼ぶにはあまりに醜怪だ。皮膚は青黒く、泥にまみれ、口からは猪のような牙が突き出ている。腰に汚れた布を巻き、手には錆びた鉈を持っている。
西洋の御伽噺に出てくる小鬼、ゴブリンとかいう奴だろうか。
吾輩は立ち止まり、その奇妙な生物を観察した。彼らは三匹いた。互いに何やら金切り声で喚き合っている。その声は、神田の職人が喧嘩をしている時のようで、甚だ耳障りだ。
「おい、君たち」
吾輩は努めて穏やかに声をかけた。
「吾輩は通りすがりの者だ。君たちと争うつもりはない。そこを退いてはくれまいか」
しかし、小鬼たちには通じないらしい。彼らは下卑た笑い声を上げ、涎を垂らしながら、じりじりと包囲を縮めてくる。その眼には、知性のかけらもなく、ただ食欲と殺意だけがギラギラと光っている。非人情の美学など、説いて聞かせるだけ無駄な相手だ。
先頭の一匹が、奇声を上げて飛びかかってきた。
「危ない」
吾輩は反射的に、手に持っていた杖を前に突き出した。
その瞬間である。
カッ、と杖の先が閃いたかと思うと、耳をつんざくような轟音が響いた。
まるで横浜の港で大砲でも撃ったような騒ぎだ。吾輩は驚いて尻餅をついた。
硝煙が晴れると、そこには何もなかった。
飛びかかってきた小鬼も、後ろにいた二匹も、影も形もない。ただ、地面に巨大な穴が穿たれ、周囲の杉の木が黒焦げになって倒れているだけである。
「……何だ、これは」
吾輩は呆然として、自分の手を見た。震えている。人を殺めたという実感すらない。ただ杖を向けただけで、対象が消滅してしまったのだ。
すると、例の硝子板が、またしても空中に浮かび上がった。ポン、という間の抜けた音と共に、新しい文字が表示される。
『天賦の才《爆縮の理》を発動しました。
経験値獲得。
階梯が上昇しました。』
「五月蝿い!」
吾輩は怒鳴った。
これが「魔法」だというのか。いや、これは術ではない。暴力だ。それも、汗もかかず、痛みも感じず、指先一つで他者を抹殺する、最も卑劣で、最も安直な暴力だ。
西洋の手品師でも、もう少し手の込んだことをするだろう。種も仕掛けもなく、ただ「念じた」だけで結果が出る。ここには過程がない。努力がない。葛藤がない。
坊っちゃんが赤シャツの陰湿な画策に怒ったように、吾輩はこの理不尽な「万能」に対して、猛烈な義憤を感じた。
こんな安っぽい全能感で、人間が幸福になれるはずがない。苦労して登るから登山は面白いのだ。一足飛びに頂上へ着いて、何が面白いものか。そんなものは、ヘリコプターで富士山頂へ降り立つようなもので、風情もへったくれもない。
「ふん、大賢者か。聞いて呆れる」
吾輩は埃を払い、立ち上がった。
どうやらこの世界は、吾輩を「チート」とかいう、インチキな能力で飾り立て、英雄に仕立て上げようとしているらしい。だが、そうは問屋が卸さない。吾輩は、明治の頑固者である。そのような流行り廃りの「お膳立て」に乗ってたまるものか。
吾輩は決めた。
このふざけた数字の羅列を無視し、この身に宿った理外の力を封印し、あくまで一介の書生として、この異世界を冷ややかに観察してやろうと。
それが、このデタラメな世界に対する、吾輩なりの精一杯の抵抗である。
「さて、まずは人里を探さねばならんか」
吾輩は再び歩き出した。杖は、今度は爆発しないように、そっと地面についた。
木漏れ日が、吾輩の影を地面に落とす。その影法師だけは、元の世界と変わらず、少し猫背で、頼りなさげに揺れていた。
鳥の声がする。
「ホーホケキョ」と鳴くかと思えば、「レベルアップ、レベルアップ」と鳴いているように聞こえるから不思議だ。
全く、厄介なところへ来てしまったものである。
この先、どのような魑魅魍魎が待ち受けているか知れぬが、まあ、なるようになるだろう。
吾輩は懐から煙草を取り出し、マッチを擦った。
紫煙が、異世界の空に細くたなびいていく。
その煙の行方を眺めながら、吾輩は、遠い日本の、硝子戸の中の静寂を少しばかり恋しく思ったのである。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。しかし、どうやら吾輩は、詩や画を作る前に、住む世界そのものを引越してしまったようである。
気がつくと、吾輩は鬱蒼とした杉林の中に寝転んでいた。
背中には湿った苔の感触がある。見上げれば、見たこともない極彩色の鳥が、けたたましい鳴き声を上げて飛び去っていく。空の青さは、まるで西洋の油絵の具をチューブから直接搾り出したように、毒々しいまでに鮮やかだ。武蔵野の雑木林のような、淡白な趣というものがない。
「これは一体、どうした訳だ」
起き上がろうとして、吾輩は己の身体の異変に気づいた。軽い。まるで重力が半分になったかのように、すっと腰が浮く。長年、書斎の机にしがみついて培った猫背も、心なしか伸びやかである。持病の胃弱も、神経衰弱も、どこかへ消し飛んでしまったらしい。
結構なことだ、と言いたいところだが、どうも具合が悪い。
眼前の虚空に、奇妙なものが浮いているからだ。
それは、透明な硝子板のようなものであった。長方形の枠の中に、白い光で文字が書かれている。誰かが幻燈の機械でも使って、空中に文字を映写しているのかしらん、と疑ってみたが、映写機も見当たらないし、幕もない。その硝子板は、吾輩の視線に合わせてゆらゆらとついてくる。実に鬱陶しい。
そこに書かれている文言を読んで、吾輩は失笑した。
『氏名:ナツメ・ソウセキ
職業:大賢者
階梯:九十九
体力:九九九九
魔力:九九九九』
「……馬鹿馬鹿しい」
思わず声が出た。人間というものは、何かにつけてレッテルを貼りたがる生き物である。学校へ行けば席次をつけられ、役所へ行けば等級で分けられ、牛鍋屋へ行けば肉の質で値段を決められる。だが、これはいささか度が過ぎているのではないか。
個人の徳行や才覚を、あろうことか算術の数字ごときで計ろうとは、無粋の極みである。しかも「大賢者」とは恐れ入る。吾輩はただの教師であり、少しばかり筆を動かす書生に過ぎない。それを九十九などという、百にも満たない中途半端な数字で格付けされる覚えはない。
「ええい、邪魔だ。消え失せろ」
手で払いのけようとしたが、硝子板は蜃気楼のようにすり抜けるだけで、手応えがない。吾輩は嘆息した。どうやらこの世界は、吾輩のような旧弊な人間に、無理やり「数字」という名の着物を着せようとしているらしい。文明開化もここまで来れば、いっそ滑稽である。
吾輩は杖を拾い上げた。いつの間にか手元にあった、樫の木のような立派な杖だ。これも「大賢者」の持ち物だというのだろう。ステッキ代わりにこれをついて、とにかく歩き出すことにした。
道らしきものはない。ただ、草を分け入って進む。
草枕の旅路といきたいところだが、風流を解さない連中が、さっそくお出ましになった。
ガサガサと笹薮が揺れ、飛び出してきたのは、二尺ばかりの小男である。いや、男と呼ぶにはあまりに醜怪だ。皮膚は青黒く、泥にまみれ、口からは猪のような牙が突き出ている。腰に汚れた布を巻き、手には錆びた鉈を持っている。
西洋の御伽噺に出てくる小鬼、ゴブリンとかいう奴だろうか。
吾輩は立ち止まり、その奇妙な生物を観察した。彼らは三匹いた。互いに何やら金切り声で喚き合っている。その声は、神田の職人が喧嘩をしている時のようで、甚だ耳障りだ。
「おい、君たち」
吾輩は努めて穏やかに声をかけた。
「吾輩は通りすがりの者だ。君たちと争うつもりはない。そこを退いてはくれまいか」
しかし、小鬼たちには通じないらしい。彼らは下卑た笑い声を上げ、涎を垂らしながら、じりじりと包囲を縮めてくる。その眼には、知性のかけらもなく、ただ食欲と殺意だけがギラギラと光っている。非人情の美学など、説いて聞かせるだけ無駄な相手だ。
先頭の一匹が、奇声を上げて飛びかかってきた。
「危ない」
吾輩は反射的に、手に持っていた杖を前に突き出した。
その瞬間である。
カッ、と杖の先が閃いたかと思うと、耳をつんざくような轟音が響いた。
まるで横浜の港で大砲でも撃ったような騒ぎだ。吾輩は驚いて尻餅をついた。
硝煙が晴れると、そこには何もなかった。
飛びかかってきた小鬼も、後ろにいた二匹も、影も形もない。ただ、地面に巨大な穴が穿たれ、周囲の杉の木が黒焦げになって倒れているだけである。
「……何だ、これは」
吾輩は呆然として、自分の手を見た。震えている。人を殺めたという実感すらない。ただ杖を向けただけで、対象が消滅してしまったのだ。
すると、例の硝子板が、またしても空中に浮かび上がった。ポン、という間の抜けた音と共に、新しい文字が表示される。
『天賦の才《爆縮の理》を発動しました。
経験値獲得。
階梯が上昇しました。』
「五月蝿い!」
吾輩は怒鳴った。
これが「魔法」だというのか。いや、これは術ではない。暴力だ。それも、汗もかかず、痛みも感じず、指先一つで他者を抹殺する、最も卑劣で、最も安直な暴力だ。
西洋の手品師でも、もう少し手の込んだことをするだろう。種も仕掛けもなく、ただ「念じた」だけで結果が出る。ここには過程がない。努力がない。葛藤がない。
坊っちゃんが赤シャツの陰湿な画策に怒ったように、吾輩はこの理不尽な「万能」に対して、猛烈な義憤を感じた。
こんな安っぽい全能感で、人間が幸福になれるはずがない。苦労して登るから登山は面白いのだ。一足飛びに頂上へ着いて、何が面白いものか。そんなものは、ヘリコプターで富士山頂へ降り立つようなもので、風情もへったくれもない。
「ふん、大賢者か。聞いて呆れる」
吾輩は埃を払い、立ち上がった。
どうやらこの世界は、吾輩を「チート」とかいう、インチキな能力で飾り立て、英雄に仕立て上げようとしているらしい。だが、そうは問屋が卸さない。吾輩は、明治の頑固者である。そのような流行り廃りの「お膳立て」に乗ってたまるものか。
吾輩は決めた。
このふざけた数字の羅列を無視し、この身に宿った理外の力を封印し、あくまで一介の書生として、この異世界を冷ややかに観察してやろうと。
それが、このデタラメな世界に対する、吾輩なりの精一杯の抵抗である。
「さて、まずは人里を探さねばならんか」
吾輩は再び歩き出した。杖は、今度は爆発しないように、そっと地面についた。
木漏れ日が、吾輩の影を地面に落とす。その影法師だけは、元の世界と変わらず、少し猫背で、頼りなさげに揺れていた。
鳥の声がする。
「ホーホケキョ」と鳴くかと思えば、「レベルアップ、レベルアップ」と鳴いているように聞こえるから不思議だ。
全く、厄介なところへ来てしまったものである。
この先、どのような魑魅魍魎が待ち受けているか知れぬが、まあ、なるようになるだろう。
吾輩は懐から煙草を取り出し、マッチを擦った。
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