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第2話 算術と打算の寄合所
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杉林を抜けると、眼下に城壁に囲まれた町が見えた。
西洋の油絵にあるような、赤い煉瓦と尖った塔の屋根が乱立している。空は相変わらず毒々しいほどに青く、そこへ書き割りのような白い雲が張り付いている。どうにも奥行きというものがない。まるで浅草の活動写真の背景画を見ているような、安っぽい非現実感が漂っている。
「やれやれ、人の住む所へ来れば、またぞろ面倒が待っているに違いない」
吾輩は杖をつきながら、緩やかな坂道を下った。
山を下りながら考える。先刻、小鬼とやらを爆発四散せしめたあの怪現象、あれがこの世界の「魔法」であるらしい。指先一つで他者の存在を無に帰す力。それは文明の利器というよりは、野蛮きわまりない破壊の衝動である。あのような力を無造作に振るって喜ぶのは、鉄砲を手に入れたばかりの幼児か、あるいは精神に異常をきたした革命家くらいのものであろう。
城門の前には、槍を持った門番が立っていた。
身の丈六尺はあろうかという大男である。全身を鉄の鎧で固め、顔には兜の面頬を下げている。まるで博物館から抜け出してきた西洋甲冑の亡霊だ。
「止まれ。身分証を見せよ」
門番が低い声で言った。言葉は通じるらしい。いや、吾輩の耳には日本語として聞こえているが、おそらくは吾輩の脳髄に宿った「天賦の才」とやらが、勝手に翻訳の労をとっているのだろう。便利なようでいて、薄気味の悪い話である。
「身分証などない。山から下りてきたばかりの書生だ」
吾輩が答えると、門番は兜の奥で胡乱な目を光らせた。
「身分証がない? ならば入市税として銀貨二枚を払え」
「金もない」
「何だと?」
門番が一歩前に出る。威圧的な態度だ。だが、吾輩は明治の文士である。薩長の役人に睨まれたところで眉一つ動かさぬものを、異世界の門番ごときに気圧される謂れはない。
「ないものはないのだ。無い袖は振れぬという言葉を知らんか」
「ふざけた男だ。おい、つまみ出せ」
門番が太い腕を伸ばしてきた。吾輩の襟首を掴もうという腹らしい。
その時である。
吾輩の懐で、何かがカチンと硬い音を立てた。
見れば、先ほど小鬼を消し飛ばした際に拾った、ガラス玉のような石ころが、勝手に光を放っているではないか。小鬼が遺した「魔石」とかいう代物らしい。
「うわっ、高純度の魔石!」
門番が飛び退いた。
「貴様、それをどこで手に入れた」
「道端で拾った。これが入市税の代わりになるかね」
吾輩が石ころを放ってやると、門番は慌ててそれを受け止めた。銀貨二枚どころか、金貨に匹敵する価値があるらしい。門番は掌を返したように卑屈な揉み手をして、どうぞお通りください、と道を開けた。
地獄の沙汰も金次第とは言うが、異世界とて所詮は利害と打算で動く人の世であるらしい。吾輩は鼻で笑って、門をくぐった。
町の中は、喧騒の坩堝であった。
石畳の往来を、馬車が行き交い、様々な服装の人々が肩を怒らせて歩いている。剣を背負った男、杖を持った女、獣の耳を生やした亜人。それらが皆、何かに急き立てられるようにせわしない。
道の両側には露店が並び、得体の知れない肉を焼く匂いや、香辛料のきつい香りが鼻をつく。
「安いよ安いよ、ポーションが安いよ」
「新鮮なマンドラゴラの根はいらんかね」
売り声が響く。まるで縁日のようだ。だが、そこには風流な情緒など微塵もない。あるのは、ただ生きるための貪欲な熱気だけである。
吾輩は人波に揉まれながら、一軒の大きな建物の前に出た。
入り口の上に、剣と盾を交差させた看板が掛かっている。中からは、昼日中だというのに、酒の匂いと怒号が漏れ出してくる。
ここがいわゆる「冒険者ギルド」とかいう場所であろう。
冒険者などと言えば聞こえはいいが、要するに定職に就かぬあぶれ者どもが、その日暮らしの仕事にありつこうと集まる、労働者の寄合所である。利害と打算の総本山だ。
吾輩は気乗りがしなかったが、いつまでも野宿というわけにもいかない。金を得る手段を探すため、意を決してその重厚な扉を押し開けた。
中は薄暗く、饐えたような臭いがした。
長机がいくつも並べられ、荒くれ者たちがジョッキを傾けている。壁には依頼書らしき紙切れが無数に貼られ、それを男たちが血眼になって漁っている。
吾輩が入ると、一瞬、場の空気が淀んだ。
見慣れぬ着物姿、腰の曲がった貧相な男。彼らの目には、さぞかし奇異な獲物に映ったことだろう。あちこちから、含み笑いや、嘲るような囁き声が聞こえてくる。
「おい見ろよ、爺さんが迷い込んできたぜ」
「孫の使いか?」
下卑た視線を無視して、吾輩は奥の受付へと進んだ。
カウンターの中にいたのは、妙に愛想の良い、しかし目は笑っていない若い女であった。派手な色の髪をリボンで結び、胸元を大きく開けた服を着ている。マドンナが西洋風に崩れたら、こんな顔になるのかもしれない。
「いらっしゃいませ。依頼の報告ですか? それとも登録?」
女は事務的な口調で言った。
「登録を頼みたい」
「はいはい。じゃあ、そこに手を置いてください」
女が指差したのは、カウンターの上に置かれた、水晶のような透明な球体であった。
「これは何だ」
「水晶です。あなたのステータス、つまり能力や素質を読み取って、ギルドカードに記録するんです」
またしても「ステータス」か。
吾輩は顔をしかめた。個人の人格や経歴を無視して、ただ数値だけで人間を判断しようという、この世界の悪癖には辟易する。
「断る」
吾輩は言った。
「吾輩は、己の能力を他人に覗き見られる趣味はない。名前と年齢なら口で言おう。ナツメ・ソウセキ。四十九歳だ」
女は呆れたような顔をした。
「お爺さん、ここは役所じゃないのよ。実力が全ての冒険者ギルドなの。レベルがいくつで、どんなスキルを持ってるか分からないと、仕事なんて紹介できないわ」
「レベルなどというものは、西洋の階段の段数と同じで、上に行けば行くほど息が切れるだけのものだ。吾輩はそんなものに興味はない」
「屁理屈を言わないでください。規則なんですから」
女の声が尖った。周囲の男たちも、面白がって野次を飛ばしてくる。
「おい爺さん、レベル1なんだろ? 恥ずかしがるなよ」
「スライムに殺される前に、家に帰って寝てな」
どっと笑い声が起きた。
吾輩は嘆息した。どいつもこいつも、数字という名の権威に盲従し、他者を見下すことで己の卑小さを慰めている。まるで赤シャツの取り巻きである野太鼓の集団だ。
「……分かった。触ればいいのだろう」
これ以上、無知蒙昧な輩と問答をするのは時間の浪費である。吾輩は渋々、その水晶玉に右手を乗せた。
その瞬間。
ピシッ、という乾いた音がした。
水晶玉の内部で、紅蓮の炎のような光が渦を巻いたかと思うと、表面に亀裂が走ったのである。
「え?」
女が目を見開いた。
光は瞬く間に強まり、直視できないほどの輝きとなって、カウンターの上で炸裂した。
パリーン!
水晶玉が粉々に砕け散り、破片が四方八方へ飛び散った。
「きゃあっ!」
女が悲鳴を上げてしゃがみ込む。周囲の男たちも、椅子を蹴倒して逃げ惑う。
吾輩は、ただ呆然と立ち尽くしていた。手には、何の感触も残っていない。ただ、少し熱を帯びているだけだ。
静寂が戻ると、全員の視線が吾輩に集中した。それは先ほどまでの嘲笑ではなく、得体の知れない怪物を見るような、恐怖と畏敬の入り混じった眼差しであった。
「……お、おい。あの上級鑑定水晶が……」
「割れたぞ。一瞬で」
「馬鹿な、測定不能ってことか?」
ざわめきが広がる。
どうやら吾輩の「九九九九」などという出鱈目な数字が、この安物の道具の許容量を超えてしまったらしい。
吾輩は懐からハンカチを取り出し、手を拭いた。
「粗悪品だな」
静まり返った店内に、吾輩の声だけが響いた。
「少し触れただけで壊れるとは、近頃の職人はいい加減な仕事をするものだ。これでは、正確な値など出るはずもなかろう」
吾輩は、ことさら冷淡に言い放った。
本当は、己の身に宿った異常な力に、吾輩自身が一番戦慄しているのである。だが、それを悟られてはならない。ここで動揺を見せれば、彼らは吾輩を「化け物」として崇めるか、あるいは排除しようとするだろう。
どちらも御免だ。
吾輩はあくまで、偏屈な一人の「先生」として振る舞わねばならない。
「弁償は出世払いにしてもらおうか。なに、登録料だと思えば安いものだろう」
吾輩は青ざめた受付の女にそう告げると、踵を返した。
背中に突き刺さる無数の視線を無視して、悠然と出口へと向かう。
だが、その時である。
「待ちな、爺さん」
低い、地を這うような声が呼び止めた。
振り返ると、店の奥から一人の男が立ち上がっていた。
熊のような巨漢である。背中には身の丈ほどの大剣を背負い、顔には古傷が走っている。その風貌は、まさしく「山嵐」の如き荒々しさだ。
男は、ゆっくりと吾輩の前まで歩み寄ると、見下ろすようにして言った。
「てめえ、何者だ。ただのジジイじゃねえな」
「何者でもない。ただの通りすがりだ」
「嘘をつくな。あの水晶を割るなんざ、並大抵の魔力じゃねえ。……てめえ、もしかして『魔王軍』の手先か?」
その言葉に、店内の空気が一変した。殺気が渦巻く。
短絡的だ。
力が強い者は、即ち敵か味方か。白か黒か。彼らの頭の中には、その二色しかないらしい。灰色のグラデーションの中にこそ、人生の真実があるというのに。
吾輩は、男の顔をじっと見つめ返した。
「君、単細胞もいい加減にしたまえ」
「ああん?」
「力が強ければ魔王の手先、弱ければ足手まとい。君たちの世界には、その中間の、ただ静かに暮らしたいだけの隠居という分類はないのかね」
吾輩はふんと鼻を鳴らした。
「それに、吾輩が魔王の手先だとして、こんな昼日中に、堂々と正面から入ってくると思うか? もう少し、論理的に物を考えたまえ」
男は虚を突かれたように口を開けた。腕力には自信があるようだが、弁舌には慣れていないらしい。
「論理……だと?」
「そうだ。智に働けば角が立つが、智がなければ角すら立たん。君の頭は、その立派な筋肉の重さで潰れてしまったのかしらん」
挑発ではない。本心からの忠告である。
だが、男の顔はみるみる赤くなり、こめかみに青筋が立った。
「……てめえ、ぶっ殺すぞ!」
男が背中の大剣に手をかけた。
周囲の連中が、「やめろヴォルグ、ここで暴れるとギルド長に締められるぞ!」と止める声がする。
しかし、男は止まらない。殺意の波動が、物理的な風圧となって吾輩の頬を打つ。
吾輩は動かなかった。
逃げることも、杖を構えることもしない。
ただ、静かに目を閉じた。
(ああ、またこれだ)
人の世は住みにくい。
どこへ行っても、力自慢と、見栄っ張りと、分からず屋ばかりだ。
吾輩は、こころの先生のように、深い諦念の中に沈んでいった。
もし、この男が斬りかかってくれば、吾輩の身体は自動的に反応し、あの理不尽な「爆縮の理」で、彼を肉片に変えてしまうだろう。
それは、吾輩の望むところではない。
だが、止める術も知らない。
「死ねぇ!」
男の怒号と共に、大剣が振り下ろされた。
風を切る音がする。
吾輩は、死を覚悟する代わりに、今夜の宿の心配をした。こんな騒ぎを起こしては、どこの宿屋も泊めてはくれまい。野宿は身体に障る。特に腰には良くない。
――ガキンッ!
金属音が響き、衝撃が走るはずの吾輩の身体は、無傷のままであった。
目を開けると、眼前に一本の細い剣が割り込んでいた。
熊男の大剣を、その細身の剣が、涼しい顔で受け止めている。
「やめないか、野蛮人」
凛とした声がした。
そこに立っていたのは、男装の麗人であった。
真紅の髪を短く刈り込み、貴族のような洗練された軍服をまとっている。その背筋は、吾輩の猫背とは対照的に、矢のように真っ直ぐだ。
「弱い者いじめは、騎士の風上にも置けないな」
彼女は、熊男を鋭い眼光で射抜くと、チラリと吾輩を見た。
「怪我はないか、ご老人」
吾輩は、その「ご老人」という響きに少し傷つきながらも、曖昧に頷いた。
「……ああ、おかげさまで」
どうやら、また新しい「面倒」が、向こうからやってきたようである。
この世界には、赤シャツや山嵐だけでなく、正義感という名の厄介な病に冒された「坊っちゃん」のような手合いも、しっかりと生息しているらしい。
吾輩は心の中で深いため息をつきながら、この騒動の行く末を、どこか他人事のように眺めていたのである。
西洋の油絵にあるような、赤い煉瓦と尖った塔の屋根が乱立している。空は相変わらず毒々しいほどに青く、そこへ書き割りのような白い雲が張り付いている。どうにも奥行きというものがない。まるで浅草の活動写真の背景画を見ているような、安っぽい非現実感が漂っている。
「やれやれ、人の住む所へ来れば、またぞろ面倒が待っているに違いない」
吾輩は杖をつきながら、緩やかな坂道を下った。
山を下りながら考える。先刻、小鬼とやらを爆発四散せしめたあの怪現象、あれがこの世界の「魔法」であるらしい。指先一つで他者の存在を無に帰す力。それは文明の利器というよりは、野蛮きわまりない破壊の衝動である。あのような力を無造作に振るって喜ぶのは、鉄砲を手に入れたばかりの幼児か、あるいは精神に異常をきたした革命家くらいのものであろう。
城門の前には、槍を持った門番が立っていた。
身の丈六尺はあろうかという大男である。全身を鉄の鎧で固め、顔には兜の面頬を下げている。まるで博物館から抜け出してきた西洋甲冑の亡霊だ。
「止まれ。身分証を見せよ」
門番が低い声で言った。言葉は通じるらしい。いや、吾輩の耳には日本語として聞こえているが、おそらくは吾輩の脳髄に宿った「天賦の才」とやらが、勝手に翻訳の労をとっているのだろう。便利なようでいて、薄気味の悪い話である。
「身分証などない。山から下りてきたばかりの書生だ」
吾輩が答えると、門番は兜の奥で胡乱な目を光らせた。
「身分証がない? ならば入市税として銀貨二枚を払え」
「金もない」
「何だと?」
門番が一歩前に出る。威圧的な態度だ。だが、吾輩は明治の文士である。薩長の役人に睨まれたところで眉一つ動かさぬものを、異世界の門番ごときに気圧される謂れはない。
「ないものはないのだ。無い袖は振れぬという言葉を知らんか」
「ふざけた男だ。おい、つまみ出せ」
門番が太い腕を伸ばしてきた。吾輩の襟首を掴もうという腹らしい。
その時である。
吾輩の懐で、何かがカチンと硬い音を立てた。
見れば、先ほど小鬼を消し飛ばした際に拾った、ガラス玉のような石ころが、勝手に光を放っているではないか。小鬼が遺した「魔石」とかいう代物らしい。
「うわっ、高純度の魔石!」
門番が飛び退いた。
「貴様、それをどこで手に入れた」
「道端で拾った。これが入市税の代わりになるかね」
吾輩が石ころを放ってやると、門番は慌ててそれを受け止めた。銀貨二枚どころか、金貨に匹敵する価値があるらしい。門番は掌を返したように卑屈な揉み手をして、どうぞお通りください、と道を開けた。
地獄の沙汰も金次第とは言うが、異世界とて所詮は利害と打算で動く人の世であるらしい。吾輩は鼻で笑って、門をくぐった。
町の中は、喧騒の坩堝であった。
石畳の往来を、馬車が行き交い、様々な服装の人々が肩を怒らせて歩いている。剣を背負った男、杖を持った女、獣の耳を生やした亜人。それらが皆、何かに急き立てられるようにせわしない。
道の両側には露店が並び、得体の知れない肉を焼く匂いや、香辛料のきつい香りが鼻をつく。
「安いよ安いよ、ポーションが安いよ」
「新鮮なマンドラゴラの根はいらんかね」
売り声が響く。まるで縁日のようだ。だが、そこには風流な情緒など微塵もない。あるのは、ただ生きるための貪欲な熱気だけである。
吾輩は人波に揉まれながら、一軒の大きな建物の前に出た。
入り口の上に、剣と盾を交差させた看板が掛かっている。中からは、昼日中だというのに、酒の匂いと怒号が漏れ出してくる。
ここがいわゆる「冒険者ギルド」とかいう場所であろう。
冒険者などと言えば聞こえはいいが、要するに定職に就かぬあぶれ者どもが、その日暮らしの仕事にありつこうと集まる、労働者の寄合所である。利害と打算の総本山だ。
吾輩は気乗りがしなかったが、いつまでも野宿というわけにもいかない。金を得る手段を探すため、意を決してその重厚な扉を押し開けた。
中は薄暗く、饐えたような臭いがした。
長机がいくつも並べられ、荒くれ者たちがジョッキを傾けている。壁には依頼書らしき紙切れが無数に貼られ、それを男たちが血眼になって漁っている。
吾輩が入ると、一瞬、場の空気が淀んだ。
見慣れぬ着物姿、腰の曲がった貧相な男。彼らの目には、さぞかし奇異な獲物に映ったことだろう。あちこちから、含み笑いや、嘲るような囁き声が聞こえてくる。
「おい見ろよ、爺さんが迷い込んできたぜ」
「孫の使いか?」
下卑た視線を無視して、吾輩は奥の受付へと進んだ。
カウンターの中にいたのは、妙に愛想の良い、しかし目は笑っていない若い女であった。派手な色の髪をリボンで結び、胸元を大きく開けた服を着ている。マドンナが西洋風に崩れたら、こんな顔になるのかもしれない。
「いらっしゃいませ。依頼の報告ですか? それとも登録?」
女は事務的な口調で言った。
「登録を頼みたい」
「はいはい。じゃあ、そこに手を置いてください」
女が指差したのは、カウンターの上に置かれた、水晶のような透明な球体であった。
「これは何だ」
「水晶です。あなたのステータス、つまり能力や素質を読み取って、ギルドカードに記録するんです」
またしても「ステータス」か。
吾輩は顔をしかめた。個人の人格や経歴を無視して、ただ数値だけで人間を判断しようという、この世界の悪癖には辟易する。
「断る」
吾輩は言った。
「吾輩は、己の能力を他人に覗き見られる趣味はない。名前と年齢なら口で言おう。ナツメ・ソウセキ。四十九歳だ」
女は呆れたような顔をした。
「お爺さん、ここは役所じゃないのよ。実力が全ての冒険者ギルドなの。レベルがいくつで、どんなスキルを持ってるか分からないと、仕事なんて紹介できないわ」
「レベルなどというものは、西洋の階段の段数と同じで、上に行けば行くほど息が切れるだけのものだ。吾輩はそんなものに興味はない」
「屁理屈を言わないでください。規則なんですから」
女の声が尖った。周囲の男たちも、面白がって野次を飛ばしてくる。
「おい爺さん、レベル1なんだろ? 恥ずかしがるなよ」
「スライムに殺される前に、家に帰って寝てな」
どっと笑い声が起きた。
吾輩は嘆息した。どいつもこいつも、数字という名の権威に盲従し、他者を見下すことで己の卑小さを慰めている。まるで赤シャツの取り巻きである野太鼓の集団だ。
「……分かった。触ればいいのだろう」
これ以上、無知蒙昧な輩と問答をするのは時間の浪費である。吾輩は渋々、その水晶玉に右手を乗せた。
その瞬間。
ピシッ、という乾いた音がした。
水晶玉の内部で、紅蓮の炎のような光が渦を巻いたかと思うと、表面に亀裂が走ったのである。
「え?」
女が目を見開いた。
光は瞬く間に強まり、直視できないほどの輝きとなって、カウンターの上で炸裂した。
パリーン!
水晶玉が粉々に砕け散り、破片が四方八方へ飛び散った。
「きゃあっ!」
女が悲鳴を上げてしゃがみ込む。周囲の男たちも、椅子を蹴倒して逃げ惑う。
吾輩は、ただ呆然と立ち尽くしていた。手には、何の感触も残っていない。ただ、少し熱を帯びているだけだ。
静寂が戻ると、全員の視線が吾輩に集中した。それは先ほどまでの嘲笑ではなく、得体の知れない怪物を見るような、恐怖と畏敬の入り混じった眼差しであった。
「……お、おい。あの上級鑑定水晶が……」
「割れたぞ。一瞬で」
「馬鹿な、測定不能ってことか?」
ざわめきが広がる。
どうやら吾輩の「九九九九」などという出鱈目な数字が、この安物の道具の許容量を超えてしまったらしい。
吾輩は懐からハンカチを取り出し、手を拭いた。
「粗悪品だな」
静まり返った店内に、吾輩の声だけが響いた。
「少し触れただけで壊れるとは、近頃の職人はいい加減な仕事をするものだ。これでは、正確な値など出るはずもなかろう」
吾輩は、ことさら冷淡に言い放った。
本当は、己の身に宿った異常な力に、吾輩自身が一番戦慄しているのである。だが、それを悟られてはならない。ここで動揺を見せれば、彼らは吾輩を「化け物」として崇めるか、あるいは排除しようとするだろう。
どちらも御免だ。
吾輩はあくまで、偏屈な一人の「先生」として振る舞わねばならない。
「弁償は出世払いにしてもらおうか。なに、登録料だと思えば安いものだろう」
吾輩は青ざめた受付の女にそう告げると、踵を返した。
背中に突き刺さる無数の視線を無視して、悠然と出口へと向かう。
だが、その時である。
「待ちな、爺さん」
低い、地を這うような声が呼び止めた。
振り返ると、店の奥から一人の男が立ち上がっていた。
熊のような巨漢である。背中には身の丈ほどの大剣を背負い、顔には古傷が走っている。その風貌は、まさしく「山嵐」の如き荒々しさだ。
男は、ゆっくりと吾輩の前まで歩み寄ると、見下ろすようにして言った。
「てめえ、何者だ。ただのジジイじゃねえな」
「何者でもない。ただの通りすがりだ」
「嘘をつくな。あの水晶を割るなんざ、並大抵の魔力じゃねえ。……てめえ、もしかして『魔王軍』の手先か?」
その言葉に、店内の空気が一変した。殺気が渦巻く。
短絡的だ。
力が強い者は、即ち敵か味方か。白か黒か。彼らの頭の中には、その二色しかないらしい。灰色のグラデーションの中にこそ、人生の真実があるというのに。
吾輩は、男の顔をじっと見つめ返した。
「君、単細胞もいい加減にしたまえ」
「ああん?」
「力が強ければ魔王の手先、弱ければ足手まとい。君たちの世界には、その中間の、ただ静かに暮らしたいだけの隠居という分類はないのかね」
吾輩はふんと鼻を鳴らした。
「それに、吾輩が魔王の手先だとして、こんな昼日中に、堂々と正面から入ってくると思うか? もう少し、論理的に物を考えたまえ」
男は虚を突かれたように口を開けた。腕力には自信があるようだが、弁舌には慣れていないらしい。
「論理……だと?」
「そうだ。智に働けば角が立つが、智がなければ角すら立たん。君の頭は、その立派な筋肉の重さで潰れてしまったのかしらん」
挑発ではない。本心からの忠告である。
だが、男の顔はみるみる赤くなり、こめかみに青筋が立った。
「……てめえ、ぶっ殺すぞ!」
男が背中の大剣に手をかけた。
周囲の連中が、「やめろヴォルグ、ここで暴れるとギルド長に締められるぞ!」と止める声がする。
しかし、男は止まらない。殺意の波動が、物理的な風圧となって吾輩の頬を打つ。
吾輩は動かなかった。
逃げることも、杖を構えることもしない。
ただ、静かに目を閉じた。
(ああ、またこれだ)
人の世は住みにくい。
どこへ行っても、力自慢と、見栄っ張りと、分からず屋ばかりだ。
吾輩は、こころの先生のように、深い諦念の中に沈んでいった。
もし、この男が斬りかかってくれば、吾輩の身体は自動的に反応し、あの理不尽な「爆縮の理」で、彼を肉片に変えてしまうだろう。
それは、吾輩の望むところではない。
だが、止める術も知らない。
「死ねぇ!」
男の怒号と共に、大剣が振り下ろされた。
風を切る音がする。
吾輩は、死を覚悟する代わりに、今夜の宿の心配をした。こんな騒ぎを起こしては、どこの宿屋も泊めてはくれまい。野宿は身体に障る。特に腰には良くない。
――ガキンッ!
金属音が響き、衝撃が走るはずの吾輩の身体は、無傷のままであった。
目を開けると、眼前に一本の細い剣が割り込んでいた。
熊男の大剣を、その細身の剣が、涼しい顔で受け止めている。
「やめないか、野蛮人」
凛とした声がした。
そこに立っていたのは、男装の麗人であった。
真紅の髪を短く刈り込み、貴族のような洗練された軍服をまとっている。その背筋は、吾輩の猫背とは対照的に、矢のように真っ直ぐだ。
「弱い者いじめは、騎士の風上にも置けないな」
彼女は、熊男を鋭い眼光で射抜くと、チラリと吾輩を見た。
「怪我はないか、ご老人」
吾輩は、その「ご老人」という響きに少し傷つきながらも、曖昧に頷いた。
「……ああ、おかげさまで」
どうやら、また新しい「面倒」が、向こうからやってきたようである。
この世界には、赤シャツや山嵐だけでなく、正義感という名の厄介な病に冒された「坊っちゃん」のような手合いも、しっかりと生息しているらしい。
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