【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり〜異世界より、硝子戸の中へ〜

旅する書斎(☆ほしい)

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第3話 赤シャツの系譜

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男装の麗人が突き出した細身の剣は、熊男の大剣を軽々と受け止めていた。
物理の法則を無視している。あの細い鉄の棒きれで、巨漢の全体重が乗った一撃を支えられるはずがない。おそらくは、彼女の細腕にも、吾輩の体内に巣食う「数値」とかいう得体の知れない化け物が宿っているのであろう。
「……チッ、騎士団のお出ましか」
熊男は、舌打ちをして剣を引いた。ヴォルグと呼ばれたその男は、先ほどの殺気だった激情をどこかへ仕舞い込み、バツが悪そうに鼻を鳴らした。どうやらこの世界にも、官憲の権威というものは幅を利かせているらしい。
「下がれ、ヴォルグ。ギルド内での私闘は法度であると知らぬわけではあるまい」
女は剣を鞘に収めながら、冷然と言い放った。その声には、他者を足元にひれ伏させることを当然とする、特権階級特有の傲慢な響きが含まれている。まるで坊っちゃんに出てくる赤シャツが、女の着物を着て気取っているような、鼻持ちならないハイカラさだ。
「へいへい、分かりましたよ。副団長様」
ヴォルグは捨て台詞を吐くと、ドカドカと床を踏み鳴らして店の奥へと消えていった。周囲の野次馬たちも、蜘蛛の子を散らすように自分の席へと戻っていく。後に残されたのは、粉々になった水晶玉の破片と、青ざめた受付の女、そして吾輩と、この男装の麗人だけであった。
「災難だったな、ご老人」
女が振り返った。近くで見ると、透き通るような白磁の肌に、意志の強そうな碧眼が嵌め込まれている。美人は美人だが、愛敬というものがない。
「災難というよりは、迷惑と言った方が適切だろう」
吾輩は答えた。
「迷惑?」
「そうだ。吾輩はただ、この労働者の寄合所に登録を願い出ただけだ。それを、寄ってたかって数字だのレベルだのと値踏みをした挙句、勝手に機械を壊して、暴力沙汰に巻き込む。これを迷惑と言わずして何と言う」
女は少し目を丸くした。助けてやった相手から、礼の言葉一つなく、逆に講釈を垂れられるとは思ってもいなかったのだろう。
「ふふ、面白い老人だ」
彼女は口元だけで笑った。その笑みには、珍しい虫でも見つけたかのような、学究的な冷酷さが潜んでいる。
「私はシルヴィア。この街の治安を預かる騎士団の副団長を務めている」
「ナツメだ」
「ナツメか。東洋の響きだな。……して、ナツメ殿。先ほど、あの上級鑑定水晶を一瞬で粉砕したな」
やはり、そこか。
吾輩は内心で舌打ちをした。結局のところ、彼女もまた、吾輩の人格ではなく、吾輩の「性能」に興味を抱いているに過ぎない。
「あれは粗悪品だと言ったはずだ」
「ほう、粗悪品か。あれは王都の魔導具師が丹精を込めて作り上げた、国宝級の代物だが」
「ならば、その魔導具師の腕が未熟だったのだろう。あるいは、経年劣化というやつだ」
吾輩はすっとぼけた。嘘をつくのは褒められた行為ではないが、身の安全を守るためならば、方便という言葉で許されるはずである。
シルヴィアは、吾輩の顔をじっと見つめた。その視線は、獲物を狙う鷹のように鋭い。
「まあ、よい。真偽はともかく、貴殿がただならぬ『魔力』の持ち主であることは、私の『天賦の才』が告げている」
彼女は自分の目を指差した。
「私には見えるのだよ。他者の内なる力が、オーラとなってな」
なんと嫌な女だ。
他人の内面を勝手に覗き見るなど、非礼にも程がある。こころの先生が、他人の心に土足で踏み込むことを何よりも嫌ったように、吾輩もまた、己の領域を侵されることには我慢がならない。
「それは趣味の悪い特技だ。眼科医に見せることを勧める」
「口の減らない老人だ。だが、嫌いではない」
シルヴィアは一歩、吾輩に近づいた。香水の匂いがする。戦場には似つかわしくない、華やかな薔薇の香りだ。
「単刀直入に言おう。我が騎士団に入らないか」
「断る」
即答である。
「話も聞かずに断るとは、性急だな。待遇は悪くないぞ。衣食住は保証するし、貴殿のような高齢者には、後方での魔法指南役というポストを用意してもいい」
「吾輩は、人に指図されるのが何よりも嫌いな性分だ。それに、組織というものに入れば、必ず派閥争いや出世競争に巻き込まれる。赤シャツの太鼓持ちになるくらいなら、野垂れ死んだ方がマシだ」
「アカシャツ……? 何のことかは知らぬが、貴殿はよほど世間というものを拗ねて見ているらしい」
「世間が吾輩を拗ねさせているのだ」
吾輩は杖をつき、出口へと向かった。これ以上、この女と関わっていると、ろくなことにならない気がする。彼女の背後には、国家だの権力だのといった、吾輩が最も忌み嫌う巨大な怪物が控えているからだ。
「待て」
シルヴィアが再び呼び止めた。
「騎士団が嫌なら、せめて『クラン』を紹介しよう。私の知人が運営している、少数精鋭の冒険者集団だ。そこなら、貴殿のような偏屈者でも馴染めるかもしれん」
「クラン?」
また新しい横文字だ。要するに、徒党を組むということであろう。
「一人で生きるには、この世界は過酷だぞ。特に、その年齢ではな」
彼女の言葉には、一抹の真理が含まれていた。
確かに、金もなく、宿もなく、地理も分からぬまま、杖一本で放浪するのは、いささか無謀に過ぎる。非人情を貫くにしても、まずは雨風をしのぐ屋根と、腹を満たす飯が必要だ。
「……その知人とやらが、君のようなハイカラな人種でないことを祈るよ」
吾輩が渋々足を止めると、シルヴィアは満足げに頷いた。
「安心しろ。彼もまた、貴殿に負けず劣らずの変人だ」
そう言って、彼女は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、さらさらと何かを書き記した。
「これを、大通りの裏手にある『三毛猫のあくび亭』という酒場へ持っていけ。そこにいる店主が、そのクランのリーダーだ」
三毛猫、という言葉に、吾輩は少しだけ心を動かされた。
かつて吾輩が飼っていた、あの愛すべき猫の姿が脳裏をよぎったからである。
「分かった。行くだけは行ってみよう」
吾輩は羊皮紙を受け取った。
「感謝する。……ナツメ殿、貴殿のその力、使い方を誤れば災いとなる。ゆめゆめ、魔王軍の誘惑になど乗らぬようにな」
シルヴィアは最後に忠告めいた言葉を残し、踵を返して去っていった。その背中は、一点の曇りもなく真っ直ぐで、やはり吾輩の猫背とは相容れないものであった。
ギルドを出ると、日は既に西に傾いていた。
異世界の夕暮れは、毒々しい青空が徐々に赤紫色に浸食されていく、不気味なショータイムである。
吾輩は羊皮紙を頼りに、路地裏へと足を向けた。
表通りの喧騒が嘘のように、裏通りは静まり返っている。石畳はひび割れ、薄汚れた野良犬が、ゴミ箱を漁っている。
「やれやれ、どこの世界も、光が当たれば影ができるものだ」
吾輩は独りごちた。
『三毛猫のあくび亭』は、古ぼけたレンガ造りの建物であった。看板には、だらしなく大口を開けた猫の絵が描かれている。
扉を開けると、カランコロンと、間抜けな音がした。
中は狭く、カウンターが数席と、テーブルが二つあるだけだ。客はいない。
カウンターの奥で、一人の男がグラスを磨いていた。
「いらっしゃい。……なんだ、爺さんか」
男は、吾輩を見るなり、興味なさそうに言った。
三十代半ばくらいであろうか。無精髭を生やし、眠そうな目をしている。着ているシャツはヨレヨレで、とても「精鋭集団」のリーダーには見えない。
「シルヴィアとかいう女に紹介された」
吾輩が羊皮紙を差し出すと、男は面倒くさそうにそれを受け取った。
「ああ、あの堅物のお姫様か。……また変なのを寄越したな」
男は羊皮紙に目を通すと、ため息をついた。
「俺は『レイ』だ。この店の店主で、一応、クラン『夜明け前の行灯』のマスターをやっている」
「ナツメだ」
「で、爺さん。あんた、何ができるんだ? 剣か? 魔法か? それとも、ただの老後の暇つぶしか?」
レイの問いかけには、冒険者ギルドで感じたような、力への渇望や、他者への値踏みといった卑しい響きがなかった。ただ、事実を淡々と確認しようとする、乾いた響きがあるだけだ。
「何もできんよ。吾輩はただの書生だ。……強いて言えば、そうだな」
吾輩は、自分の内側に眠る、あの忌々しい「天賦の才」を意識した。
「世界の理(ことわり)を、少々ねじ曲げることくらいはできるかもしれん」
レイの手が止まった。
彼は眠そうな目を少しだけ細め、吾輩を見た。
「理をねじ曲げる、か。……大きく出たな」
「嘘だと思うかね」
「いや。……あんたのその目、ただの爺さんの目じゃねえ。随分と、深い闇を見てきた目だ」
レイはグラスを置くと、ニヤリと笑った。それは、シルヴィアの冷徹な笑みとも、ヴォルグの野卑な嘲笑とも違う、どこか共犯めいた、親しみの持てる笑みであった。
「いいぜ。うちは来るもの拒まずだ。ただし、条件がある」
「条件?」
「俺の安眠を妨げないこと。それと、店に出る三毛猫の機嫌を損ねないことだ」
その時、カウンターの下から、一匹の猫がひょいと顔を出した。
黒と茶と白の、見事な三毛である。
猫は吾輩の足元にすり寄ると、親愛の情を示すように、小さく「ニャー」と鳴いた。
吾輩は思わず、目頭が熱くなるのを感じた。
「……承知した」
吾輩は屈み込み、その猫の頭を撫でた。
「猫の機嫌を取ることにかけては、吾輩の右に出る者はおらんよ」
こうして、吾輩の異世界での拠点が決まった。
英雄になるつもりも、魔王を倒すつもりもない。
ただ、この不可解な世界で、一匹の猫と共に、硝子戸の中から人間社会を眺めるように、静かに暮らす。
それが叶うならば、この「大賢者」という大仰な肩書きも、多少は我慢してやれるかもしれない。
レイが奥から出してきたエールを飲みながら、吾輩は久しぶりに、心安らかな息を吐いたのである。
しかし、吾輩はまだ知らなかった。
この「夜明け前の行灯」というクランが、シルヴィアの言った通り、まともな人間の集まりなどでは到底なく、精神に奇妙なねじれを持った「社会不適合者」たちの巣窟であることを。
そして、吾輩の「平穏」への願いが、この世界のシステムによって、次々と裏切られていく運命にあることを。
夜が更けていく。
窓の外では、二つの月が、不気味に赤く輝いていた。
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