陽だまりの魔法パン工房 ~もふもふ狼さんと焼きたての幸せ~

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蛍光灯の白い光が、キーボードを叩く指先を無機質に照らし出す。カチカチという乾いた音だけが響く深夜のオフィスで、ユイはもう何度目かわからないため息を、そっと吐き出した。モニターに並ぶ数字の羅列が、じわりと滲む。

(……疲れたなあ)

故郷の母から送られてきた手作りのパンの写真が、スマートフォンの画面で温かい光を放っていた。こんがりと焼き色のついた、ふっくらとした丸いパン。週末に趣味でパンを焼いていた頃の、小麦粉の甘い香りや、発酵していく生地の愛おしさを思い出す。あの頃は、楽しかった。自分の手で何かを生み出して、誰かが「美味しい」と笑ってくれる。それが、何よりの喜びだった。

「次は、のんびりパン屋さんでもやりたいな……」

ぽつりと漏れた独り言は、誰に聞かれることもなく静寂に溶けていく。重い瞼をこすり、最後の力を振り絞ってエンターキーを押した、その瞬間。ユイの意識は、ぷつりと糸が切れるように途絶えた。過労とストレスが、彼女のささやかな日常の限界を超えた瞬間だった 。   

次にユイが目を開けた時、そこに無機質なオフィスはなかった。

どこまでも広がる、柔らかな光に満ちた空間。不安よりも先に、心が安らぐような温かさを感じる。ユイが戸惑っていると、目の前の光がゆっくりと人の形を成した。現れたのは、陽だまりのような微笑みを浮かべた、美しい女性だった。

「はじめまして、ユイさん。私は、あなたのいた世界とは違う世界を管理している、しがない女神です」

その声は、春のせせらぎのように心地よく耳に響いた。

「あの、私は……?」
「あなたは、お亡くなりになりました。……働きすぎ、でしたね。本当に、お疲れ様でした」

女神は心から労るように、悲しげに眉を寄せた 。不思議と、悲しみはなかった。むしろ、ずっと背負っていた重い荷物をようやく下ろせたような、穏やかな解放感があった。   

「そう、ですか……」
「あなたの魂は、とても優しくて、温かい光をしています。だから、このまま消してしまうのは、あまりにもったいない。もしよろしければ、私の管理する世界で、新しい人生を始めてみませんか?」

女神はそっとユイに手を差し伸べる。

「そこは、争いも、過酷な労働もない、穏やかな世界です 。あなたの望む、スローライフを送るにはぴったりの場所ですよ」   


「……私の、望む?」
「ええ。聞こえましたから。『パン屋さんをやりたい』という、あなたのささやかな、けれど、とても素敵な願いが」

その言葉に、ユイの胸がきゅっと高鳴った。諦めていたはずの夢。こんな形で叶うチャンスが来るなんて。

「はい……! やってみたいです!」

ユイが力強く頷くと、女神は嬉しそうに微笑んだ。

「素晴らしい決断です。では、新しい人生への贈り物として、あなたに特別な力を授けましょう」

女神がユイの額にそっと指で触れると、体の中に温かい光が流れ込んでくる。

「それは『生命魔法』。あなたが触れるもの、特に植物から作られた素材の生命力を最大限に引き出す魔法です 。あなたの作るパンは、きっと食べた人の心と体を優しく癒す、特別なものになるでしょう」   

体がふわりと浮き上がる感覚。意識が再び、心地よい眠りへと誘われていく。

「さあ、お行きなさい、ユイさん。あなたの新しい人生が、陽だまりのような温かさで満たされますように」

女神の優しい声に見送られ、ユイは光の中へと溶けていった。

次にユイが目を覚ましたのは、ふかふかの草原の上だった。見上げれば、どこまでも青く澄んだ空。頬を撫でる風は、花の蜜と若葉の匂いを運んでくる。遠くには、なだらかな丘が連なり、その麓に、温かみのある石や木で造られた建物が並ぶ、可愛らしい町が見えた。

「ここが……新しい世界」

立ち上がると、傍らに革製のリュックサックが一つ置かれていた。中には、女神が用意してくれたらしい、当面の着替えと、少しばかりのこの世界の通貨、そして、パン作りのための基本的な材料と道具が入っていた。

「まずは、あの町に行ってみよう」

希望を胸に、ユイは石畳の小道を歩き始めた。町は、想像以上に活気に満ちていた。様々な種族の人々が行き交い、その誰もが笑顔で挨拶を交わしている 。屈強なドワーフの鍛冶屋が陽気にハンマーを振るい、優雅なエルフの花屋が店先を美しい花で飾り、元気なハーフリングの子供たちが楽しそうに駆け回っている。差別も偏見もない、誰もが互いを尊重し合って暮らしているのが、肌で感じられた。   

ユイは、一目でこの町が気に入った。

町の中心にある広場を抜けた、日当たりの良い一角。ユイは、一つの建物に足を止めた。蔦の絡まる壁、少し寂れた木の扉。窓には「FOR SALE」の札がかかっている。ガラス越しに中を覗くと、埃はかぶっているものの、部屋の隅に大きなレンガ造りのかまどが鎮座しているのが見えた。

(パン窯……!)

その瞬間、ユイの心は決まった。ここで、私の夢を始めよう。

不動産屋を兼ねているという雑貨屋の主人に話を聞くと、その家はパン屋だった主人が年老いて故郷に帰ってから、ずっと空き家になっているらしかった。女神のくれた資金で、家と店を借りるには十分だった。

荷物を運び込み、まずは工房の掃除から始めた。かまどを磨き、作業台を拭き、床を掃く。全てが新鮮で、楽しくて仕方がなかった。

日が暮れる頃、ようやく一息ついたユイは、リュックに入っていた小麦粉を取り出した。この世界で、自分の魔法を試してみたかったのだ。

井戸から汲んできた清らかな水に、そっと両手をかざす。

「美味しくなぁれ……」

心の中で祈ると、手のひらから淡い光が溢れ、水に溶けていった。ただの水が、きらきらと輝きを帯び、まろやかな味に変わる。次に、小麦粉に触れる。同じように光が染み込み、小麦粉がふわりと甘い香りを放ち始めた。

(すごい……これが、生命魔法)

教わったわけでもないのに、自然と体が動く。こねられた生地は、まるで生きているかのように滑らかで、発酵させると、驚くほどふっくらと膨らんだ。

古いかまどに火を入れる。薪がぱちぱちと心地よい音を立て、工房の中を暖かく照らした。そして、丸く成形した生地を、そっとかまどの中へ。

やがて、たまらなく香ばしい匂いが、工房を満たし始めた。それは、ユイが今まで嗅いだことのないほど、豊かで、優しくて、幸せな香りだった。

焼き上がったパンは、こんがりとした狐色で、太陽のように丸く、ふっくらとしていた。ちぎって一口食べてみると、外はカリッと、中は驚くほどもちもちで、噛むほどに小麦の優しい甘さが口いっぱいに広がる。そして、じんわりと、体の芯から温かくなるような不思議な感覚。

「……美味しい」

思わず、涙がこぼれた。それは悲しい涙ではなく、温かくて、嬉しい涙だった。

その時、工房のドアが、ことり、と控えめにノックされた。開けてみると、そこに立っていたのは、パンの香りに誘われたらしい、三人のハーフリングの子供たちだった。お腹を空かせているのか、三対のくりくりとした瞳が、ユイの持つパンに釘付けになっている。

「あのね、これ、すっごくいいにおい!」

一番小さな男の子が、おずおずと言った。ユイは微笑んで、しゃがみ込むと、焼きたてのパンをちぎって三人に差し出した。

「よかったら、お食べ」

子供たちは一瞬顔を見合わせた後、ぱあっと顔を輝かせてパンを受け取った。そして、小さな口で頬張ると、目をまん丸に見開いた。

「おいしい!」「ふわふわ!」「あったかい味がする!」

夢中でパンを食べる子供たちの笑顔を見ていると、ユイの胸に、都会で忘れかけていた温かい感情が満ちていく。

(ああ、そっか。私は、これがしたかったんだ)

誰かの「美味しい」という笑顔のために、心を込めてパンを焼く。それだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。

ユイは、空を見上げた。一番星が、きらりと輝いている。

「ありがとう、女神様。私、ここで頑張ります」

小さなパン工房の窓に、温かいランプの光が灯る。それは、異世界で生まれたばかりの、ささやかで、だけれども確かな夢の光だった。
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