移動足湯カフェ、カピバラ店長とお悩み相談営業中

旅する書斎(☆ほしい)

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第11話

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清らかな水の流れる音が絶えず聞こえる。
そんな小さな町に「さまよい温泉」は停泊していた。

ここは古くから手漉き和紙の産地として知られている。
町を流れる川の水が、何百年もの間その伝統を支えてきた。

家々の軒先には和紙の原料である楮(こうぞ)が天日に干されている光景がそこかしこに見られる。
町全体が丁寧な手仕事の匂いと、穏やかな誇りに満ちていた。

巴は車を停めた川沿いの小さな広場で、いつも通り開店の準備を始めた。
彼女の動きはこの町の職人たちの手仕事のように無駄がなく、そして落ち着いた自信に満ちている。
一つ一つの工程を確かめるように豆を挽き、湯を沸かす。
その所作が彼女自身の心を整えるための大切な時間となっていた。

川のせせらぎと、時折聞こえる紙を漉く工房からのリズミカルな音。
その中に檜風呂から立ち上る湯気とボイラーの低い音が、不思議な調和をもって溶け込んでいく。

ぬしは初めて聞く水の音にも全く意に介さず、すぐに定位置である檜風呂へと身を沈めた。
その大きな体が湯に浮かぶと満足げに「キュルル」と喉を鳴らす。
彼の存在そのものが、このカフェが提供する時間の質を何よりも雄弁に物語っていた。

陽が少し傾き始めた頃、一人の老人が川上の方からゆっくりとした足取りで歩いてきた。

藍色の作務衣は長年の仕事で着慣らされ、彼の体の一部となっている。
節くれだった大きな手は彼が重ねてきた年月の長さを物語っていた。
しかしその肩は力なく落ち、背中は少し丸まっている。
その姿からは長年守り続けてきたものに対する深い疲労と、どうしようもない寂寥感が漂っていた。

老人は川沿いに不似合いなクリーム色のキッチンカーを見つけると、怪訝そうに足を止め眉間に深い皺を刻んだ。
その視線は流行り廃りの激しい都会からやってきた、得体の知れないものへの警戒心を隠そうともしない。

巴はカウンターの内側からその老人を静かに見つめていた。
彼の全身から発せられるのは頑固な職人気質と、その裏側にある時代の流れに取り残されることへの静かな痛みだった。

老人は一度は通り過ぎようとしたが、ふとデッキの奥、湯船で微動だにしないぬしの姿に気づいたようだった。
そのあまりにも平和で何の目的も持たない生き物の存在に、彼の険しい表情がほんの少しだけ緩んだように見えた。

彼は意を決したように、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

「……コーヒーを、一つ」

絞り出すような少し掠れた声だった。

「はい、かしこまりました」

巴はコーヒーの準備をしながら、穏やかに声をかけた。

「お客様。その手は何かをずっと守り続けてこられた手ですね。ですが今はその重さに少しお疲れのようです」

老人はぎょっとしたように巴の顔を見た。
自分の内側を見透かされたような心地がしたのだろう。
すぐにふいと顔をそむけた。

「もしよろしければ足湯はいかがでしょう。今日は杉の葉をご用意しました。その清々しく懐かしい香りが心の淀みを払い、自分の原点に立ち返る手助けをしてくれるかもしれません」

「……くだらん」

老人は吐き捨てるように言った。
「わしには、そんな時間はない」

しかし巴は穏やかな表情を崩さなかった。

「これも仕事のうち、と考えてみてはいかがですか。良いものを作るには良い休息が必要です。心を研ぎ澄ますための時間です」

その思いがけない言葉に老人は少し虚を突かれたようだった。
そしてしばらくの沈黙の後、諦めたように重いため息をついた。

「……好きにせい」

巴は老人をデッキの椅子へと案内した。
老人は作務衣の裾を捲り上げ、ごつごつとした足をおそるおそる湯の中へと入れた。

杉の凛とした、それでいてどこか甘さのある香りがふわりと立ち上る。

「……ああ」

思わずといった声が老人の口から漏れた。
その一言に彼の今日一日だけでなく、ここ何年もの間の張り詰めていたものが少しだけ解けていくのが分かった。

淹れたてのコーヒーを差し出すと老人は黙ってそれを受け取った。
そして一口飲むでもなく、ただじっと川の流れとその向こうにある自分の工房をぼんやりと眺めている。

会話はない。聞こえるのは川のせせらぎと、ぬしが時折立てる小さな水音だけ。
この落ち着いた時間が今の老人には何よりの薬であるようだった。

やがて老人がぽつりぽつりと語り始めた。

「……わしの仕事も、もう終わりかもしれん」

その声は悔しさとも諦めともつかない複雑な響きをしていた。

「この町で五十年、紙を漉いてきた。先代から受け継いだこの手だけを頼りにな。昔はあちこちから注文が来たもんさ。けど今じゃ誰もこんな手間のかかる紙なんぞ欲しがらん。もっと安くて便利なものがいくらでもあるからのう」

「後継ぎもおらん。わしがこの仕事を辞めたら、うちの工房の灯はそれで消える。……何のために今まで続けてきたんかのう」

その言葉は誰に聞かせるともなく、川の流れに吸い込まれていくようだった。

巴は黙ってその言葉に耳を傾けていた。
彼女には老人にかけるべき気の利いた慰めの言葉など持ち合わせていない。
ただ彼がその胸のうちを誰にも邪魔されずに吐き出せる、安全な場所であることが今の自分の役割だと知っていた。

老人の視線が川からゆっくりとぬしの方へ移った。

眠っているのか起きているのか。
ただぷかぷかと湯に浮かんでいる大きな生き物。
何の役にも立たない。何も生み出さない。ただそこにいるだけ。

そのあまりにも無為な存在が、老人の生産性や存在価値という長年の呪縛を少しずつ解きほぐしていくようだった。

「……ばかばかしいな」

老人がふっと息を吐くように笑った。
それは自嘲の笑みとは違う、何かから解放されたような軽やかな笑いだった。

「わしはいつから忘れてしもうたんじゃろうな。初めて自分の手で一枚の紙を漉き上げた時の、あのどうしようもないほどの喜びを。誰かに褒められるためでも金のためでもなかった。ただ冷たい水の中で楮の繊維が自分の思うままに形になっていく。その感触がたまらなく面白かった。それだけだったはずなのに」

彼は自分の、湯に浸かって少し赤くなった節くれだった手を見つめた。

「価値があるとかないとか。伝統を守るとか守らないとか。そんな難しいことばかり考えとった。……そうじゃない。わしはただ、この紙を漉くという行為そのものが好きだったんじゃ」

老人は何かを悟ったように深く頷いた。
彼の表情は来た時よりもずっと晴れやかで穏やかに見えた。

彼は足湯から出ると丁寧にタオルで足を拭き、ゆっくりと立ち上がった。

「……ありがとうよ。嬢ちゃん」

彼は初めて巴の顔をまっすぐに見てそう言った。

「もう一枚だけ漉いてみるかの。誰のためでもない、わし自身のための一枚をな」

会計を済ませた老人は来た時とは見違えるほどしゃんと伸びた背中で、自分の工房の方へと帰っていった。
その足取りにはもう迷いはなかった。

一人になった巴は空になったコーヒーカップを片付けながら、自分の心の中にも温かいものが広がっていくのを感じていた。

完璧な仕事、価値のある人生。
自分もまたそんな見えないものにずっと縛られていた。

でも本当はもっとシンプルなのかもしれない。

ただ好きなことを好きなようにやってみる。
一杯のコーヒーを心を込めて淹れる。
その行為そのものが喜びである。

この「さまよい温泉」が人々に、そんな当たり前で、けれど忘れがちな大切な何かを思い出させるささやかなきっかけになれるのなら。

巴はぬしの方を振り返った。
ぬしはいつの間にか風呂から上がり、お気に入りのタオルケットの上で気持ちよさそうに丸くなっていた。

その何にもならないただ平和な寝顔が、今の巴にとってはどんな立派な言葉よりも雄弁に人生の真実を語りかけてくれているように思えた。

川面に夕暮れの光がきらきらと反射している。
そのどこまでも続く穏やかな輝きを、巴は満ち足りた気持ちでいつまでも見つめていた。
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