【完結】没落令嬢、異世界で紅茶店を開くことにいたしました〜香りと静寂と癒しの一杯をあなたに〜

旅する書斎(☆ほしい)

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第8話

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彼が再び深い眠りに落ちたのを見届けて、わたくしは小屋の奥にある棚から、少しだけ特別な茶葉を取り出しましたの。

これはまだ一度も誰にも振る舞ったことのないものでしてよ。わたくし自身が落ち着きたいときだけに使う、極めて私的な調合。白茶とジャスミン、そして微量のセージが織りなす、静と揺の一杯ですの。

陶器のティーカップに注がれた琥珀色の液体から立ち昇る香りに、胸のざわめきがほんの少し和らぎましたの。

魔石庫、王都、裏切り──そんな言葉が、わたくしの過去を不意に揺らすなど、思ってもみませんでしたわ。伯爵令嬢がわたくしのティーカップをわざとぶちまけた夜、あの嫌な沈黙と裏切りの連鎖、香りをもってしてもかき消せなかった濁流のような空気を、思い出してしまったのですもの。

わたくしはもう、そういう世界からは距離を置いたつもりでしたのに。それなのに、なぜかしら……あの男の言葉が、香りよりも先に、心に刺さって離れない。

小屋の外では、いつの間にか子どもたちの笑い声が響いておりましたの。彼らは、あの騎士の話を聞いてからというもの、まるで使命でも帯びたように、香草園の整備に熱を上げておりますのよ。

「アナさま~! ラベンダーのところ、草むしり終わったよ~!」

「まあ、それはご苦労さまでしたわね。手は傷つけていないかしら?」

「だいじょーぶ! アナさまに手当てしてもらったから、もう平気!」

「ふふ、それは良かったですわ。ですが、次からは手袋をしなさいな」

「うんっ!」

彼らの純粋な眼差しに、わたくしの中のどろりとした記憶が薄らいでいくようでしたの。癒すという行為は、何も紅茶の中だけにあるものではなくて、こうして誰かの言葉や笑顔にふれて、心がほぐれていくことなのだと、今さらながらに思い知らされますわ。

「アナさま~! 見て見て! 昨日のミレーネちゃんが、お母さんと一緒に来てるよ!」

「まあ……それはお招きせねばなりませんわね」

わたくしは椅子を立ち、手にしていたティーカップを棚に戻しましたの。扉を開けて出迎えると、そこには昨日よりも幾分か血色の良くなった女性と、その隣に立つミレーネさんの姿がございました。

「アナさま……本当に、ありがとうございました……あの薬草茶を飲んだ夜から、ぐっすり眠れるようになりまして……まるで夢のようです……」

「それは何よりですわ。けれど、これはわたくしの香草ではなく、お母さまのお身体が正直に応じてくださった結果でございます」

「でも……あのお茶は、普通のものとは全然違って……香りも、味も、飲んだあとが、なんだか、こう……」

「ふふ、魔法ではございませんのよ。ですが、少しだけ、魔法に近いものかもしれませんわね」

「……すごい、やっぱりアナさまは、本当に“香りのお姫さま”だ」

「まあ、また新しい呼び名ができてしまいましたのね」

わたくしがそう言って微笑むと、子どもたちのうちのひとりがぽつりと、何かを思い出したように呟きましたの。

「ねえ、アナさま。あの倒れてたお兄さん、まだ寝てるの?」

「ええ、今は静かに休んでいただいておりますわ。お怪我が重かったのですもの」

「お兄さん、剣を持ってたよね。もしかして……悪い人に追われてるの?」

「さあ、それはわたくしにも分かりませんわ。けれど、命をかけてここに辿り着いたのだとすれば、それだけで、助ける価値はあると思っておりますの」

「アナさまって、ほんとに強いなあ……お姫さまなのに、ぜんぜんえらそうじゃないし……すごい……」

「えらそうですって? まあ、それは心外ですわね。ふふ、冗談ですわ」

笑い声が小屋の中に広がっていき、重苦しかった空気が少しだけ晴れていくようでしたの。

けれど、笑いの裏側では、あの男の言葉が脳裏から離れません。魔石庫の裏切り──あれは、王都の中でもごく限られた者しか知らぬ場所のはず。そこに関わる者が、わたくしのような辺境の者に接触するなど、よほどの理由があるに違いありませんわ。

もしかして、あの男は、わたくしを知っていて来たのではなく、何らかの意志でここへ導かれたのかもしれません。それは偶然ではなく、必然。いや、導きのようなもの。神々が采配したもの──まさか、そんなことが。

「アナさま? どうしたの?」

「いいえ、なんでもありませんわ。少し、考え事をしていただけですの」

「考え事? アナさまって、いつも何考えてるの? お茶のこと?」

「ふふ、それもございますけれど、たまには未来のことも考えますのよ。どんな香草を育てましょうか、とか、どんな一杯を誰に淹れようかしら、とか」

「やっぱりアナさまってすごいなあ……」

「わたくしにとっては、それが日常でございますもの」

そう答えながらも、わたくしの胸の奥では、微かなざわめきが燻り続けておりましたの。これまで、わたくしはあらゆる騒動から距離を置き、ただ静かに香りを楽しむことを選んできましたわ。

けれど──もし、あの男の持ち込んだ話が現実の火種であり、この世界を揺るがす序章であるのだとしたら。

それでも、わたくしは動くつもりはございませんわ。ただ、香りを整え、茶を淹れ、求められたときに応じるだけ。それが、わたくしの生き方なのですもの。

「アナさま、また明日も来てもいい?」

「ええ、お行儀よくできるなら、いつでも歓迎いたしますわ」

「わーい!」

そう言って駆け出していく子どもたちの背を見送っていると、ふと、小屋の奥から微かな声が聞こえてまいりましたの。

「……水……を……」

「まあ、目が覚めましたのね。いま、すぐにご用意いたしますわ」

カップにぬるめの水を注ぎ、そっと口元へ運ぶと、彼は弱々しくも確かに飲み干しましたの。その額にはまだ汗が滲んでおりましたけれど、目には少しだけ意志の光が戻っておりました。

「……ここは……どこ……?」

「辺境の湖のほとり。名前のない、小さな小屋ですわ」

「……あなたが……助けてくれたのか」

「はい、少しばかり香草の扱いには自信がございますので」

「ありがとう……本当に……俺、もう……ダメかと思った」

「死にかけた方にしては、ずいぶんはっきり喋れるご様子ですわね」

「……すまない……けど……まだ伝えなきゃならないことがあるんだ……」

彼の瞳がわたくしを捉え、まるで何かを託すような光を帯びておりましたの。わたくしはその目に、ほんの少しだけ抗いがたいものを感じてしまいましたの。

仕方ありませんわね。静寂を望んでいたはずのわたくしが、こんなにも簡単に、その予兆に心を揺らしているのですから。
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